あまり好きでない指揮者でも聴かなければならない時がある。
全てが洗われるような見事な怒りの日のエンディングをむかえたマンフレッドだけではない。
このプログラム・ビルディングを聴かないてはない。
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2007年6月23日(土)6:00pm
NHKホール
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ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番
チャイコフスキー/マンフレッド交響曲
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ピアノ、清水和音
ウラディミール・アシュケナージ指揮
NHK交響楽団
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2年ぐらい前から、N響定期は土曜の夜と日曜の午後の部が出来たが、この人気はどうなんだろうか。
静かな悪友S君は嫌がっていたけれども、ウィークデイに仕事を終わってからバタバタとホールに直行する日本の文化も捨てがたいけれども、こうやってゆっくり出かけるのもいいのではないか。だいたい半日つぶれてしまうけれども。
今日はプログラムもいいし、満員だ。
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ラフマニノフの3番は、ホロヴィッツの多数の録音を待つまでもなく、とにかく素晴らしいというのが、ラフマニノフの多量の他作品を聴いてきた人たちにはすぐわかるのではないか。
ラフマニノフは交響曲第3番とピアノ協奏曲3番が絶品。
双方ともその前に第2番があり世間的には人気のある曲だけれども、聴けば聴くほどこれら3番の味わいは深い。
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清水は風貌体型が昔とは別人の様相を呈しているが、ギロギロした目つきからは想像も出来ない几帳面な音づくりだ。やつす、という言葉は彼の頭にはない。
最初は譜面どおりの音作りが窮屈さを感じさせる。何か底の浅い音楽表現のように聴こえてくる。ひょっとして曲のせいかな、などとあらぬことも脳裏をよぎる。
楽譜通りの音符の長さ・並びがスリルを感じさせてくれない。四角四面で熱がこもっていない第1楽章であった。アシュケナージが棒なんか振らないで自分で弾けば、などと思いながら第2楽章を経て第3楽章へ突進した。
清水の音づくりは変わらないのだが、アシュケナージのあの肩肘はった棒の振りではあるがやたらと明確でわかりやすいのだ。さすが本人が完璧に弾きこなせる曲を振っているわけだから、熟知、以外の何ものでもない。
アシュケナージの棒から出てくるN響の音は非常に引き締まっており、バシッと決まっている。
特にブラスがきっちりとかみ合っており清水を側面、正面から盛りたてる。
淡々とした弾きで熱くなりそうもない清水ではあるが、熱くならなくても曲そのものが燃え始める。そしてオーケストラが熱く盛り上げる。不思議なバランス感覚の演奏ではあったが、それぞれ別方向を向いているのに、まとまる。
一つの楽器で多様な表現力を奏でることができるピアノ。でもその、やつす、表現はきれいさっぱりやめた清水。
オーケストラという、時としてコントロールできそうもない巨大楽器から、実に微妙で多彩な表現を引き出していたアシュケナージの棒。
もしかして、この曲、ピアノとオーケストラの総体として一つの作品が完成するのだということをアシュケナージは言いたかったのかもしれない。ピアニストに合わせたというよりも補完しようとする意思がはたらいたのかもしれない。
いずれにしても、ピアノ、オーケストラ、ともに濁りのない清らかで、それでいてヒートする演奏。
結果、大喝采の切れ味鋭い演奏であった。
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後半のマンフレッド交響曲は、生では初めて聴くかもしれない。記憶にない。
CDなどで聴く感じとはずいぶんと異なる。中弦のしなやかでナイーブな響きに耳を奪われたりするが、全曲にわたり短調が支配している。そのため、チャイコフスキー特有のブラスのすっきりする爆発のような箇所がない。ブラスのキザミ、爆発はあるのだがみんな短調であり不発気味に聴こえてくる。それに第1楽章から4楽章まで、聴きようによっては、うるさい、というか、なんだかあまり鳴りきらないブラスが欲求不満をつのらせる。
それに、致命的なのが、わかる節、がチャイコフスキーにしては、あまりない。主題構成、楽章間の主要主題再現による構成の緊密さを表現しようとしているが、メロディーに印象的なところが薄く、始終騒ぎ立てているように聴こえてしまうのだ。
それでもアシュケナージの引き締まった棒は、技あり、であり手ごたえのある曲に変えた。
音の整理整頓にとどまらず、色彩の変化、など巧みであり聴衆に一定の緊張を強い、かつ飽きさせない。見事だ。
最後のオルガンの清楚な響きへの場面転換の色彩の変化はあざやかというしかない。パイプオルガンの清らかな響きに導かれたウィンドアンサンブルが弱音を奏でるなか、非の打ちどころのない澄みきったエンディングをむかえた。
アシュケナージもやればできる。70歳にしてようやく指揮の極意を極めにかかったのかもしれないが、ここでN響との組み合わせを終えてしまうというのは、青天のへきれきではないものの構築されてきたものが元の木阿弥になるようで少しばかり残念ではある。
おわり
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