私の知人に、お母さんが認知症の方がいます。その症状が、おそらく前方向性記憶障害と言われているものの一種ではないかと思います。
このお母さんの場合、過去の記憶も家族の認知も確かですし、話の筋も通っていて、日記も書いています。ただ、ある時点(認知症発症の時点でしょう)から以後、まったく記憶が積み上がらず、直近の記憶が2、3分ですっかり消えてしまうのです。
最近では、骨折したことも、入院したことも忘れたんだそうです。
「なんで、こんなとこにいるのかねえ?」
「おばあちゃん、骨折したのよ。ここ病院」
「あれえ、そうなのかい。だから足がぐるぐる巻きなんだね」
しばらくするとまた、
「・・・なんで、こんなところにいるのかねえ?・・・」
こんな調子。短時間の痛みは忘れてしまうので、ずっと同じ痛みが途切れず続いて初めて、「痛い」らしいのです。
日記も、まさに書いているその時に見たり聞いたり感じたりしたことだけが、箇条書きのような文章になっていると、知人は言います。
すると、結果的に彼女は、不平・不満・不安をほとんど持たない状態になっているはずです。もちろん、時々、気に入らないことがあるとその瞬間、「もうやだ! 死んだほうがまし!」とキレることもあるという話ですが、直後に忘れて、またニコニコしながらテレビを見ているのだそうです(見ていると言うより、映像と音声の流れを追っている)。
では、このような彼女に、「苦しみ」はあるのか?
もちろん、その時々に快・不快の感覚あるいは感情はあるでしょう。しかし、それは仏教が言う「苦」と言えるのか? 仏教がテーマとしている「苦」なのか(たとえば、「生老病死」)?
あるいは、彼女は「欲望」を持つのか? 本能的・生理的欲求とは水準がまるで違う「欲望」、その根本である「思い通りにしたい」という意思と感情は、彼女に働いているのか?
本能的・生理的欲求それ自体は仏教の問題ではありません。トカゲや昆虫の「生き方」は、仏教の関わるところではありません。そうではなくて、これを「欲望」に構成する「思い」の作用こそが、問題なのです(「若くありたい」とも思わない限り、「老い」は「苦」にならない)。
「思う」ためには、物事の比較対照と因果関係の把握が不可欠です(と言うより、それをすることを思考という)。しかし、これは一定の記憶能力が前提の話です。その能力が不十分なままで、「思い通りにしたい」という自覚を、「欲望」「煩悩」レベルの強度で持つことは不可能でしょう。
だとすると、「欲望」を「苦」の根源と考え、そこから「解脱する」という思考パターンに乗る限りは、彼女は事実上、「解脱」したも同然になります。そうでなくても、少なくとも、もはや仏教や宗教が「導き」「救う」対象にはならないでしょう(彼女にどうやって「教え」を説くというのか? そもそも、どこにそんなことをする必要があるのか?)。
このことは、仏教の基本概念である「無明」を「根源的欲望」とか「本能的生存欲求」などと言ってすませているナイーブな考え方を、きわめて見当違いなものにします。それが「思う」ことと無関係なら、「苦」の原因になりません。
「無明」の核心は、「思う」こと、すなわち言語と意識にあります。それと無縁な、あるいは意識と言語がほとんど関わらない感覚や情動は、「苦」を生み出す「欲望」とは言えないのです。
すると結局、言語の機能と作用に対する自覚と批判を方法論的に遂行し、これを通じて「欲望」を構成する「意識」のコントロールに努力することが、言語内(=意識的)存在である者における、仏教修行の内実ということになるでしょう(「解脱」が「記憶障害」とは違うなら)。
ちなみに、彼女は日頃、あれこれ世話をしてくれる息子夫婦に「ありがとうね、ありがとうね」と言いながら、私の見る限り、穏やかに暮らしています。
このお母さんの場合、過去の記憶も家族の認知も確かですし、話の筋も通っていて、日記も書いています。ただ、ある時点(認知症発症の時点でしょう)から以後、まったく記憶が積み上がらず、直近の記憶が2、3分ですっかり消えてしまうのです。
最近では、骨折したことも、入院したことも忘れたんだそうです。
「なんで、こんなとこにいるのかねえ?」
「おばあちゃん、骨折したのよ。ここ病院」
「あれえ、そうなのかい。だから足がぐるぐる巻きなんだね」
しばらくするとまた、
「・・・なんで、こんなところにいるのかねえ?・・・」
こんな調子。短時間の痛みは忘れてしまうので、ずっと同じ痛みが途切れず続いて初めて、「痛い」らしいのです。
日記も、まさに書いているその時に見たり聞いたり感じたりしたことだけが、箇条書きのような文章になっていると、知人は言います。
すると、結果的に彼女は、不平・不満・不安をほとんど持たない状態になっているはずです。もちろん、時々、気に入らないことがあるとその瞬間、「もうやだ! 死んだほうがまし!」とキレることもあるという話ですが、直後に忘れて、またニコニコしながらテレビを見ているのだそうです(見ていると言うより、映像と音声の流れを追っている)。
では、このような彼女に、「苦しみ」はあるのか?
もちろん、その時々に快・不快の感覚あるいは感情はあるでしょう。しかし、それは仏教が言う「苦」と言えるのか? 仏教がテーマとしている「苦」なのか(たとえば、「生老病死」)?
あるいは、彼女は「欲望」を持つのか? 本能的・生理的欲求とは水準がまるで違う「欲望」、その根本である「思い通りにしたい」という意思と感情は、彼女に働いているのか?
本能的・生理的欲求それ自体は仏教の問題ではありません。トカゲや昆虫の「生き方」は、仏教の関わるところではありません。そうではなくて、これを「欲望」に構成する「思い」の作用こそが、問題なのです(「若くありたい」とも思わない限り、「老い」は「苦」にならない)。
「思う」ためには、物事の比較対照と因果関係の把握が不可欠です(と言うより、それをすることを思考という)。しかし、これは一定の記憶能力が前提の話です。その能力が不十分なままで、「思い通りにしたい」という自覚を、「欲望」「煩悩」レベルの強度で持つことは不可能でしょう。
だとすると、「欲望」を「苦」の根源と考え、そこから「解脱する」という思考パターンに乗る限りは、彼女は事実上、「解脱」したも同然になります。そうでなくても、少なくとも、もはや仏教や宗教が「導き」「救う」対象にはならないでしょう(彼女にどうやって「教え」を説くというのか? そもそも、どこにそんなことをする必要があるのか?)。
このことは、仏教の基本概念である「無明」を「根源的欲望」とか「本能的生存欲求」などと言ってすませているナイーブな考え方を、きわめて見当違いなものにします。それが「思う」ことと無関係なら、「苦」の原因になりません。
「無明」の核心は、「思う」こと、すなわち言語と意識にあります。それと無縁な、あるいは意識と言語がほとんど関わらない感覚や情動は、「苦」を生み出す「欲望」とは言えないのです。
すると結局、言語の機能と作用に対する自覚と批判を方法論的に遂行し、これを通じて「欲望」を構成する「意識」のコントロールに努力することが、言語内(=意識的)存在である者における、仏教修行の内実ということになるでしょう(「解脱」が「記憶障害」とは違うなら)。
ちなみに、彼女は日頃、あれこれ世話をしてくれる息子夫婦に「ありがとうね、ありがとうね」と言いながら、私の見る限り、穏やかに暮らしています。
私がこのように、突っ込んで仏教について調べはじめたのは、南師のやっておられた「仏教私流」に行ったのがきっかけです。こんなに仏教って、多様性があり、面白いものなのか、と驚愕でした。
仏教は興味深く、奥深く、しかも、毎日の生活の中で使えるものだと思います。ご自分なりに深め、自分とまわりの人に対して、プラスになる形の理解をされたらいいと思います。
私は個人的には、道元禅師の思想が大好きです。道元禅師は多分、かなりマニアックに膨大な仏典を読んだ人です。正法眼蔵には、道元禅師の仏法解釈のエッセンスが詰まっています。ぜひ、読んでみてほしいな、と思います。まずは、現代語訳のパラパラ飛ばし読みから。私は石井恭二訳が読みやすかったです。
おかげさまでいろいろ知る事が出来ました。
有難うございました。
今後も何かにつけ宜しくお願いいたします。
大山のぶ代さんも、認知症になられたとの事でしたね。
何十年と務められた、ドラえもんでさえわからなくなってしまうんですね。
たぶん自分の声とゆうことも、わからないのでしょう。
何もわからなくなって、生きたいとも死にたいとも思えない。
生死と向き合えない自己を自己と呼べるのか?
自我あっての無我か?
では、アーナンダよ、どのように比丘は自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を依り所とし、他を依り所とせずに、住むのか。
ここに比丘は、身体について、身体を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。
もろもろの感受について、感受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。
心について、心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。
もろもろの法について、法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。
このように、アーナンダよ、比丘は自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を島とし、法を依り所とし、他を依り所とせずに、住むのです。
アーナンダよ。今でも、また私の死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にいるであろう、――誰でも学ぼうと望む人々は――。
(長部経典16「大般涅槃経」第2章)
ちなみに釈尊の主要な弟子の多くはバラモン階級でしたが、バラモン教の経典ウパニシャットの最古層の成立時期は紀元前800~500年で、サンスクリット語の古語であるヴェーダ語で書かれているようです。
一度目の決集(入滅直後)の際、まとめたものを口述で伝え、二度目の決集(入滅100年後)の時に最古層の経典がパーリ語で書かれたとされています。この時根本分裂も起っていますので、取りまとめる時にかなり揉めたのではないか、と想像出来ます。
釈尊が経典を残さなかったのは当時の慣習による部分が大きいと思います。しかしそれだけではなく、自分で考えることの大切さを語り続けていた釈尊は、残すべきではない、という気持ちを持っていたのかもしれません。言葉にするとサンスカーラが起ってしまいますしね。
初心者故、ついでにお聞きして置きたいのは、
釈迦が文章を残さなかったのは、
敢えて文章にする事を意図的に避けたからなのか、
あるいは当時書き言葉が無かったせいなのか、
書き言葉はあったけど、釈迦も含めて沙門たちが文字を習得していなかったので書けなかったという事なのか、
釈迦は文字を書けたけど、沙門たちが文字を読めなかったので、釈迦が口伝で伝えるしかなかったのか・・・
この辺の当時の社会事情はどうだったのでしょう???
変な質問で申し訳ありません。
数限りなくある仏典にはありとあらゆるアイデアが存在します。全てを読破することなど、学者でも不可能です。釈尊がどこかで、どんな世界感も可能でだよ、と笑っているかの様ですよね。
また、最古層のヴェーダには「五火二道説」、という輪廻説の萌芽と言えるものは登場しますが、現在の輪廻説とは異なるものです。アートマン、ブラフマンの概念も、仏教成立前に完全な形で成立していたかどうかは、分かりません。「無我」の概念については、最古層の仏典には、かなりひんぱんに登場してはいます。
今となっては、明確なことは分かりませんが、両方に共通して言えるのは、当時の社会状況の中で現実的に行われていた、と推測されるのは、人は状況を良くするためにバラモン僧の呪術に頼っていた、ということです。神々も両方の教典の登場していますので、存在がリアルなものだったのでしょう。その部分だけは2500年前のインドの現実感と言えるのかもしれません。
どちらにしろ、最古層の教典は全て著者が不明です。どれが誰の説なのか、現在では確かめようがありません。仏教教典も釈尊入滅後のかなり後に書かれています。どの教典のどこが仏説なのか、完全な根拠など無い、ということです。
少なくとも釈尊は、バラモン僧の呪術やアドバイスに頼る事無く、自分で考えるべきだ、という考えを持っていたということは、かなり事実に近いと思います。それ以外の部分については、私たちが自分の良心に従って、世界感をつくっていくしかない、ということなのではないか、と思います。そのために、釈尊は書物に残さないようにしておられたのかもしれません。
完璧な真理など、存在しません。人によって世界感は違うものです。takyさん自身が心地よく感じ、他の人に迷惑のかからない、可能であればメリットのかる良識のある世界感をご自分で構築すれば良い、と思います。
よって仏陀はこの世が「諸行無常」、「諸法無我」、「一切皆苦」である事を世に知らしめる必要を感じた。
しかし(大乗仏教に於いては)世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた(=常楽我浄)・・・と同様に、
釈迦自身も、
「一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す」るのに「ただ妄想・執着(=サンスカーラ)あるを以ってのゆえに証得せず」と言ったとありますから、
ようするに釈迦もアートマンのイメージを意識内に持っていた、
・・・という解釈は可能な気がします。
そのコンテクストで考えるとアートマン
否定説の根拠となっている「相応部経典22.55」は、別の読み方が出来るのでは???。
即ちSN22.55は、『「覚者(=ブッダ)」を見た人に於いては、五蘊(五陰、=色・受・想・行・識)は壊れるもの(=サンスカーラ)であるが故に、そこにはアートマンは存在しない・・・』と言っていると言う事であり・・・、
大乗仏教での「仏や涅槃こそは常住(=アートマン)」という考え方と意を同じくしている???
釈迦の意図した諸行無常は、「人はサンスカーラの中でしか生きられない」という前提の下で『一切のサンスカーラはanitya(=定まらないもの)である』という概念であった訳ですから・・・、
では釈迦が対比して考えていた筈の(サンスカーラで無い)『定まったもの(=定常不変)の世界』とは何か?・・・、
即ち2500年前のインド世界では何だったと考えられていたのかという考古学的・民俗学的疑問が出てきます。
当時だったら「路傍の石」にそのイメージを託したのか???・・・否、否。
やはりアートマンなりブラフマンという抽象概念での定常不変(=輪廻しないもの)以外に該当できそうな発想は考えにくいと思います(たぶん??)。
だから『定常不変なもの』は真実であり、真理であり、美しいものであり、幸せなものであり、永劫に続くものであり・・・、と絶対的に理想化したものとして考える事ができた。
で、現代社会においては、結局そういう
定常不変なものはこの世に存在しないと言う解釈するようになってきている。
結局諸行無常こそが絶対的な真理であり常住不変はありえない・・・
こんな感じになるのでしょうか???。
只、痛む。
極めましたね!
三年目位に坐禅をした後、自分をリセットできたような感覚になった!
しかし、自己と他者との関係での悩みは尽きることがなかった!
そして五年目になった昨今の坐禅は、自己存在の休憩時と思っている。
そのような時を頂けるようになって、今回のブログで言われている苦が、自分の思い通りにしたいということが、根底にあるということを実感できるようになりましたね!
坐禅が脳にどのように働くのかは分かりませんが、本当の休息ができることは確かですね!
只、坐禅による足の痛みは相変わらず痛いのですがね
只、痛む
宗派によっては釈尊の悟りの状態はこうだった、と言い切る形もあるけど、私は方便にすぎないと思ってる。釈尊本人じゃなければ、釈尊の感じる世界は絶対分からない。一人一人、見ている世界は違うから。
「自分は悟った・解脱した」と宣言する人は現在でも幾人かはあるようですが、それはきわめて個人的な体験だから、他の人はただ、「へえ~、そ~かね?」って言うだけであまり関心を寄せない訳です。
釈迦が悟りを開いた後、初転法輪で昔の仲間(=知人・過去の釈迦を知る人達)がそれを認知して初めてその価値が生じて、社会的縁起の輪の中に組み込まれて
いく(世の中が少しずつ良くなっていく)・・という事ではないのでしょうか
つまり独りよがりの解脱はあまり(全然?)意味が無い???
他者に認められて(=他者に感化を与えて)初めて意味がでる??
バランスボールね。
それぞれ、まわりに迷惑にならないように、自分にフィットした世界感を構築することがベスト、と思っています。釈尊が輪廻やアートマン、ブラフマンのような形而上学的なことを積極的に語らず、後年それを「無記」という形で理解されたのは、やはり絶対性の持つ危険性への配慮なのではないでしょうか?自分にとっての絶対性を持つ、ということは、他の人の存在を否定することに繋がる可能性がありますからね。自分にとっての絶対性を持つ、ということはとても気持ちが安定することではあるのですけど。
そのあたりをとても慎重に扱っていた龍樹祖師や道元禅師の繊細さが私はとても好きなので、個人的にはなんとか「無我」とし、輪廻やアートマンの存在などは「無記」でいこうかな、と思っています。なんとなく、ふわふわした気分になるんですけどね。バランスボールに腰掛けているような。
少なくとも涅槃前の人は皆「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」の世界に存在しているから・・・・。
釈迦の説いたのはサンスカーラを離脱する道がある(=四諦)、
苦の論理基盤は「12支縁起」である、解脱への道筋としては「8正道」を尊守し、座禅瞑想して心を整えるべし(=サンスカーラから離れろ)・・という事であり、
これは自分を、又、現世この世を「より良いもの・より住みやすい世界」へと進化させる道標になる・・・、と理解しています。
皆様と有意義な意見交換出来ました。まことに感謝であります。有難うございました。
「anityaであるものは何であれ思い通りにならないもの(苦)である。思い通りにならないものはアートマンでない。アートマンでないもの、それは私のものでなく、私自身ではなく、私のアートマンではない」
拝読致しました。へえ、そうなんですね。この文章からは、アートマンがあるかのようにも読めますね。
先程書かせて頂いた、私がイメージしている「無我」は、大乗の「空」のイメージに繋がるものものです。初期仏教とは少々イメージが変わっているとは、思います。
また、現在のテーラワーダも、アートマンは認めていませんよね。「無常である想いのエネルギーが輪廻する」みたいな言い方をしているようです。大乗仏教の方は、密教になるとアートマンだけでなく、ブラフマンまで認めてるみたいですが。でも、一旦「無我」のイメージをくぐり抜けたものなので、宗祖の人も、ある程度客観性をもって説いたのでは、と想像しています。
どちらにしろ、結局は自分がしっくりくる捉え方を自分で考える、ということにつきるんじゃないなかな、と思います。自分にも世の中にも、より良くフィットするように意識を変換するためのものですから。釈尊も、自分で考えるように、とおっしゃってるようですし。
ト、抜け。
ふふ、、
私の読み違い・うがちすぎの可能性は大なのですが・・・・、
(鈴木隆康氏『「諸行無常」再考』において)
「諸行無常=一切(=諸)のサンスカーラ(=行)はa(=無)nitya(=常)である」、を説明した後、
サンユッタ・ニカーヤiii22.3-16引用で、
「anityaであるものは何であれ思い通りにならないもの(苦)である。思い通りにならないものはアートマンでない。アートマンでないもの、それは私のものでなく、私自身ではなく、私のアートマンではない」、(と記されている)との事です。
「諸法無我」とは「我々が経験し知覚出来る世界(=諸法)のどこを探してもアートマン(自分の思い通りになるもの)は見出せない」、ともあります。
(=よって「諸法無我」だ、という言葉が出来上がった)。
そこで(私が思うには)サンスカーラ
によるanityaを滅却すれば(=解脱・涅槃を達成すれば)「諸法無我」も同時に滅却されて、我(真我=アートマン)が出現する・・・、と釈迦が言った???とも解釈出来るのでは無いのか???
という質問でありました。
(これは単なる文章論上の個人的疑問の範囲です)。
1.人は生まれ落ちた時、全てが充満し一体となっていてそのままでは捉えることが出来ない「混沌」の中に生まれる。
2.様々な形で「混沌」にポイントが与えられていく。
(ポイント=コトバや音、光、感触などの刺激による情報。業(カルマ)と言えるのかもしれません。)
3.与えられたポイントが繋がれて行き、世界を認識できるようになっていく。
(世界が形成される、とも言える。これが縁起である。)
世界を認識する「我」と言えるものは、与えられたポイントによって成立している世界そのものであり、世界の誕生と共に認識が始まる。すべてのポイントが無くなれば、世界が消えると同時に「我」も消え去ってしまう。よって無我と言う。真我(アートマン)とは架空のものであり、存在しない。
釈尊は初期教典の中でも、アートマンを否定しています。
参考までに転載します。
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。
彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、色の中に我有りとも、見ることはない…。
一切は因縁の結ぶがままに有り、一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。
(相応部経典22.55 増谷文雄訳)
又それでこそ初転法輪で,過って一緒に苦行修行した5人の沙門たちも納得出来たのだ、と考えると・・・、
釈迦の解脱(涅槃、悟り)とは;
①.自分は解脱(涅槃)してアートマンになったと確信した。
②.アートマンである故に今の自分は真我である(=諸法無我を解脱した)。
③.アートマンは不変である故に、自分は常住不変である(諸行無常を解脱した)。
④.アートマンはサンスカーラを超越する故に、苦を滅失した(一切皆苦を解脱した)。
素人考えですみません。論理矛盾があるかも知れません。
皆様の反論がお聞きしたいです。よろしくお願い致します!!!
そして坐禅を組み、空に近い状態になって客観視すると、今まで経験した事の無い部分の煩悩を変換させることが出来ます。正に「煩悩即菩提」って奴です。人生、修行の連続ですが、乗り越えれば目の前はもっと開けます。自分ではなく、まず自分のまわりをより良くすることから、私は始めたいな、といつも思ってます。まともすぎて、つまんない話ですね、すいません。
以下、個人的な意見です。
まず、宗派によって、釈尊がなぜ如来となり、涅槃に至ったか、というのは多少言い方が違います。
・上座部の場合、縁起(時間的な縁起)を観じ三明を得て、四諦より涅槃に至った、という言い方が多いですし、
・大乗の場合は、縁起(情報ネットワークとしての縁起)を知り、一切を空、と観ずることが出来れば、いまここの世界そのものが涅槃とも言える、
という感じではないかと思います。
ただ、空を観ずることが出来なければ、そのままでは涅槃には近づけないのです。ここは道元禅師がすごく気にしたところで、いわゆる本覚思想になってしまうことは避けなくてはいけません。なので、坐禅などをある程度重ね、どれだけ自分のサンスカーラを客観視出来るか、というところが勝負だと思います。
そうすれば、全ての事物を平等に扱うことが出来るようになるのかもしれない。それが如来の感覚なんだと思います。もちろん苦も無くなる。
でも、私たちは坐禅から覚めれば、現実を生きなければなりません。坐禅を深めれば、近い感覚を得る事はある程度出来る場合はあると思います。でもそれは、脳科学的に言えば変成意識に過ぎません。涅槃に近い感覚に閉じこもる事無く、現実の中でその感覚を意識しながら(思い出しながら)、自分と世界にとって、より良い未来を創っていく努力をする、っていうのが菩薩道なんじゃないかな、と思います。
また、サンスカーラを外すには、逆に色んな経験を積むことも大切なんだと思います。すごく逆説的なんですが。人はそれぞれ独自の世界を持ってますし、場所によって、常識や空気は全く違ったりしますよね。「坐禅」と「実社会での現実的な経験」の両輪があって、大乗の涅槃は成立するのではないか、と思っています。在家の戯言ですが。
こんな考え方をしてる人がいるんだな、と思って読んで下さい。
>
サンスカーラが有るという状態が「諸行無常、一切皆苦、諸法無我」の原因(仏教的意味付け)であり、
ここは私も同意します。
>
サンスカーラの無い状態が「涅槃・解脱・悟り」ということであるから、
そうですね。同じです。
>
悟り(涅槃)とは、
サンスカーラと反対の状態に心(脳の認識)が到達する事、
反対?反対では無いかな。
サンスカーラ=行蘊(ぎょううん、saṃskāra)つまり意志作用を外した状態だと思います。
>
即ち
「無常で無いから常住不変、
まあ、そうかもしれない。
>一切の苦を脱しているので楽、
ここは同じです。
>自在で拘束されないから我(真の自我)の獲得、
真の自我?この言い方は少し危険かも。
>煩悩が尽きて汚れがないから浄」
そうですね。
(出典・・『涅槃』についてのウィキペヂア)、
Wikipediaはこんなまとめ方なんですね。
サンスカーラが有るという状態が「諸行無常、一切皆苦、諸法無我」の原因(仏教的意味付け)であり、
サンスカーラの無い状態が「涅槃・解脱・悟り」ということであるから、
悟り(涅槃)とは、
サンスカーラと反対の状態に心(脳の認識)が到達する事、
即ち「無常で無いから常住不変、一切の苦を脱しているので楽、自在で拘束されないから我(真の自我)の獲得、煩悩が尽きて汚れがないから浄」(出典・・『涅槃』についてのウィキペヂア)、
と、なっている(心の)状態をさす。
で、釈迦は涅槃に至る方法論(=修行の道)を(自身の解脱後)人々に教え広めた。
これでよいでしょうか???
仏教ではどう考えるのか、という大きすぎる枠組みでの言い方は難しいと思う。宗派によって違うし、曹洞宗の中でも老師によって言い方は違うから。それぞれで設定は違うのではないでしょうか?一人一人、異なった涅槃のイメージを持っている、としか言えないと思っています。私個人の感覚で良い、というなら、書いてみますけど。コトバにしたら、またサンスカーラが起きますので、正確には伝わらないとは思いますけどね。
ダンマパダ第277節曰く「一切のサンスカーラはanityaである(=諸行無常)と正しい智慧をもって理解するとき、人は苦を遠離する(=現実とのギャップが無くなり心が静まる)。これが清浄(涅槃)への道である。」とあります。
ここで言われている「現実」とは、じゃあ何だ???脳が認識する(虚構の世界)であるサンスカーラ以外に現実の世界なるものが実存出来得るのか???
という問であります。別の解釈法があるのかもしれません。
よろしくご講義ください。
無明でない思考が存存する、
サンスカーラでない「ありのままの、真理の、永遠の、真実なる世界」が実存する・・・と信じる事が前提となって、初めて『(脳の)虚構』という言葉が意味を成す???
mmm、そういうもの(=ありのままの真実の世界)が実際に実存していると考えるべきなのでしょうか???
それともそれもやはり脳が「理想の姿」だ、として思い描いている(ある種の)虚構なのでしょうか???。
このへん仏教ではどう捕らえているのかお分かりの方、ご教授願いたいです。
言葉を持つ事から<自我を自覚している>人間が、
自分の<自我の消滅=死>を予測しており、
<自我を持ったままで>その自分の死の恐怖を<克服する道>を示している。
人類は、進化して来たので、進化に沿って、
<問題の起こって来た経過を考える>必要がある。
「死」が発生して来たのは、<有性生物に>なったから、
人間は<「男」と「女」と>して生きる。
(他方、無性生物は<原初の細胞が>永遠に生き続ける。)
子孫を造り目的を達成すれば、その体」は消滅する、死!
「生殖細胞」だけが、次々と子孫に生き延びる。他方、
「体細胞」は死ぬ!つまり、人は、誰でもみんな死ぬ!
頭脳(=意識=心=自我)は「体細胞」であり、死ぬ!
釈尊の言う「無明」とは「根源的欲望」ではなくて「言葉」である。
(言葉=思考活動=自我の発生=自我の存在の実感)
⇒この「自我」の消滅の予測⇒根源的「苦」の発生!
釈尊は、<この苦からの解脱への道>を示す!
「言葉」とは、「<名><色>」の世界、
「<概念・観念><対象のもの>」の複合物であり、
頭脳内部の虚構の<概念・観念>を媒介にした、
<体内と体外とが共働する><動的な>世界である。
要は、自分の自我の「苦=死」の克服の問題なのです。
だから、輪廻転生説は、<無意味な>お伽噺なのです。ヒンドゥ教の教えであり、仏教では必要概念ではない!
人間が存在しなければ、放射能汚染も、大気汚染も、
ただの物理現象に過ぎない!
ブッダの見る・観る世界は、云わば、この物理現象である。
法華経の「寿量品」の教えがまさにそうである。
しかし、<その場において>苦しんでいる人々を救う!
輪廻説っていうアイディアが悪い訳じゃないけど、悪用するととんでもない。正統な上座部の人がそんなことしないだろうけど、私の世界感には、採用しないかな。あえて採用するなら、無記でいく。
日本人がイメージする輪廻と、スリランカ人がイメージする輪廻は異なっているし、つきつめれば2500年前のインドの輪廻のイメージと今のスリランカの輪廻のイメージも全然違うと思う。コトバに変換した瞬間、サンスカーラが起きるから。気をつけないとね。全てのアイディアに対して。釈尊が言いたかったことは、そこに尽きると、私は思ってる。自分で考えることが大事。
しかし、思うんだけど、今の上座部の思想って、スリランカ大寺派という、部派仏教のひとつであった宗派から出た、5世紀の学僧のブッタゴーサの独創的な経本の読み解き方に由来してるじゃない?ちょっと断定的すぎて、なんか危険だなあ、って思う。うのみにするの怖いわ。
テーラワーダのスマナサーラ長老による「無明」の解釈(援護)は・・・・、
「無明は決して非難する言葉ではない。生命というものが、どんな衝動で誰に生かされているかという答えに繋がる部分なのです。仏教では無明と渇愛が、全ての生命を作り出す原因であると教えています。よって、生命であるなら無明である事は普通の事なのです。もし無明が無ければ我々は、此処に体を持って生まれる事も無かったのです・・・」、とありますね。(そりゃあ、そ~だよね!!)
人間は「ありのままの永劫普遍的な真理・真実の世界」を見れない(=ありのままの世界に対する無知=即ち無明)故に、
無理やり理解しようとした結果、脳内に虚構の世界を作り上げてしまう。此れを『行』(サンスカーラ)と呼ぶ。
このサンスカーラ(虚構の世界)が
①.(偽者である故に)『常』(=永遠)でない(=諸行無常)。
②.(真の世界とのギャップによって)
『苦』を作り出す(=一切皆苦)。
③.よってサンスカーラはアートマンではない(=諸法無我、又は諸法非我)。
④.従って、この(誤謬に満ちた)サンスカーラを(修行によって)滅すれば(解脱して)「ありのままの真理・真実の世界、永遠の世界」が顕現して来るのだ(=涅槃静寂)。
⑤.これで「四法印」が完成されて、『苦』の滅失が達成されて、心が平安に満たされるのだ(安楽=涅槃)。
苦があって、問いが生まれる。問いがあって、行動が出来る。苦が自分と世界のズレに過ぎない、と思えれば、頑張れると思わない?
では「ありのままの真実の世界」とは何かの論議につながり、
「ありのままの真実の世界」とは「永遠の世界=普遍的真理の世界」という憶測を呼び・・・、
そうなると「この世の全ては無常」という概念と自己撞着を起こし・・・、
mmmmm,もう何が何だか分かんなくなってきちゃったよね???
「生病老死」の当時的生態サイクルからは「一切皆苦」観がつくられた。
当時でも「認知症」「統合失調症」も在ったかもしれないけど、仏教12支縁起上からは「煩悩の極みの悪しき哀れな姿」(自業自得??ウソっぽい!!!)とみなされた。
サンスカーラ唯苦観も定着した??。
さすれば・・・、
現代社会においては、科学と仏教の二人三脚で仏教定義の再構築(削除・加筆による改定)を行なって、
近代仏教へと完成させる・・・、なんて言うのはどうでしょう。
その際は2500年前釈迦時代の「待機説法」「口頭伝承」「主観論主義」ではなくて・・・、
客観的世界観に基ずいた現代知性の英知をかたむけて「輪廻」観、「魂・霊魂」観、「ブラフマン・極楽浄土」観、「新『苦』の滅失論」、「人間幸福論」、「生命論」、「~~論」を網羅(=併記)した(複雑怪奇ではない)新仏典(=簡明汎用包括コメンタリー)を編纂すべく全世界仏教者会議(21世紀結集)を開催するとか・・・・。
ああ、これが日の目を見るまで死ねなく
なりました!!!
数年前に南師と同じくらい麻原に惹かれていた頃は、拘置所内で一言も言葉を発せず、糞尿垂れ流しでおしめを装着し、三女のアーチャリーが接見した際には実の娘の前でマスターベーションを始めたような廃人状態になってしまったという話を森達也氏のA3で知って、これはまさに言語的実存から縁起的実存への転換じゃないか、これぞまさに「最終解脱」じゃないかと解釈したくなりましたね。(アレフの信者なんかは麻原の意識がアストラルとかコーザルの世界に飛んでいると解釈しているそうです)
今は関心は無くなりましたが。
苦の解決方法として、自殺するでもなく、麻原のように人間であることをやめるでもなく、今生での涅槃をあきらめて、欲望を構成する意識のコントロールに努力する仏教修行の道もあるんですね、考えてみたいです。
(私は輪廻については無記です!)
「一日一食は聖者の食事。一日二食は人間の食事。一日三食は動物の食事」
という言葉があるそうです。
中世の西洋には、
「一日一食は天使の生活。一日二食は人間の生活。一日三食は獣の生活」
という諺があったそうです。
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-7448.html
結局現実って認識に過ぎないじゃない?そして、現実はコトバやその人の経験の蓄積で出来る訳だから、完全に自分と一致した現実を持つ人間なんか、存在する訳ない。自分の周囲にいる人は比較的現実の重なる部分が多いから、同じ世界にいると言えるだけであって。
認知症とかはサンスカーラの欠落、と言えるかもしれないけど、統合失調症とかは、共有するサンスカーラのズレの拡大って言えるのかもね。欠落する訳で無く。
そこのコントロールがうまく出来、より適切な現実の再構築に利用出来る人が、悟った人ってことかなあ。うまく言えないけど。せっかく、高い視点の感覚を持ったとしても、良い使い方が出来ないと、はた迷惑だしね。
夏目漱石は則天去私という言葉を残しましたよね。なんかとても仏教的な感じがしますが
どうなんでしょう???
次には(=近いうちのいつか)仏教者からみた統合失調症という医学現象についてなにかご意見をお聞かせ願えないでしょうか。
統合失調症の方が仏教から得られる物は何かとか、仏教教義上の限界とか??
そこを意識しつつ、違いを認め合いながら仲良くしようね!
サンスカーラが発動するから。
よってその出来事をどのように処生術していけば人は幸福に暮らせるのか???これを考えるのが仏教の任務である
という言い方がいいのではと思います。
ありのままの世界なら苦の滅失が達成できる
という事は必ずしも成り立たない・・・、という意味でもあります。
認知症の症状はサンスカーラを脱した状態との定義を与えてもよさそうに思えます。
従来の仏教定義に当て嵌めてしまうと、解脱した状態(涅槃状態)と同義語となりますが、
認知症が解脱では無い事は、認知症の一部の方は今回のお婆さんの様に仏風であるとしても、他の認知症の方は、(たとえ短時間であったとしても)気に入らない事があった瞬間瞬間に強烈に阿修羅と化して、周りに毒を振り散らかす所作を(無意識に)やってしまう事から明らかな様に、
認知症=解脱ではありえない・・・という論理がなりたつ。
同時にサンスカーラを脱した状態=「ありのままの真理の世界」が必ずしも善と同一ではない、という事も示唆している
のではないでしょうか。
つまり脳内の虚構を「ありのままの真実」に近付けていく(=修正していく)のが「修行する」の意図という事が出来るのでは無いでしょうか・・・・。
「ありのままの世界」すなわち真実・真理なるもの、虚構でないもの、は人の「感性・感覚」の中でしか捉えられない映像・顕現でしかないもの・・・
という理解で行っても、
感性・感覚も脳(大脳・小脳・海馬)が感じてはじめて認識出来る物だから、
修行によって脳内回路の統合作用が起きればよい。
その時点ではサンスカーラが「ありのままの世界」に歩み寄っている(=涅槃・解脱の完成)・・・
つまりマラソン中、雑念のある意識が虚構しているサンスカーラ、只単に(只管に)二足走行してるのみとサンスカーラするのが「ありのままの世界」に歩み寄った(虚構でない)サンスカーラ、
と考えても別に不都合な事はない(=脳内での認知プロセスが説明しやすい)。
厳格尊守すべし・はみだすべからず、
と釈迦自身が考えていたという様な事はありえない、と思っています。
釈迦は苦の滅失のために現時点での自分はこう考えた。つまりその時その時、この時代・この場所で起こる「出来事」をどのようにうまく「処生術」して幸せになるか、苦を滅する事が出来るかを論考する・・・が釈迦のテーマ(趣旨)であった。
と、すれば仏理さえも時代に添って変化し発展していくべきもの・・・・、
これが不変の(普遍の)絶対神を奉る
一神教の宗教と意を異にする処・・・、と考えてよいのではないでしょうか??
今までいつも読み飛ばしていた正法眼蔵の中の洗面・洗浄や永平清規の細かい内容なんかに書かれている指導をかなり忠実にやってるんですね。本文中の引用されているのを、今までと全然違う気分で読みました。
実際、実地でやってる修行している人の臨場感のある場面を想像することで、道元禅師がなんとか、文字に残す事で感覚を伝えようという、不可能に挑戦されてたんだなあという事が、すごくリアルに感じられた。なんだか胸が一杯になりました。
このおばあさんは、現実世界に戻ってこれない。つまり、他人とのコミュニケーションが成立しない。
熟考した結果、結局サンスカーラが無い状態で、菩提心を持って人を救いたいって思えるかどうか、だと思うんですよね。しかも行動をしているかどうか。多分、おばあさんは、もう人を救うことは出来ないじゃないですか(もしかしたら、生きていてくれる、という事実がご家族の支えになっている、というパターンもありますが。)。もし仮に解脱していたとしても、傍目にボケてるように見えればボケた人、です。
私的には自分の感覚、の方では無く、他へのアプローチで決まるんじゃないか、という結論です。やっぱり、自我なんて無いということなんじゃないかと思います。
まあ、もちろん私はガチガチにサンスカーラに囚われてますし、誰かを救う強さなんか、持ち合わせては無いんですが。憧れますけどね、道元禅師。やっぱ、凄いな、と。
物凄い絶望が襲ってくると思います。
でも、死にたくても死ねない。
全身が麻痺しているから。
以前、ギランバレー症候群で全身麻痺の障害を負ったチンパンジーのドキュメンタリーを見たことがあります。
面白いことにこのチンパンジーは全然落ち込みません。
口だけは動くので、口の中に水を含んでおき、近づく職員に噴きかけるというイタズラを仕掛けるくらい元気で陽気、幸せいっぱい。
この人間とチンパンジーの違いは何か?
おそらくそれが言語の機能なのだと思います。
チンパンジーには「今・ここ・自己」しかない。だから、五体満足だった過去の自分と比較しない、悩まない。
動物は不在を記述する論理語「否定」など持ち合わせていない。
人間はテーブルの上にコップがないことを認識できますが、チンパンジーに認識できるのはテーブルがあることだけ。
現在において、職員たちにこれ以上なく愛されているこのチンパンジーは幸せこの上ない様子でした。
「ない」が不在を存在させ、人間は「完全に過ぎ去った」過去というような奇妙な時間を備えることができます。そして「未だ来ない」未来も。
チンパンジーもこのおばあさんも、時間のない世界、もしくは現在しかない時間の世界に生きているといえるかもしれません。
このおばあさんは幸せですね。昨今の介護業界の荒れっぷりの中で「今・ここ・自己・ありのまま」で地獄な老人がたくさんいますから。あれは本当に言語も意味もなんもないです。何も実存的な意味が見出しようがない単なる日本社会の零落と単なる生き物地獄です。
時間感覚においてチンパンジー・ばあさんコンビと健康人とを分けるものは、生物学的・医学的な違いでしょう。だからといって、ブッタは「動物になれ!」だとか「ボケろ!」だとか無茶で阿呆なことを説いたわけではもちろんありません。
もし「動物は解脱している」だとか「痴呆老人は悟っている」だとか仏陀が抜かしていたのだとしたら、私は今すぐ仏教徒やめます。
まあ、天才・手塚治虫が著した坊主も在家もみんな読んでる日本仏教界における根本聖典「ブッダ」にはそれに近いことが主張されていますが・・・
私は火の鳥の方が仏教本来の輪廻イメージをよく表現していると思います。あれは「生きてるって地獄!」ってのが主張なので。
龍樹は多分、コトバ=サンスカーラの元、だと思ってるから、すごく警戒するように示してくれてるんだよね。
修行(例えば坐禅中)している時、何かしら真理に触れた瞬間があったとしても、コトバにすれば、想いを挟めば、サンスカーラに囚われてしまう。だから修行そのものが、と言う言い方しか出来ない。真理には、実体は無いのだから。
サンスカーラ無しには「ありのままの世界」は原理上見れない・・・という事だと解釈しました。
ダンマパリ277~279で言っているのは、
修行(智慧)に依ってサンスカーラの無軌道な働きを鎮める事が出来れば「ありのままの世界」が顕現する・・・・、とあります。
つまりサンスカーラと「ありのままの世界」との間のギャップが無くなり、苦のない状態・心が安定し静まった状態(=これを涅槃と呼ぶ)になる、という事であり、
この時点ではサンスカーラは脳の独善的認識ではなく、「ありのままの世界」と同一の物を脳が知覚している・・・、と解釈出来る事になりますよね。
で、これを修行によって達成する。
南師の仰る努力している状態が、一番ベストかもしれませんね。
反省できるだけの機能も、多分、残って無い。この方の言語機能がぶっ壊れたら、今よりは「善い存在」になれるのかも。
言語機能=思い=無明 という考え方に一票。ワタスも精進しよう。
和尚さん会ったこと無いですけどいつもありがとうございます。
2500年前の釈迦時代の無明の深刻さの故に、当時(=2500年前のインド思想に於いて)は世界を完全に客体視する事が不可能であったのに較べ、現代社会では世界事象を客観的な観察対象とする事が可能になってきました。つまり現実の世界とサンスカーラとのギャップが小さくなって来たという言い方が出来ます。
ならば諸科学の発達とともに仏教も発展したらよろしいのでは???
またありのままの(=真の)現実の世界は「善」であるという前提が果たして
真実であったのかについても再考の要があるのかと???
つまり在りのままの真の世界(=現実)自身も苦を内包するのではないのかどうかは今までの仏教では吟味された事はなかったのでは???
仏教を、「脳科学」のレベルに引き下げているように感じます。わざと、でしょうか?
魂の話をして欲しいです。
私自身をふくめて多くの人がそう思うのは解りますね。
しかし一方では(ある段階を経過した)認知症の方は自分がボケているとは思っていない(=今の自分は正常である、自分自身である、なにもおかしい事はないと思っている)、んでしょうから、まあそんなに(=健常人が恐れるほどには)認知症も悪くは無いともいえますね。
自然現象として受け入れる、という考え方もあるし・・・、この数年の内に認知症を予防する新薬が開発出来るまでに脳科学が発達してきているとかですよね、たぶん??
小難しい経典を語るより、まず身近な心を見つめるのが先だとおもいます
出家者のように独自の道を生きている在家者もいるのですが、その人の真似をしているだけでは救われないとおもいます
未熟者ゆえわかりませんけどね
感覚としては縦方向から横方向へベクトルがずれる感じとでも言いますか、
運に身を任せる、所謂 はからいなきさま=志向性を欠いた状態
因果に囚われた自分が縁起で断たれるような感じ。
自然法爾・・・興味沸いてきた。
ある統計によると
ガンになるより、ボケたくないというのが圧倒的に多いらしいですね。
意思がある自分にとって、意思がなくなるほど、ツラい事もないということでしょうか。
そこに、人間としての尊さを感ずるようにも思います。
お久しぶり、イエスちゃん。
ありがとね、いろいろ書いてくれて。
計らい無しの方法論として、親鸞的な発想や絶対的存在に依存するのは、まだ抵抗ありです。確かに、イエスちゃんがおっしゃるように自分が保てない位の打撃を受けるのは、効果的でしょうね。
今んとこ、そんな覚悟で、全力で人生を生きるっていうのがよいのかなあ、と思ってます。在家凡夫としては。
「計らいがない」と自覚する。
「計らいがない」境地に至る。
と同時に、
阿弥陀如来の誓い、如来の働き、法の徳によって、
全てが、行者(=自分)は、させられる(受身)事と、理解し受け入れ、それに従う。
自然法爾の事(親鸞聖人の最晩年の信仰の境地)
「自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、
《行者のはからひ(自力による思慮分別)》にあらず、
「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、
《行者のはからいにあらず》、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、
およそ《行者のはからひのなき》をもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。
すべて、《ひとのはじめて(あらためて。ことさらに)はからはざる》なり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。
(他方、どうしようもない大問題に出くわして、そこで初めて、自分を投げ出すことができるようにも感じていますが・・・。)
それに向かうには、まず「四諦」「縁起」「空」のいずれかを本質的に体感・理解する必要があるようだな、と思っていますが(どれかを体感・理解することで、他の2つは付随的に理解出来る)、具体的な方法論では、到達し得ない。具体的な方法論を意識したとたんに、そこにもサンスカーラが起きている。正しく生きながら、その瞬間を待つしかないのでしょうね。道元禅師のお示しのご苦労、さぞやという感じですね。
させていただいております。2006年からの過去ログとコメントすべて読破のつもりでおります。多々なる示唆に共感する処です。
さて今回のテーマ、「頭を空っぽにする」を目的とする只管打坐そのものの気がします。
健常者は、一時的に自らの意思の力で大脳皮質上の正常記憶回路への電流を遮断する形で(或いは海馬エリアでの神経腺維が電流を大脳皮質へ伝達しないという事かも知れませんが??)・・・
そして認知症の方は大脳の萎縮による機能減少という物理的結果として、必然的に起こる自然現象として・・・・