両親を連れて、北見の伯父の葬儀を終えてきました。
北見の伯父は私の父の七つ上の兄にあたります。父と伯父は、二男三女の兄弟姉妹の男二人。
二人の両親つまり私の祖父母は、昭和9年に相次いで病死し、当時生き残っていた二男二女は親戚筋にバラバラに育てられました。
しかも残念ながら女の子たちは、ゼロ歳、15歳、30歳でそれぞれ他界していて、兄弟の中では男児二人だけが生き残り、伯父は享年94歳、父は87歳で存命中とどちらも長命の部類。
「先に死んだ姉たちの命をもらったんだな」と父は言っています。
実は父の半生って、断片的なエピソードは何度も聞かされたことがあるのですが、それを時系列できれいに並べたり、詳細な場所の特定などはしないままになっています。
今回の葬儀では、喪主を務めたいとこが詳細な個人略歴を作って会場で披露していたので、「よくあれだけちゃんと作れたね」と賛辞を送りました。
すると彼は「うん、何年か前に親父にインタビュー録音をして、メモを取るという作業をしていたんだ。あれがなかったらとても今日みたいにはできなかったな。あなたも機会を見てやっておいた方がいいよ」と勧めてくれました。
父の半生なんて、案外正確には知らないものです。ちゃんとまとめておこうと思いました。
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葬儀は浄土真宗のしきたりに則って行われました。
住職の法話の中で印象的だったのは、「なぜ私たちは阿弥陀仏を前にして合掌するのだろうか」という話でした。
「我々は両手を自由に使って好きなことをしているけれど、御仏を前にして手を合わせるとき、手はそれ以外のことはできない状態になる。人はいつでも自由と言うわけにはいかないのだ、という教えです。
そして手を合わせて合掌・礼拝し、目を上げた時にそこには個人のお顔とともにその後ろに阿弥陀仏がおられます。
『この不自由な世界のなかでお前は人生の始末を正しくつけられるのか?』という問いかけをそこに感じます。故人を通じて、弥陀の本願に触れるのです」
故人を偲び思う事は、我が身のこれからに関わってくるのです。
「お前はどうなのだ?」「それでいいのか?」
伯父の冥福を祈ります。お疲れ様でした。