恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

垂直の孤独

2019年09月30日 | 日記
 単に一人でいることだけでは、孤独とは言えないでしょう。わかってほしいという思いがあっても、それを伝えられる相手がいないとき、わかってくれる人がいないと感じるときに、はじめて孤独になるのです。

 ですから、わかってくれる(わかってくれると思われる)相手が現れるなら、この孤独はほぼ解消するのでしょう。私に言わせれば、これは「横の孤独」です。

 これに対して、世の中には「縦の孤独」があります。それは、もはや他人に伝えたくても伝えようのない、隔絶した孤独です。死を前にした人間の孤独こそ、まさにそれ、「縦の孤独」でしょう。

 死が何であるか、原理的にわからない以上、それを「伝える」ことも原理的にできません。「死」を前に「自己」と呼ばれる実存は完全な単独者となるのであり、その孤独は誰にも共有できません。

 この「縦の孤独」に耐えられないなら、「わからない死」をわかる物語に仕立て直して「横の孤独」に変え、物語を共有することで孤独を解消するしかありません。東西の宗教的言説が果たしていた役割は、まさにこの物語の制作でしょう。

 しかし、「ニルヴァーナ」を標榜する仏教は、「わからない死」を「わかる物語」にしません。わからないままそれを受容することを、仏教は求めているのです。とすれば、我々は「縦の孤独」を自ら切開し、それまでの自己の実存の仕方を変更することで、その求めに応じなければならないでしょう。「修行」とはそのプロセスなのです。