恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「中」のバランス

2006年10月12日 | インポート

 7・8・9日は、恐山の秋期祭でした。夏の大祭同様、悪天候で残念。台風と合体した低気圧のせいで、期間中は大雨と強風に見舞われ、それにもかかわらず参拝いただいた方々には本当にお気の毒なことでした。来年はなんとかよいお天気に恵まれるように祈るばかりです。

 その秋期祭直前、私は東京で哲学者の内田樹(うちだ・たつる)先生と対談する機会がありました。レヴィナスの研究などを土台に、社会的な問題にも鋭い思索を展開される先生については、いくつかの著作を通じてお名前だけ存じていまいたが、お会いするのは初めてでした。なんとなく、眉間に皺を寄せた感じの、厳しいお人柄の人物かなと思っていたら、さにあらず。元気な横丁のお父さん、みたいな方でした(先生、失礼!)。

 ずいぶん長いこと合気道を修行されているそうで、無駄の無い、実にスッキリした容姿をしておられ、肉体的にも知的にも体力がみなぎっている感じがしました。

 対談は3時間に及び、談論風発、久しぶりに爽快・愉快な気分を味わいましたが、最中、特に印象に残った先生の言葉に「バランス」があります。私が、「レヴィナスの研究者なんて聞くと、こう陰陰滅滅とした感じの人かなと思ったりしますが、先生は全然違いますね」と言うと、

「うーん。ぼくは何であれ偏るのがいやなんでね。たとえば哲学の難しい本をしばらくうんうん言いながら読んだら、今度は合気道なんかやって、体を使うんです。そう、こっちの端と向こうの端を振り子のようにゆらゆら揺れながら、バランスとってる感じかなあ」

 私は、なるほどなぁと思いました。仏教には「中道」という教えがあり、儒教には「中庸」という言葉があります。この「中」は、右と左を足して二で割った真ん中に立つ、というような静的で単調なものではないのでしょう。むしろ、先生のような実践、つまり、進むべき方向を目指してダイナミックに揺れながら、様々な問題に直面しつつ、心身の軸線を見出していくような営みなのかもしれません。

 この対談は、新潮社の『波』という雑誌に掲載される予定です。