恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

自殺について

2011年08月20日 | インポート

 このブログでも何度か言及したと思いますが、自殺を否定する道徳的・論理的根拠はありません。どんな理由を説明されようと、自殺を決意した人は自殺するでしょう。このこと自体、自殺を理屈で否定することの無意味さを暴露しています。

 自殺についてとりうる唯一の態度は、するかしないかの根拠なき決断だけであり、したがって、自殺志願者への「しないように」という説得は、「してはならない」という論理ではなく、「しないでほしい」という懇願で行う以外にない、ということになります。

 死にたければ勝手に死ね、という考えもありましょうが、私はこの考えは非常に危険だと考えています。なぜなら、私は自殺をしないという決断だけが、人間における倫理の根拠であり、あらゆる「善」を可能にする条件だと思うからです。

 自己が他者に由来すると考えるなら、「善」とは、そのような自己の在り方を受容し、肯定し、他者との関係を充実させていくことを意味するでしょう。

 すると、自殺は、単なる自己の否定ではなく、自己が由来する「他者」それ自体の否定になり、それはすなわち、「善」なり「倫理」の成立条件を一挙に破壊する行為になります。

 これは「自殺は悪いことだ」という意味ではありません。私が言いたいのは、自殺はそもそも善悪の判断そのものを無意味にしてしまう危機的行為だということです。

 この意味で私は、他殺より自殺の方が危機的だと思います。なぜなら、他殺ならどのようなものであれ、対象は限定され、そこに殺す意思があり、その意思には理由があります。したがって、他殺は、極限的な形式であるにしろ、人間の関係の仕方なのです。だからこそ、その関係の仕方が問題となり、「悪」と認定されれば、倫理的あるいは法的に裁かれるわけです。

 ところが、自殺は他者との関係性それ自体の否定であり、関係性の当否を判断する役目を負うはずの倫理が存在する余地をなくしてしまいます。

 自殺は「悪」ではありません。だから私は自殺した人や、自殺したいと思う人を責めも否定もしません。しかし、我々がこの世に「善」を望むなら、「自殺しない」と決断すべきだと、私は思います。