恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

死をめざして生きる

2020年01月20日 | 日記
 仏教のまとまった戒律として最も古い「パーリ律」を見ると、殺人について次のように述べています(「人体戒」)。

「いずれの比丘であっても、故意に人体の生命を奪うならば、あるいはそのために殺害の道具を持つ者を求め、あるいは死の美を賛嘆し、あるいは死を勧めて、『ああ、君よ、この悪しく苦しい生は、あなたにとって何の役にたつのか。死はあなたにとって生に勝るだろう』と言い、そのように思い、そのように決心して、いろいろな方法で死を賛美し、あるいは死を勧めるなら、これは波羅夷罪であって、(これを犯す者は)共に僧団に住むべきではない」

 条文解釈の部分では、「人体」に胎児が含まれています。「波羅夷罪」は教団追放になる仏教の最重罪を言います。
 
 これを一読すると、殺人、殺人教唆、堕胎の実施、自殺教唆が禁止されていることは、すぐにわかるでしょう。安楽死や尊厳死が許容されるかどうかは微妙なところでしょうが、少なくとも積極的に肯定しているようには思えません。

 条文には自死の禁止が明文では見られませんが、殺人に自死が含まれていることは、戒律制定の機縁の話からして当然でしょう。それは次のようなものです。

 釈尊が弟子たちに不浄観という修行を勧めます。この修行は、死体が腐敗していく様子をつぶさに観察して、自らの欲望を克服し、その虚しさを悟る、というものです。
 釈尊の留守中、弟子たちは非常に熱心にこの修行をした結果、わが身を嫌悪して自死したり、お互いに殺しあったり、依頼して殺してもらうような者が続出したのです。帰ってきた釈尊は、この惨状を目の当たりにして、戒を定めたというわけです。

 もう一つの制定理由は、ある修行僧たちが、病床にある在家信者の美しい妻を奪おうとして、死を賛美して信者に自死を勧めるという、とんでもない非行があったからです。

 いずれにしろ、この戒においては、他殺と自死の教唆は明文の禁止、自死については、戒制定の機縁話からして、「故意に人体の生命を奪う」行為に含まれ、禁止でしょう。

 ところが、初期経典には、修行僧の自死を釈尊が肯定的に評価するものが出てきます。いずれも釈尊の弟子で、チャンナ、ゴーディカ、ヴァッカリのケースです。

 このうち、チャンナとヴァッカリは重篤の病苦から、ゴーディカはどんなに修行に励んでも解脱できないことに絶望して、自死してしまいます。

 そのとき、釈尊は3人の自死をこう評価します。
 チャンナについては「非難されるべきことなく」自死したのだと述べ、ゴーディカは「やすらぎに帰した」「ニルヴァーナに入った」「妄執を、根こそぎえぐり出して」「完全に消え失せた」とされます。ヴァッカリももまた、「パリニッパーナしたのだよ」と語られています。

 これら初期経典の評価は、どう考えてもパーリ律の条文と矛盾するでしょう。そこには明らかに「揺れ」、ないしは「ブレ」があるのです。

 しかし、私はこの「揺れ」「ブレ」はあって当たり前だと思います。と言うよりむしろ、ここにこそ仏教の思想的なユニークさを見ます。

 仏教の究極の目的はニルヴァーナです。これについては、すでに何度も言及したように、どのような状態を言うのか、経典に一切具体的な記述がありません。とにかく、経典からわかるのは、少なくとも外形的には、あるいはブッダ以外の者にとっては、ニルヴァーナとは「ブッダの死」なのだということです。

 すると、ブッダとは「死をめざして生きる」者ということになります。換言すれば、自己の存在が死によって意味を持つような生き方をする者、です。

 その死によってのみ肯定される生。このような桁外れなアイデアは、およそ仏教以外の宗教や思想には見られません。私はここにこそ、「自己」という様式を持つ実存を凝視する、深く透徹した眼差しを感じます。