その相手は、自分が思っているよりも、こちらのことを深く考えていた、ということがある。
逆に、自分の思いの深さほど、相手は考えているわけではなかった、ということもある。
前者の場合、相手はどう思っているかというと、当然こちらも同じぐらい考えていてくれてる、と思う。
後者の場合、自分の思いと同じだけ相手も考えていてくれてる、と思っている。
これはなにも男女のお話に限ったことではない。
男同士、女同士、先輩後輩、上司部下、親子、親戚。
でも、そのとき、直面しているとき、は、そんなことはわからない。
考えることもない。
初対面の興奮は男女間の場合のとき、より大きい。
1896年にトスカニーニが初演のタクトをとってから、あしかけ3世紀経つラ・ボエームは、
第1幕中盤、ミミがコツコツとドアをノックしてから、劇の上では、約20分ぐらいでロドルフォに落ちる。
世の中、こんなに簡単に物事が成就するのなら、ローソクを1000本でも2000本でも買うなぁ。
オペラのストーリーというのは、事象を象徴的に表すので20分で落ちるケースもあるわけだ。
ディナーは、はやっているレストランで食べたいもの。
第2幕のイヴはゼッフィレルリのような華やかな演出のほうが、その前後との落差が明確であり印象的。
でもそのにぎやかさも、第3幕のシンシンとした情景の中、オーケストラが大きな弧を描いて悲劇の縁取りを形作っていくとき、すでに涙腺がゆるむ準備ができているのかもしれない。
そして第4幕、コラージョ。
ミミとロドルフォの思いは一致していた。命の長さはちがったが。。
ムゼッタとマルチェルロはどうだったのか。彼らはなにかお互いに外部の出来事により、
自分たちの思いのベクトルが同一方向を向いたりする。
その意味では、彼らは見られることにより愛を確かめ合っていたのかもしれない。
それを、見せかけ、というのはたやすい。
でも、それもひとつのかたち。
4人によるかけあいの第3幕の素晴らしさ、イタリアのオケでなければ絶対出ないような弦摩擦音のうなる音楽。
第3幕こそボエームの真骨頂。
ボエームの素晴らしは、生活は貧しいけれど、心の感受性にあふれた人たち、そして、お互いの思いの深さが見事に一致した人々、その思いが見るものの心を震わせる。何度でも。。
それにしても、思いの深さを理解できないまま、別れるのはつらいと思う。
深ければ深いほどよい、というものではないが、少なくともそのようなことを相手は考えている、ということを真剣に理解しなければならない。
思いの深さが違っていることを相手だけが認識し、それが別れの原因なら、悲劇はボエームどころではない。
おわり