恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

お盆だ、暑いよ

2006年08月06日 | インポート

 福井に帰ってきました。お盆です。暑い! ほんの5、6日前、恐山は、朝がまだヒンヤリしていました。寒がりの私などは、ストーブ点けようかな、と思ったくらいです。ところが、2、3日前から、突然晴れて温度急上昇、30度近くなり、福井に来てみたら、今日は35度です。今年のお盆は、檀家さんまわりがキツイかもなあ。

 私の寺は、今日が檀家さん総出の大掃除の日。7、8日と諸準備があって、9日夜に境内の「三界万霊等」塔の前で供養を行い、これを皮切りに16日の「山門施食法会」まで、お盆の法要が続きます。県外で働いている家族や親族も戻り、檀家さんはどの家も急に人数が増え、この期間はお墓参りの人が途絶えません。

 私もこの寺に住職して11年目ですが、お盆の様子は毎年変わりません。いつもと同じ光景が、寺で、お墓で、檀家さんの家でも繰り返されます。おそらく生きている「伝統」とはこういうものでしょう。

 ところで、最近、しばしば「国を愛そう」とか「日本を愛そう」とか声高に言う人を見ますが、彼等はそもそも何を愛そうというのか、私にはよくわからないことがあります。

 以前「愛国者」を自認する若者と話しをしていて、「国の何を愛するのか」と訊いてみたら、面食らったような顔をして、一瞬口ごもり、「・・・文化とか、伝統とか・・・」と言いました。そこでさらに、「どういう文化や、伝統か」と言うと、もう何も答えないのです。

 思うのですが、「愛する」という感情は、人であれ、物であれ、具体的なものにしかまともに働きません。「国」だの「文化」だの「伝統」だの、抽象的な概念に対する愛は、要するに自分の考えを愛するのでしょうから、結局はナルシシズムと同じことです。自分の容姿を愛するにしろ、考えを愛すにしろ、自己愛に変わりはありません。

 私の経験では、「愛国者」で日本の具体的な伝統文化に深い造詣を持っている人は極めてまれです。ほとんど知らない「愛国者」の方が多いような気がするのですが、私の偏見でしょうか。近頃、日本の伝統・文化に「武士道」を挙げる人がいますが、武士が兵士としての実質的な役割を失った江戸時代の、一地方で編集した封建道徳だけを持ち上げて日本の文化・伝統を代表させるのは無理でしょう。日本の文化・伝統は、それほど底が浅くはないはずです。

「愛する」と言うなら、「浮世絵を愛する」とか、「華道を愛する」とか、「柔道を愛する」、「宮崎アニメを愛する」というふうになるのが自然でしょう。ですが、そうなら、「愛する」などと大げさに言わなくても、「浮世絵が好き、華道が好き、柔道、宮崎アニメが好き」でよいのではないでしょうか。

  そして、さらに言えば、好き嫌い以前に、当たり前の習慣として生きているお盆のような「伝統」は、これまた「愛する」までもなく、愛するまでもないがゆえに、これぞ確かな「伝統」なのだと思えるのです。


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7 コメント

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 詳しいコメントを頂いたのに、短い内容で恐縮で... (院代)
2006-08-16 09:10:53
 詳しいコメントを頂いたのに、短い内容で恐縮ですが、院代よりもう一言。

 私も「愛する」が自然な感情の領域なら結構だと思うのですが、議論や主張のテーマとなるなら、「定義」が要るのではないかと考えます。つまり、「愛すべきだ」の領域です。

「愛する」感情と「愛すべきだ」という「なすべき」行為の間には、大きな隔たりがあります。この間を連絡するには、きわめて注意深い議論が必要ではないでしょうか。

 ナルシシズムの問題も、「なすべき」の議論に強く作用するとするなら、これは用心すべきだと思います。
「可能な限り」と言ったのは、私も感情としてのナルシシズムから完全に離脱することは不可能だと考えているからです。

 さて、恐縮ですが、このコメントにご意見を頂いた時点で、ブログ内での「愛国心」議論を終わりたいと思います。この話題が盛り上がりすぎると、後の記事が書きにくくなりそうなので。あしからず。
 ご意見を頂いた方、ありがとうございました。
 最後に、言うまでもないことですが、ここに掲載した私の考えは、「恐山」本体とは何の関係もなく、個人的な意見表明です。
 
返信する
下記の部分、訂正します。 (る・る・)
2006-08-16 07:26:18
下記の部分、訂正します。

>他の人間と、愛する対象である「妻」という一人の人間のどういう部分をどういう理由で愛するのか、事細かに説明できますか?

        ↓

他の人間と、愛する対象である「妻」という一人の人間の
どういう部分をどういう理由で区別し、愛するのか、事細かに説明できますか?
返信する
南さん、コメントありがとうございます。 (る・る・)
2006-08-16 03:50:28
南さん、コメントありがとうございます。

「国」には大きく分けて、二つの意味があると思います。
政治的、或いは法的意味での「国」 と、「祖国」、「母国」という言葉で表されるような、郷土的意味合いでの「国」です。

先のコメントで私が指したのは、主に郷土的意味合いでの「国」です。この場合、その指し示す「国」に明確な定義が必要でしょうか?

郷土を愛する、母国を愛するといった場合・・・・・(先日のコメントの繰り返しになるので、この先は省略します。)


>よくわからないものを「愛する」ことは難しいと思っているのです。

南さんはこうおっしゃいますが、ならば、愛する妻、子を厳密に定義できますか?
「固体」としてはもちろん明確ですが、他の人間と、愛する対象である「妻」という一人の人間のどういう部分をどういう理由で愛するのか、事細かに説明できますか?
自分の「妻」がどういう人格で、どういう容貌で、どういう出生で・・・それを明確に説明し、「だから愛しているのだ」と、説明できるのでしょうか。
仮に説明したとして、その説明に全て納得し、説明できるような愛し方をされていることに、その対象である妻、奥さんは不満を覚えたりはしないのでしょうか。

愛するとはそんな理詰めのものではないのではないかと思います。

同様に日本人にとっては、「国」とは幸いなことに、領土と民族とが長い年月に渡ってほぼ一定しており、「固体」としてはあらためて意識する必要を感じないほどに明確なものではないでしょうか。
その明確な「国」を愛するのに、「国」のどの部分をどういう理由で愛するのか一々説明が必要でしょうか。


>父母と国籍が違う場合や、外国人の女性に恋した場合など

この様な人が日本に何パーセント存在するのでしょうか。
まだまだ非常に例外的であるこの様な存在を持ち出すのは適当であるとは思えません。
もちろん、こういった“例外”も個別に考えれば、それなりの結論を出すことが不可能ではありませんが、ここでは論じません。


さて、他の国々と比較して、「国」というものを取り立てて意識する必要のなかった日本では、国を愛すること、または「愛国心」を鼓舞する必要もまた、長らく無かったのだと思います。
「自国」は「他国」との対比の中で感ずるものだと思うからです。

南さんがおっしゃるように、

>好き嫌い以前に、当たり前の習慣として生きているお盆のような「伝統」は、これまた「愛する」までもなく、愛するまでもないがゆえに、これぞ確かな「伝統」なのだと思えるのです。

「国」もまた、そして、「愛国心」もまた本来、この「伝統」と同様に感じられているものだと思います。

では何故今、「愛国心」を、教育法でしたっけ? 
法律の中に盛り込まなくてはならなくなったのか。
国民の大部分が、「わざわざ意識する必要もない」と思うくらいに当り前と思っていた「国(祖国)を愛する気持ち」を脆くボロボロにしてしまったのが、戦後ずっと続いてきた反日的教育なのです。

良いか悪いかはさて置いて、ワールドカップやオリンピックの熱狂を見れば判るとおり、祖国、母国、郷土を愛する気持ちは万国共通、ごく自然で当たり前なものです。

その「当り前」がズタズタに切り裂かれてしまっているような状態が、今の日本です。

1995年、当時、中国の首相だった李鵬氏は、オーストリアを訪問し、ハワード首相と会談した際、「日本は国じゃない。20年後には消えてなくなっているだろう」
と発言したそうです。 (参考:『日本の敵は日本人』前野徹著)

他国から見れば、そう見えるのでしょう。

一方で、「自由の国」アメリカ合衆国では、幼稚園でさえ、毎朝国家を歌い、国旗に忠誠を誓わせるのだそうです。
人工国家、モザイク国家、人種のサラダ、といわれる国では、そうしなければ国体をきちんと維持できないのでしょう。
逆に言えば、そうしてまで、国体を維持し、国を守っていこうとしているということです。
それが「世界の常識」のようです。

ところが、祖国を愛する気持ち、祖国に誇りを持つ気持ちをズタズタにされた日本では、教師自らが、あるいは校長が先導を切って、国旗掲揚、国家斉唱を廃止しようとまでしている現状です。

こういう状況、国家崩壊へ向う転落一歩手前のところで、何とかそれを食い止めようという苦肉の策が、「愛国心」の法への摘要なのです。


「国」とは、各人の心の中に存在する「母国」「祖国」とは別に、法によって定義され、護られる、国際社会の中で他国との境界を明確にする意味での「国家」があります。

また、内側から見れば、家族、親族、地域社会の延長線上にある共同体という側面もあるのではないでしょうか。
そこで、自らを愛さずに、家族を愛さずに、共同体を愛さずに、その一員として、上手くやっていけるのでしょうか。

更に言えば、いくら国際社会だ、ボーダーレスだといって、隣りの家族と家計を共有できるのでしょうか。

隣りの家族と家訓を共有できるのでしょうか。

それは非常に難しいことではないでしょうか。

まずしっかりと調和の取れた家庭内環境を整えた上で、他の家族との交流を持つことが不自然なことでしょうか?
全くそうとは思えないのですが。

何故それがわからないのでしょうか。
こういうところに、未だがっちりと「洗脳」に犯されているらしき影が見える気がするのです。


まだありました。

「まともに愛する」について、
>「愛する」という行為が可能な限りナルシシズムから離脱している、ということを念頭に使いました。

「可能な限り」とは、どの程度のことでしょうか。

「愛する対象」や、「理由」を明確に示すべき、と一方で言っておきながら、他方で「可能な限り」との明確さを欠く定義を示され、理解が追いつきません。

「愛する」とは本来ナルシシスティックなものではないでしょうか。
慈愛は別かもしれませんが、
異性愛はもとより、親子愛も自己愛の一種ではないでしょうか。
それが生物としての本能であり、自然なことだと思います。
それが社会との兼ね合いにおいて、バランスを崩せば不都合が生じますが、それは状況に応じて判断するもので、一般論として一概に定義できるものではないのではないでしょうか。

そして、「ナルシシズム」そのものを悪く捉えている所にまた、「洗脳」の片鱗を見る思いがするのです。


私は南さんを非難するつもりでこんなことを言うのではありません。
ただ、南さんのような立場で、外に向って発言されると、無条件にそれを受け入れてしまう人が少なからず存在するのではないかというところを危惧しています。

また、南さんが度々、今の荒廃した社会の改善に、仏教(あるいは宗教)が大きな役割を果たすというようなことをおっしゃっているのを目にした気がするのですが、この荒廃した状況を生み出したものが何であるか、私はかなり明確に指摘することができると思っています。

仏教が果たせる役割も無いではないとは思いますが、もっと明確で具体的に示すことのできる原因があり、原因が示せれば、自ずとその改善策もより具体的に示すことができるのではないかと感じています。

ですから、今回のような発言をされるなら、まずはそれを南さんに知っていただきたいと思っています。

その上で、南さんの専門分野で、こちら側の足りない所を補う助けを貸して頂けたらと強く願っております。

その意味で、突然ですが、一度、直接お話する機会をつくってはいただけないでしょうか。
まずはメールを頂けたらと思います。

私はかつて、永平寺の参禅で南さんにお世話になったことがあります。
また、仏教私流でお目にかかったこともあります。









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「仏教・私流」はどうなったのかなぁ…と思い、連絡... (Buddhist)
2006-08-14 23:28:31
「仏教・私流」はどうなったのかなぁ…と思い、連絡元のかたのブログを見て、こちらを知りました。

東京での坐禅会や講義に参加していたので、南さんの言われる「愛国心」…解る気がします。

「武士道」を挙げる人の(本)も読みましたが、基準の解らない伝統や文化…というのが感想です。
何しろ、私自身伝統や文化に関わる仕事を以前していたのでいろんな意味で底が浅いというか…

話は変わりますがブログの文章を拝見して、南さん丸く(体形がじゃなく)なられたのかしら?なんて感じました(笑)
勿論、坐禅会や講義に参加していただけなので私は南さんのことは何も知らないのと同じなのですが…

今後も、このブログ楽しみに拝見させていただこうと思います。
返信する
 ブログ筆者より「愛国心」について、若干の補足を。 (院代)
2006-08-14 15:38:26
 ブログ筆者より「愛国心」について、若干の補足を。

「洗脳」された世代、と言われればそういうところがあるのかもしれませんが、私は特に「愛国心」を拒否しようとしているわけでもないのです。ただ、よくわからないものを「愛する」ことは難しいと思っているのです。

 さらに言うと、よくわからないものを「愛せよ」と命令されて愛することは、ほとんど誰にも不可能ではないでしょうか。

 少なくとも「国」という言葉で何を意味しているのか合意していないと、議論はどこまでも迷走してしまうでしょう。

 その点、「己の事」はともかく、「国」とは、妻や子供、家族、父親・母親、恋人のことだとなれば、これ以上「具体的」な対象もないでしょうから、「愛する」ということも実によくわかるわけです(「理由抜きで愛する」ということも含めて)。ですが、これらをそのまま「国」とイコールにできるのでしょうか(故あって、父母と国籍が違う場合や、外国人の女性に恋した場合など)? 

 仮に本当にイコールなら、ことさら
「国」を持ち出さなくてもよいような気が・・・。

「まともに愛する」という言葉の意味についてご質問がありましたが、これは「愛する」という行為が可能な限りナルシシズムから離脱している、ということを念頭に使いました。
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栴檀屈さんと同感。 (る・る・)
2006-08-13 21:03:57
栴檀屈さんと同感。


母親に対する愛情に理由がいるのでしょうか。
父親に対する愛情に理由がいるのでしょうか。

両者を愛する際に、その理由となる「具体的な部分」を示す必要があるのでしょうか。


「「愛する」という感情」 が、 「まともに働く」 とはどういうことをおっしゃっているのでしょうか?


「愛国心」という言葉に拒否反応を示すのは、「東京裁判史観」 に犯された(或いはそれを利用した)、日教組に代表される教育界、言論界、等々の左翼的組織による働きかけの賜物です。

その裏には、「国家を転覆させよ」という、
コミンテルンのテーゼが潜んでいます。

  [一流紙といわれていた、『朝○新聞』はその代表的
   な新聞でもありますが、長らくその社説は、「入試
   に引用される」ということで、受験生には必読とも
   いわれていました。]

それらの蔓延する中で教育を受けざるを得なかった世代にとっては、「洗脳」と言っても過言ではないかもしれません。




かつて、南さんの書かれた『語る禅僧』を読み、そのときにも南さんの思考の中にその影響の残っているのを感じたことがありました。

著書から知った、南さんを取り囲む環境から考えると、それも無理からぬことだとも感じましたが、

南さんのような聡明な方が未だその「洗脳」から抜け出せないでいるのはとても残念なことだと思っています。

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国とは、己の事。 (栴檀屈)
2006-08-08 15:02:11
国とは、己の事。
国とは、愛する女性の事。
国とは、大切なわが子の事。
国とは、築きあげた家族の事。

愛国心とは、それらが冒されることを護る事。
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