恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

見ただけで走る

2014年09月20日 | 日記
今年何度目? 思いつき禅問答シリーズ。

 仏教以外の教えを信奉する行者(「外道」)が、釈尊に質問しました。

「言葉によってでもよいですし、言葉ではない方法でもかまいませんが、あなたの会得したものを教えて下さい(有言を問わず、無言を問わず)」

 すると、釈尊はしばらくただ沈黙していました(世尊良久す)。ところが、それを見た行者は大いに釈尊を讃えて言いました。

「ああ、偉大なる師の慈悲深さよ! 私を覆う迷いの雲を払って、正しい道に導いてくださった(世尊の大慈大悲、我が迷雲を開いて、我をして得入せしむ)」

 これを見ていた阿難は不思議に思って、師である釈尊に問いました。

「あの行者はいったい何がわかって『正しい道に導いてくださった』などと言ったのですか?(外道は何の所証ありてか、得入すと言える)」

 釈尊は答えました。

「世の名馬とされる馬が、鞭を見ただけで(叩かれる前に)走り出すようなものだよ(世の良馬の、鞭影を見て行くが如し)」



この問答を簡単に片づけるなら、それなりに優秀だった行者は、釈尊が沈黙で示した「言葉を超えた真理」、あるいは釈尊の存在自体に「ありのままに現れた真理」を悟り、釈尊がそれを認めたのだ、という説明になりがちです。

 しかし、この説明は行者の言う「無言」と釈尊の「良久」の違いを無視しています。けだし、問題の核心はここだと、私は考えます。

 ことが「言葉を超えた真理云々」に止まるなら、行者はすでにそんなことはわかっているのです。だから、「無言を問わず」と言えるわけです。

 釈尊の沈黙は、「言葉を超えた」何かを無条件で前提とする「無言」とは次元が異なります。

 釈尊の沈黙は、言葉と言葉で意味されるものとの間を見ています。すなわち、沈黙は単なる言語の欠如ではないのです。

「言葉にできない真理」それ自体など幻想にすぎないません(すでに「言葉にできない」と言ってしまっている)。もしそんなものがあるなら、それは、決して完結せずに言語化し続ける運動において示されるだけだ・・・・、沈黙の意味はこれです。

「言葉にできない真理」それ自体を前提にものを考えていた行者は、釈尊の沈黙によって初めて自分の幻想を自覚することができました。だから、釈尊を讃えたのです。

 同じ沈黙の姿を見て何もわからなかった阿難にくらべれば、釈尊の沈黙に接しただけでそこまで悟った行者は優秀です。 まさに「鞭を見ただけで走る馬」でしょう

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