最近、写経がちょっとしたブームになっています。もともと、紙や筆記道具がまともになかった時代、釈尊の言葉とされた経典は、丸暗記によって伝承され、広まりました。その後、活字印刷の発明までは、経典の書写こそ、伝承と布教に決定的な意味を持っていたのです。ですから、諸経典の中で写経の功徳が大いに讃えられているわけです。
これまた最近流行している寺社仏閣の朱印集めですが、ご存じのとおり、元はと言えば、写経を奉納したことの証明書であり、ただのスタンプラリーではありません。
昨今の写経は、一種の「癒し」系行事になっています。実際、やった人の多くが、「疲れたけどスッキリした」というような感想を述べます。
上述のように、写経は本来「スッキリ」するための行為ではありませんが、そういう効用が副産物としてあることは事実です。
たとえば、恐山では、お経を印刷した台紙の上に和紙を置き、これを筆ペンでなぞるという、簡略化した作法で写経していただきます。
これを実際にやっていただくと、皆さん非常に真剣に、一生懸命取り組まれます。いわゆる「集中している」状態です。これがどうして「スッキリ」感になるのでしょう。
私が思うに、写経が「自由」を奪っているからです。
写経は、することもその手順も、あらかじめ完全に決まっています。それをする者は、決められたとおりに行うだけで、選択の余地がありません。選択可能性が「自由」の内実だとするなら、「自由」の余地がないのです。
選択するということは、迷うことです。迷うこととは考えることです。つまり、自由であるためには、迷い考えるストレスを精神的コストとして受忍する覚悟がいるのです。ということは、「自由」を奪われることは、同時にストレスからの解放を意味するわけです。
写経の「集中」は、この解放を可能にします。それが「体は疲れたけれど気持ちはスッキリ」に通じるのでしょう。道元禅師が坐禅について言う「万事を休息する」ことの意味に、この「スッキリ」も含まれていると、私は思います。
私は政治的社会的「自由」を尊重すべきものと考える立場ですが、その「自由」を維持するためには、「自由」のストレスを緩和しなければなりません。このストレスが溜まりに溜まると、「自由からの逃走」(という題名の有名な本があります)的事態になりかねません。
そうならないために重要なのは、自らの選択として「不自由」を選び、自らの選択として「不自由」を解除できることです。いわば、「自由であるために不自由であることの自由」を確保すべきでしょう。
この矛盾に満ちた在り様は、結局、自らの選択で生まれてきたわけではない、つまり原理的に不自由な存在が、それでも自由であろうとすることの、切ない意志の宿命でしょう。