以下は、ある寺が主宰する坐禅会の記念誌に寄稿したものです。こういう話は珍しいでしょうから、転載してみます。
坐禅という道しるべ
〇〇寺様の参禅会が三十周年を迎えるのだそうで、まことにおめでたい、また一曹洞宗僧侶として、ありがたいことだと思う。
副住職さんとは永平寺の入門が一緒で、その縁もあってか、会員の皆さんの前で話をさせていただいたり、ご一同がはるばる恐山まで参拝に来て下さったりと、今では何だか他人という気がしない。
そこで、方々で行われている坐禅会の様子を時々見聞して、私が個人的に感じていることを、この機会に聞いていただきたいと思う。
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以前、あちこちのお寺で参禅経験があるという初老の人と話をしていたら、彼がこんなことを言った。
「南さん、坐禅というのは人を傲慢にしますな」
これはおかしいだろう。普通は、坐禅を続けていれば、「我がとれて傲慢でなくなっていく」という筋書きになるはずである。
ところが、彼は逆だと言うのである。
「私は最初、勉強だと思って、いろいろなお寺の坐禅会に参加していました。しかし、そのうち通うのをやめて、家で坐禅を続け、折に触れて知り合いのお坊さんに直接指導してもらうようにしたのです。実を言うと、お寺の坐禅会もいいのですが、かなりの割合で、だんだん居心地が悪くなっていくのです」
坐禅会の「居心地」とは何のことだろうと思っていると、
「それというのもですねえ、どの参禅会に行ってもたいてい、何というか、すでに五年十年坐ってます、みたいな『古株』の人がいるんです。お寺によってはこの人たちが初心者の指導を任されているところさえあります。それはそれでよいのですが、どうかするとですね、彼らがときとして、初心者とか新参の者に対して、なんとなく尊大な、横柄な感じになるんです。本人は気がついていないかもしれません。しかし、初心者や新参の者にはそう感じることが多いのです」
彼は私の表情を伺うようにして、ニヤッと笑った。
「もうひとつイヤなのはですね、四十人、五十人くらいの大きい参禅会になると、住職や指導してくれる和尚さんをめぐって、派閥みたいなものができてくるんです。それで寵愛を競うみたいな。ね、イヤでしょう」
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思い当たるフシがある。何も参禅会に限らない。修行僧と師家(指導者)が集まる道場でも似たようなことがある。どうして、そんな馬鹿々々しい話になるのか。
まず思うのは、「尊大」になる人というのは、坐禅をすることがとても立派なことだと思い込んでいるのではないかということだ。なぜ立派かというと、坐禅が「宇宙の真理」や「真実の自己」などと称する、さらに立派なものに到達すること、あるいはその立派なもの自体になることだと、考えているからだろう。
だから、それを教えてくれる指導者は大事なのであり、その人から「親しく」教えてもらうことは、「特別待遇」になるのだろう。
「尊大」な人がこのとおり意識しているかどうかは別としても、こういう構図があるだろうし、それがないかぎり、少なくとも「派閥」なんぞはできないだろう。
正直くだらないなと、私は思う。「宇宙の真理」や「真実の自己」というアイデアを否定しようというのではない(賛成もしないが)。しかし、たとえそれらがあったとしても、「宇宙の真理」を知ったら「尊大」になり、「真実の自己」になったら「派閥」ができましたと言うのでは、出来の悪い冗談である。
坐禅を続けていたら、気持ちが安らかになり、人に優しくなれましたというなら、私もわかる。そして、それで十分だろう。
生きていれば、悲しいことも苦しいこともある。自分の努力でどうにかなることも、ならないこともある。そういう必ずしも簡単でない人生を、ともかくまともに歩いていこうというときの、その道しるべがお釈迦様や道元禅師の教えであり、坐禅もまたそうである。これさえやっていれば万事OKという「ゴール」ではないのだ。
私は、〇〇寺参禅会の皆さんが、坐禅を通じて、何かしら生きるのが楽になり、ご自身をめぐる人の縁を豊かにしていけることを、心から願っている。また、方丈様も副住職の彼も、同じ気持ちだろうと信じている。
まあ、何事であれ、直立二足歩行して言葉を話す動物が考えたりやったりしていることを、それだけがすべてであるかのように大げさに崇め奉ることは、まず間違いの元であり、よしたほうがいいと思います。
追記:次回の講座「仏教・私流」は、11月29日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川別院にて、行います。