恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「無為」の稽古

2020年04月10日 | 日記
 いま世の中を一瞥して改めて思うのは、我々と我々の社会が、かくも広く深く労働に支配されているという、当たり前と言えばあまりに当たり前になってしまった事実です。

 この疫病の猛威の中、病に倒れるのでもない限りは、本当に多くの人々が、大なり小なり命を危険に曝しつつ、それでも仕事(仕事に就くための勉強)から安心して離れ、休むこともできないのです。

 テレワークというのは、いわば「プライベート」に堂々と仕事が侵入し、拘束していくことでしょう。

 考えてみれば、近代以後の社会では、「プライベート」と言われる時間そのものも、その正体は「労働力」を補充し再生産するために使われているわけで、そもそも労働過程に組み込まれています。

 労働のために拘束される時間(通勤・休憩など含む)まで含めれば、おそらく1日10時間程度を、1年を通じて費やさなければ社会など、近代以前にはありません。ある意味、異常な社会です。

 農耕や狩猟を生業の中心とする社会では、善し悪しはともかく、それほどの時間をぶっ通しで働く必要も可能性もありませんでした。農耕の場合、冬になれば作物は育たない以上休まざるを得ず、狩猟は我々のようなコンスタントで一定の労働を必要とする訳がありません。つまり、「無為」の時間が社会に当然の習慣として組み込まれていたのです。

 この「無為」の時間を「労働」の時間に染め変えていくことによって、「文明」は発展し、近く100億の人口を見込む現代社会を構築しました。

 それは地球上の生態系を変え、気候の変動を惹き起こし、いまや「文明」と「自然」は折り合いがつかなくなりつつあります。

 今回の疫病蔓延も、あるいは、以前ならジャングルの奥深くに潜んで、穏やかに動物と共存していた「自然」なウイルスが、進出してきた「文明」の欲望によって安住の棲家を奪われた結果かもしれません。

 そしてこの期に及んでもなお、「労働」に侵された我々は、この文明史的「危機」を「人類の英知と努力」、つまりさらなる「労働」で解決しようとしているように見えます。

 私が今考えるのは、別の方法がないかということです。我々には「無為」の時間を取り戻すという方法もあるのではないか、そう思います(人が不幸になるのは、往々にして、必要なことをしないからではなく、余計なことをするからです)。

 たとえば、この疫病禍にあっては、「おうち」でとことん無為にすごすことができるように、為政者も我々も考え方と生活を変えたらどうでしょう(現政権は思い切った現金給付と医療関係機関への資源投入で、人々をとりあえず休ませろ!)。

 特に何もしない、しなくてもよい、経済的な利益も効率も無意味な時間を確保し、その時間を生きる方法を我々は見出すべきあり、為政者はそのための条件を整えるべきではないか。

 それは、「労働」こそが生きる意味と個人のアイデンティティーを規定する社会の在り方を、再検討する視座を我々に与えるでしょう。

「労働」によって駆動してきた「文明」は、現代に至って、機械が人の「労働」を大きく代替する時代を迎えつつあります。

 ならば、「無為」であることの練習は、今や我々のリアルな課題となりつつあるのではないでしょうか。
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