恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

メディアとしての身体

2019年11月30日 | 日記
 自己が他者との関係から生起するとすれば、その関係を具体的に担うものが何であるかによって関係の仕方が変わるわけですから、それは我々の実存に直接的な影響を与えるでしょう。とすれば、他者との具体的なコミュニケーションがどう行われるかは、特に重要な問題です。

 もともと、原初のコミュニケーションは、声(鳴き声)とジェスチャー(指差しなどが典型)という、身体そのものが担っていました。このとき、何ものかが存在することのリアリティは、見る、聞く、触る、舐める、嗅ぐなどの身体感覚が直接保証していました。

ということは、コミュニケーションが可能な範囲は限られていて、基本的に小規模な地縁血縁共同体の内部か、広くてもその周辺の集団までということになるでしょう。

 その後、言語が発生して、コミュニケーションの範囲と深度が拡大したとしても、発話器官が声帯しかない状況では、身体が中心的なメディアである事情に大きな変化はなかったはずですし、ならば共同体の規模にも構造にも、根本的な変化は生じなかったと思います。

 ところが、文字が発明されると、様々なコミュニケーションの様態・形式が「情報」として大量に蓄積・伝達できるようになり、地縁血縁を基礎とする小共同体が拘束する身体中心のコミュニケーションから解放され、共同体は大規模化・複雑化して「文明」の時代が来ることになります。

 しかしながら、文字情報の使用には教育が必要ですし、文字を記す物体(石や紙など)は、当時物理的な量の確保とその取り扱いに制約があったはずですから、文字情報は共同体の一部集団・階層に独占されることになりました(たとえば中世教会による聖書の独占)。

 この状況が激変したのは、15世紀ヨーロッパにおける活版印刷技術の登場です。この技術によって、文字情報は爆発的に量産・拡散して、それまでとは比べものにならない数の人々が、多種多量の情報に簡便にアクセスし、これを共有することができるようになりました(たとえばグーテンベルグ版聖書の発刊)。

 それは結果として、生まれ落ちた共同体を超え、共同体が規定する様々な属性から距離をおいた視点で、人びとが自らの在り方を考えることを可能にしました。

 このことが、「みんな同じ人間じゃないか」などと言うときの「人間」、それはすなわち、フランス人権宣言が「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する」と言うところの「人」、現代の我々の社会体制も前提とする「近代的個人」の観念の発明を可能にしたと言えるでしょう。その個人が「契約」で集団を作るところに、「市民社会」が成立するというわけです。

 20世紀に電信電話が発明・普及して、声をふくむ情報伝達が段違いに増大した後、さらにパラダイムを決定的に変えたのは、ラジオとテレビの登場です。声どころか視覚情報の伝達さえも無際限と言ってもよい規模で可能になったとき、そこに「大衆」が出現します。

「大衆」の特徴は、「人間」「個人」と違って、情報に対して中立的になりにくいことです。ラジオやテレビが担う情報は、視聴覚への訴求力の高さから、常にその受け手の欲望を喚起し刺激できます。それは要するに、少数の発信者が多数の受信者を支配しコントロールする時代の到来を意味しました(大衆の支持によって「独裁体制」が成立し得る時代。消費者の大量需要によって巨大独占企業が出現する時代)。

 しかしながら、「人間」と「大衆」の時代においては、その「情報」の質、すなわちリアリティの度合い(真偽)を、最終的に身体において確かめることができました(「百聞は一見にしかず」的意識)。また発信者もそこに最終的な保証をもとめていました(たとえば、メディアが言うところの「足で稼ぐ」「現場主義」)

 しかし、これが21世紀に入り、IT・AI技術の急激な発展が、これまでとは次元の違う大転換をもたらします。それは、受信オンリーだった「大衆」を一挙に「送信者」に変え、受信・発信の強力な相乗作用によって、個人どころか、個々の社会組織の処理能力さえ遥かに超える量の情報が「大衆」を断片化したのです。

 すなわち、限られた数の発信者の力で「大衆」に「共通の情報」を浸透させることが著しく困難になり、それが「大衆」を細分化するわけです。さらに、多様に発信される情報がそれぞれの吸引力にしたがって改めて「断片」をグループ化して、いわゆる「分衆」状態を出現させたのです。

 もう一つの劇的な変化は、とりわけAI技術の劇的な発達が、従来最終的にリアリティを保証していた身体の役割を、原理的に無効にしたことです。

 AI技術は、五感を含む身体能力や機能を、驚くべ精度で模倣したり、途方もない強度で拡張することを可能にしました。すると、もはや、情報のリアリティを最終的に保証する身体の役割は無効になります(ホログラフィックに創作された歌手のコンサートで聴衆が熱狂したり、すでに死んだ歌手を再現して「新曲」を歌わせたら、ファンが感動して泣いたり)。

 今後「分衆」的社会がどうなっていくのか、いま私は見通せません。しかし、その最中にあって、情報のリアリティを身体が担保しないなら、何が担保するのでしょうか。

 ひょっとすると、金本位制から変動相場制になっても通貨が変わりなく機能するように、身体の保証が失われてリアリティとバーチャルの区別が無意味になっても、情報を「分衆」ごとに共有し合意することで、複数の「現実」が構成されるかもしれません。さらには、その「分衆」をかけ持ちし「現実」を複数渡り歩くような、「超個人」が現れるのでしょうか。

 あるいは、情報を独占する巨大システムが開発され、そのシステムが「現実」を一元化することもあり得るでしょう。そのシステムの成立は、「分衆」を解体した上で「断片」を吸収統合することになります。そうなれば、「人間」「個人」は役割を終えて消滅して(ミシェル・フーコーの予言)、システムの一機能のごとき、新たな実存の様式が我々に与えられるかもしれません。

 いずれにしろそうなったとき、リアリティを担保するものがまだ一つ、あるような気がします。それは「苦」の感覚と認識です。

 技術は欲望を実現するものとして開発される以上、情報はすべからく効用と快楽を目的として生産されるでしょう。だとすれば、「苦」は技術が解消すべき対象です。

 ですが、仮に、効用と快楽の追求の果てに、苦しみさえも欲望される時代が来たとしても、それがどんな様態であれ(従来の身体の中に発生すかどうかに関わりなく)、欲望を裏切る実存の苦しみが残存するなら、それこそが情報に亀裂を生み、リアルとバーチャルの区別を要求するかもしれません。

 思うに、「一切皆苦」の思想は、究極的には、リアルとは何かを問うているのかもしれません。

 ただし、リアルが必要かどうか、バーチャルは虚偽で、すべからく危険かどうかは、まったく別の問題です。

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186 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-12-14 12:13:40
一切皆という事はどういう事でしょう?
突き詰めれば、実存や認識が有ると思う事すら苦に繋がるという事でしょうか?
苦が嫌だから、欲を無くすのでしょうか?
苦をどうにかしたいから、欲をどうにかするのでしょうか?
一切皆なら意味なくないですか?
仏教は痛がり
欲望が生み出す「力」に注視して欲しい
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-09 22:27:21
榮久さん、深いです。
そうですね。彼らの意見を聞いて、話し合い、着地点を探る。その繰り返し。一方的に頭ごなしで、言うことを聞け、ではうまくいかない。その知恵がここ、釈尊、道元、南師の教えにある。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-09 17:48:45
サンユッタ・二カーヤでは
釈迦が現法涅槃を成し遂げた事が繰り返し繰り返し語られているそうだ。

で釈迦が言うには、
悟りに至る四諦(苦集滅道)での道(現法涅槃に至る道)と言うのが
『八正道』を行う事という結論が出ている訳である。

しかし釈迦の生きざまのコピーをしなければ八正道が成立しないという事ではないだろう。
時勢と国柄と環境が大きく異なる現在では、そっくりそのままの形で釈迦の生きざまのコピーなんて出来ないだろう。

と、言う事は、
南さん流とかイエス君流の八正道を実践して頂いて、
生きている間に現法涅槃を達成して見せて頂きたいという事に成りますね。

そうすれば現代でも可能な「悟りの生きモデル」が存在する事に成って、
それこそが我ら凡人の正師になりそうな感じがします。
返信する
注:法号とは、「僧になる前」の名前 (イエスちゃん)
2019-12-09 12:21:27
「直哉」は法号である!「文雄」も法号。
注:法号とは、「僧になる前」の名前です。

僧になり、「受戒」すると、同時に「戒名」を戴きます。
つまり、僧としての名、「僧名」です。

「釈 道元」です。
「ティク・ナットハン」(ティック・ニャットハイン)(Thich  Nhat Hanh)
つまり
「釈 一行」です。
 
南師の場合も、増谷師も、
僧名は各々「直哉」、「文雄」です。

だから、
浄土真宗では「戒」を守る能力がないということで
「戒名」はありません。
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「直哉」は法号である!「文雄」も法号。 (イエスちゃん)
2019-12-09 06:45:27
増谷文雄師は、法然上人の「浄土宗」の僧侶です。
お寺で生まれました。
しかし、青年時代、阿弥陀仏を信じる事が出来ませんでした。
道元和尚に出会って、「仏教そのものを探求する」動機を持ち、
大学で、原始仏教の研究に進まれ、学者になられました。
増谷師は、だから、原始仏教や初期仏教とは言いません。
「根本仏教」と言います。ここには「価値観」が入っています。

この「根本仏教」を基盤にして、
道元和尚の『正法眼蔵』の現代語訳に取り組まれたのです。
同時に「法然上人」「親鸞聖人」の阿弥陀仏信仰が解るようになったのです。

「導き手」が必要です。

私の場合は、
石亀環道和尚の月例の「坐禅会」を経て、
この増谷師の『正法眼蔵』の現代語訳から、増谷師の「根本仏教」「原始仏教」に導かれました。
秋月老師が『正法眼蔵』を東京都の神楽坂の自宅で毎週日曜日に提唱していた(「真人会」:坐禅+提唱+参禅)ので、通うようになり、臨済宗を知る事になった。

「正師」「導き手」が必要なのです。

「道元和尚」「増谷文雄先生」「釈尊」「秋月老師」
そして「南師」もその一人。
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Unknown (榮久)
2019-12-09 05:59:52
考える = 哲学

哲学は「世界とは何か」という問いからしだい
「人間とは何か」と焦点を移していった。
ニーチェが課題とした「人間的欲望がいきいきと発露するための条件とは何か」・・・
人間存在の原理論『人間の欲望はどういう本性をもつのか』との解明は、
一人ひとりが自分の世界像を捉え直し形作っていく作業を手伝うことも、できるだろう。
さらにこの論は「他者」論を含むことによって人間関係の論にもつながっていく。

『なぜこんなことを問わねばならなかったのか』それは、
つまり生の状況があり、そこから問いが生まれ、
それに対して答えを出そうとしている。

彼らの生の状況から孕まれる問いに、
自分の生が抱えている問いと通じるものが見いだせるとき、
彼らの考えを私たちは自らたどり直すことができ、それをリサイクルとして、
今の私たちはの生に役立てることができるだろう。
返信する
釈尊の肉声を聞く「リアル」 (イエスちゃん)
2019-12-09 02:13:23
釈尊の肉声を聞く「リアル」!

『阿含経』の「相応部」(サンユッタ・ニカーヤ)(漢訳では『雑阿含経』)
短編の経典集。全1362経。

を一つ一つ読めば、そこに釈尊の肉声が聞こえてくる。

「5うん」の教えだけで、
「人間の分析(五蘊)に関する経典群」:
「色⇒ 受⇒ 想⇒ 行⇒ 識」の教えだけで、百以上残っている。

『阿含経典1』 (ちくま学芸文庫) 増谷文雄 (編集)

ブッダはなにを語り、どのように説いたのか。その教えを最も純粋なかたちで伝える最古層の重要な仏教経典の集成。
阿含=アーガマとは伝承されてきた聖典を意味する。これらの経典群のなかには、あらゆる宗派を超えた仏教の原初のすがたがあり、その根本がある。
本書は厖大な阿含経典群のなかから、
よく古形を保ち、原初的な経と判定される諸経をとりあげ、
パーリ語原典からの現代語訳と注解で構成。
第1巻は、ブッダの悟りの内容を示す「存在の法則(縁起)に関する経典群」と、
その法則に即して人間をかたちづくる要素を吟味した「人間の分析(五蘊)に関する経典群」を収録する。


なお東京の大手町に、 増谷文雄先生の講演を聞きに行ったりしていた。

また、増谷文雄師は、月刊誌『在家仏教』に、
『正法眼蔵』の現代語訳を連載していた。
これも現在は、(ちくま学芸文庫)で読める!
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遠い昔むかしの今日 (Unknown)
2019-12-08 21:03:24
釈迦は悟ったのである。

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-08 16:18:55
全てが全て
ものは考えようで、
それが何のために必要なのかを吟味する事で全てが変わる。

苦も苦でなくなり、
悩みも悩みでなくなる。
苦も悩みも自分の感情が創り出したものなのだから・・・

釈迦はそれに気が付いたのである。

此の世には
時と場合による限定的な正当性しか成り立たないとは南さんの言葉でもある。
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「自分の思い」に逆らうものが「リアル」 (イエスちゃん)
2019-12-08 13:08:51
『(サド・マゾ…)それがどんな様態であれ(従来の身体の中に発生すかどうかに関わりなく)、
「欲望・を裏切る・実存の苦しみ」が「残存する」なら、
それこそが情報に亀裂を生み、
「リアル」と「バーチャル」の区別を要求するかもしれません。』

簡単に言えば
「自分の思い=ヴァーチャル側」を
「実際現実=リアル側」が、裏切って行く。

「死にたくないと否定し、アンチ・エイジングに血満つを上げて」も、
現実「リアル」はそれを裏切り
「死んでしまい。火葬にされ、消滅する」

イデオロギーで「植民地支配」を
「全部が悪だった。収奪ばかりだった。と主張したい」が、しかし
現実には、「人口が、短期間で、2倍近くまで増加している」。

「ヴァーチャル」に対して
「リアル」が「それは誤りだ」と区別を要求している。

どうすれば、
この「リアル」を
人間の頭脳の意味空間「ヴァーチャル」が「受け付ける」ように
変わっていくのだろうか?

「私」「自分」「自己」は「実体・リアルである」と、
「ヴァーチャル側が信じている」構造なのです。

「リアル」側が(現実側が)、
「貴方」は本当は「実体ではなく現象である」と
「ヴァーチャル」側に(人間の頭脳に)「教えて上げる」。

「諸行無常」
「諸法無我」
を「如実・知見」するしかない。

これが「仏教」であり、
「身体の宗教」であり、
だから「正念」「正定」…正しい「坐禅」が必要な理由です。
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イエス君に質問です。 (Unknown)
2019-12-08 11:37:52
ふとイエス君に質問が出来ました。
君は「知る」と「信じる」の差をとても重大な違いだと思っているらしいけど、

エホバの神(乃至、キリスト)が奇跡を起こした現場にいなかった後世のキリスト教徒は、
神が奇跡を起こしたと【信じている】訳だけど、

やはりその現場にいなかったイエス君は、神が奇跡を起こせる筈が無いと【知っている】という事に成るのですか??

敬虔なキリスト教徒とイエス君の脳内構造で起きてる脳科学上の「差」はなんですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-08 07:16:57
釈迦の仏教と道元の仏教は論争に関しては全く別な方向を向いていたと言えるのではないか?

天上天下唯我独尊で、己の悟りのみを求めた単純明快な釈迦方式の仏教に対して、

いまや複雑怪奇となった仏教理論に対し論戦を挑んで行った道元師。

どうも仏教にはその両方が必要らしい。

しかし一般衆生にとっては論戦は必要ない。
単純明快に心の涅槃寂静がこの世で達せられる事がその望みで在るだけだ。
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Unknown (榮久)
2019-12-08 06:59:45
どうやって考えるのか

哲学史をふりかえるとギリシャ哲学は、自然哲学(自然は何からできていて、それを動かす力は何か)から始まった。
しだいに、「どこにっも真理などはないのではないか」との懐疑主義・相対主義、ソフィストと呼ばれる人びとに見られた。
彼らは「言葉というものはどのようにでも使える」あることを正当と主張しようと思えば、それなりに理屈をつけることができる。何をもって価値あること(善悪)とみなすか、という点についたは、人によってまた民族によって意見が大きく異なると。
理屈というものは恣意的につくり出せるものである以上、だれもが賛成する理屈(原理)などということは考えにくい。
彼らの指摘したこの二点は、現代人のもつ懐疑的・相対的な感覚とほとんど変わらない。

デカルトの登場で、意識の働きが客観的世界の存在に「先立っている」と、あの『われ思う、ゆえにわれあり』独我論的な主張となる。
この発想を受け継ぎ押し広げたのが、フッサール現象学だろう。
『人はあくまでも意識の働きの内側で、真と偽を区別しているのではないか』と、意識の外側に存在する客観との一致を考える必要はなく、意識はある条件がそろうならば真(現実)だと考えざるを得ず、またその条件がみたされないならば偽(幻覚や夢)と考えざるを得ない。
真偽は美醜や好悪、善悪などと同じように、意識の働きがつくりだす。
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釈迦は「いいえ、違います!!」って言わなかった??? (Unknown)
2019-12-08 06:57:23
釈迦の論議に対する基本的スタンスは、
「ふむふむ、高名な何某君がそう言うのだから、たぶん、それが真実なんだろうかね!!」ってすっとぼけて、論議に加わらなかったと聞く。
知るとか信じるとか関係なかったみたいだ。
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Unknown (Unknown)
2019-12-08 05:20:21
そう言えば
南さんは「(同族系の)他者様はこう言いますけど、ワタシはそう思いません。私はこう思うのです!!」という反論の仕方をする。
あくまでも「ワタシはこう信じています」の範囲で留まっている。
聞く方も南さんの言う事を「信じる」かどうかの主観の範囲の話である。

もし南さんが
「ワタシは~~を知りました、知っています」と主張すれば、
南さんはたちまちひねりつぶされて、護摩の火の中で滅失させられるはずである。
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いまとなってはもう遅い!! (Unknown)
2019-12-08 05:07:18
2500年前の釈迦の実像(実態)を「知る事」は不可能である。
「信じる」という事しか出来ない。

実証できるデータなど何一つない世界での出来事だ。
近代歴史での朝鮮民族の話とごちゃまぜにしても何の意味も無い。
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「知る」と「信じる」の精神性 (Unknown)
2019-12-08 04:57:47
「信じる」とはあくまでも個人の主観に基ずくものである。他者からの容認を容易に得る事が出来る。他者との論争を好まぬ仏教にはこれが良い。

他方「知る」という行為は、客観的な認識を基本とするから、
背反する概念を、それぞれが「自分は知った」と主張すれば、激しい争うが起きる。イデオロギーの対立が激化する。宗教戦争は左様にして起きるものである。
平和主義者の仏教では「(我こそは)知る」と主張するのは似合わない。

基督は「知る」と主張したのでユダヤ教僧侶から激しく憎まれ断罪され十字架の刑に処せられたのである。

南師のいう「無常無我は仏教的事実だ」という言い方は、かろうじて「自分は仏教者としてそう信じてる!!」という範囲に踏みとどまってる訳だ。これなら何とかやって行けるだろう。。。
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「知る」と「信じる」の精神性 (Unknown)
2019-12-08 04:57:29
「信じる」とはあくまでも個人の主観に基ずくものである。他者からの容認を容易に得る事が出来る。他者との論争を好まぬ仏教にはこれが良い。

他方「知る」という行為は、客観的な認識を基本とするから、
背反する概念を、それぞれが「自分は知った」と主張すれば、激しい争うが起きる。イデオロギーの対立が激化する。宗教戦争は左様にして起きるものである。
平和主義者の仏教では「(我こそは)知る」と主張するのは似合わない。

基督は「知る」と主張したのでユダヤ教僧侶から激しく憎まれ断罪され十字架の刑に処せられたのである。

南師のいう「無常無我は仏教的事実だ」という言い方は、かろうじて「自分は仏教者としてそう信じてる!!」という範囲に踏みとどまってる訳だ。これなら何とかやって行けるだろう。。。
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敵対する「ヴァーチャル・歴史認識」には「リアル」の共有が必要 (イエスちゃん)
2019-12-08 04:42:44
『身体の保証が失われて
「リアリティ」と「バーチャル」の区別が無意味になっても…』

敵対する「ヴァーチャル・歴史認識」の解決には、
「リアル・歴史データ」の共有という「手段で解決する事」が重要・必要である。

「リアルで、ヴァーチャルの目が覚める」

歴史は、イデオロギー「観念論」で観てはならない。
植民地支配を「悪」と観て、「全面」否定するのが「歴史問題」の根本原因である。


植民地支配「でも、良い」事を行う場合があるのです。

朝鮮民族は「李朝朝鮮王朝支配の政治と社会」で、国土も民衆も崩壊に向かっていた。

人口というデータがそれを明確に表している。
朝鮮王朝は、3年ごとに戸籍を調査更新していた。
だから、人口は、正確なデータである。

・1777年 1804万人
・1877年 1689万人
・1910年 1313万人 …日韓併合の時点
朝鮮王朝では、搾取で国土が荒廃し崩壊に向かっていた。
人口がドンドン減少していて、餓死が広まっていた。
大きな農民の暴動も起こっていた。
(「両班」が農民を食い物にしていたから)

併合から、たったの32年後で、
・1942年 2553万人
短期間の「32年間」で、人口が2倍近くになっている。

「日本は搾取が目的で、搾取だけであった」
これは、イデオロギー「ヴァーチャル」である。
日本統治の間、餓死者を出さなかった。
これは「リアル・データ」である。
これが事実である。

「日本統治」を全面否定するには、「この人口増加の事実」の原因・理由を説明しなければならない。

いつになったら「ヴァーチャル」から目覚めるのか?

「仏教」も「ヴァーチャル」から「リアル」に目覚める、
ということである。
これには「身体」が重要である。
「只管打坐」
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地球は丸いなんて関係ない話。 (Unknown)
2019-12-08 04:11:41
だいたいが処、
いくら身体・生身を使っても、
瞑想的に「知った!!」と思った事象が、
一体どうやったら実証出来るのですか。

単に君の妄想なのかも知れないじゃあ無いですか。
要するに、ただ単に君の脳がそう思ったというだけに過ぎないという事でしょう(脳の虚構)。
返信する
物事を公平に見ると・・・ (Unknown)
2019-12-08 04:03:01
南さんの場合では
「無常無我」は【仏教的】事実だと言う言葉を用いており、

有常有我(=常住の神と、人間の保有する霊魂)は【基督教的】事実だろうという前提での対比語だから、
どちらの思想も同位概念となり、

どちらが普遍真理的に正しいかを『知る』事は出来なくて、
どちらかを『信じる』というのが・・・
君の運命の別れめよ!!となりますね。
返信する
「知る」と「信じる」 (Unknown)
2019-12-08 03:52:45
全宇宙的究極的範囲での「無常無我」は形而上学に属するので「信じる」のカテゴリーとなるでしょう。

身体・生身を使って形而下学上の出来事を解明する場合には「知る」という事になりますね。
しかしその場合は実証できなければなりませんね。

自分が認識した範囲に於いてはという、
時と場合に限定された正当化での「非常非我」なら自明的に実証できますが、

全宇宙に汎用されるべき「普遍の真理」としての「無常無我」は実証できませんね。この場合では「信じる」と言った方が論理的ですね。
返信する
直哉君の希死念慮の根拠! (Unknown)
2019-12-08 03:37:18
南さんと宮崎(哲弥)さんとの対談本では、
二人とも仏教に出逢わなければ間違いなく自死していただろうと言っているのだし、

釈迦もズッと死を望んでいたんだろうけど、80歳食中毒死までは
ズッと生きる事に賭け続けたのだから彼(釈迦)は偉い。
私(直哉師)だったら(そんな齢になるよりズッと前に)自死してる筈だよなァ~とかとも言ってるし、

中二病直哉君で言えば、
彼(直哉君)は「死とは何か?」を知りたくて
猫を殺して観察したが、
「死とは何か?」は究明できなかったわけで、

結局自らが「一人称の死」を実行せねば事の真相が分からないという気分になっていた(リストカット位はしたのかしら??)。

それ以外では、自分はこのまま世俗にいたら「ヤバイ!!」と思い、
自死を禁じた仏門に入ったとかの言及も(どこだかの文章に)あった感じだったし、
仏門入門での面談で師匠僧侶が、
青年「南君」の極度に思いつめた、ただならぬ不穏な気配を感じて即刻の仏道入門をさせた・・・等々。

これらを称して「希死念慮がただよった人!!」(の一種)というわけですね。

しかし、今回の議論の主題は、
そういう人でもイエス君の言う「死苦の呪縛」に憑りつかれて、
死苦の呪縛の解放のために、身体・生身を使った修行という行為を実践しているのだ、とするのかどうかという、
論理の整合性を問う設問な訳です。

返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-07 18:52:53
『「あの世」でも自分の魂(実体、アートマン)が「気持ちよく生き続ける」のだから、
死苦の呪縛なんてあり得ないという
「理論の方」が本筋なのでは無いですか?』

釈尊は「観念論」「理論」「あの世」を「信じる」事ができなかったのです。

「バラモン教の神々」も「観念論」です。
だから、釈尊の救いには、役に立たない。
釈尊は、
一家の主なので、それまで「信じていた行為を」していただろう…
「バラモン教」を、
捨てたのです。

「仏教」は「観念論」ではありません。
だから「信じるもの」ではないのです。
「実際に解るもの」「知る」なのです。
この「解った人」をブッダと呼ぶのです。

「地球は丸い」は「信じる」必要はありません。
単に「知る」だけでよいのです。
この「信じる」と「知る」との区別ができますか?


「仏教」とは、実際に「この世で」「成仏」するものなのです。

だから「八正道」があるのです。
これこそが「成仏への道」なのです。
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-07 18:33:36
『青年になってからの直哉さんは、「希死願望が強く」、このままで行ったら「自死してしまうかも知れない」と思い、
「自死を禁じる」仏門に這入ったという話も聞いています。』

南師が「出家するかどうか」最後まで迷ったのは、
「出家してしまえば、もはや、自殺をすることができなくなる」という「心配」でした。

つまり、何かがあった時の「最後のカード」として
「自殺」を「取って置きたかった」のです。

「自殺を防止するために」出家したのではありません。
「死」そのものを「知るため」に「出家した」のです。

「現在は、解決できている」と推察します。
もはや「自殺」とは無縁になりました。
当初の「死」は解決したのです。

それこそが「仏教」の教えである…
「諸行無常」
「諸法無我」
なのです。

だから、南師は
「無常」・「無我」・「無記」の3点セット
を強調なさっておられます。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-07 18:17:20
イエス君の「死苦」系の論理では、
自分に実体(アートマン、魂)があると錯覚するから
死苦の呪縛に囚われるのだという説明でしたよね。
しかし身体が死んだ後でも、
あの世でも自分の魂(実体、アートマン)が気持ちよく生き続けるのだから、
死苦の呪縛なんてあり得ないという理論の方が本筋なのでは無いですか?

魂(実体、アートマン)が存在し無いと解れば死苦の呪縛から解放されるというイエス君の論理性が理解できません。
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パスカルが、確か、「気晴らし」と言った。 (イエスちゃん)
2019-12-07 18:02:12
鹿島:「人間は何故“死”を恐れるかというと、死そのものは恐くない。あるとき突然きたら それでおしまいなんだから。
だけど 死のことについて考えることが 死よりももっと恐い っつんですよ。」
鹿島:「そこが人間が、動物とかそういうのと違う不幸で・生きるのがつらい すべての辛さっていうのは、
その “死”のことを考えちゃう。
これをパスカルはキリスト教の用語で、“原罪”だ と。」

だから、「死の事を考えないように」するために
「人間は気晴らしに没頭する」。

要は、「死」のことを気にしなければ「仏教」は不要なのです。

「社会の掟・ルール」を守って、
道徳的に生きて、一生を過ごせば、それでいいのです。
ここでは、この世界では、「仏教」はまったく必要ないのです。

南洋の楽園で一生涯過ごし、それに満足している人々に、
何も「仏教」を布教する必要はないのです。

釈尊は、「死苦」から「家族を捨て」て、「社会」からドロップアウトした。
つまり「出家」、所謂「蒸発した」のです。
道元和尚も「母親の死」で「出家」した。
南師も「小児喘息の苦しみ」から「死」を考えるようになり、家族を捨てて「出家」した。
御母堂は「何も坊さんにならなくてもいいのに」と悲しんだ、と聞く。

私も、中学一年の時の「たった一日で」母の死で、
「自分も死ぬのだ」と「本当に」知った。
それが『正法眼蔵』を知りたいと「大学生の時代に」向かわせた。

要は「運命」の様なものである。
全ての人に「仏教」が必要な訳ではない。と思う。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-07 17:53:24
イエス君は「死苦の呪縛、死苦の呪縛、~~、~~」とばかり言いますが、

少年直哉君の場合で言えば、
子供時代は確かに死苦の呪縛で恐れおののいていた感じもありますが、

青年になってからの直哉さんは、希死願望が強く、このままで行ったら自死してしまうかも知れないと思い、

自死を禁じる仏門に這入ったという話も聞いています。

希死願望が在ったが故に、
それに封印する為に、
敢えて仏教僧になったの南さんでも
「死苦の呪縛」に縛られていた(いる)という事なのでしょうか???
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Unknown (Unknown)
2019-12-07 12:21:02
南さんに拠れば、

どっちみち実存には根拠が無く、価値が無く、意味も無いのですから、

死苦の呪縛への恐怖のあまり
悲観して日々をじくじく生きるより、

せめて生きて居る間位は、
楽しく朗らかに生きたらどうなんでしょうか??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-07 11:54:20
それにしても何でイエス君はそんなに死苦の呪縛が怖いのですか?
いまだに悟ってないから、
身近に訪れている輪廻でゲジゲジになっちゃうという事が怖いのですか??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-07 10:47:32
イエス君としては
死苦の呪縛に憑りつかれた人を無明と言うのですか?
そてとも死苦の呪縛に憑りつかれた事が無い人を無明と言うのですか?
どっちなのですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-07 09:20:41
死苦の呪縛からの解放という事が、身体を使う仏教の唯一無二の目的で、其の為に仏教が存在し、

身体を使わないと死苦の呪縛から決して解放されないというという事ですか?
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「良きヴァーチャルな世界」と「悪しきヴァーチャルな世界」と (イエスちゃん)
2019-12-07 09:20:01
「良きヴァーチャルな世界」と「悪しきヴァーチャルな世界」と

『ただし、リアルが必要かどうか、
バーチャルは虚偽で、すべからく危険かどうかは、
まったく別の問題です。』

「良きヴァーチャルな世界」は、フランス民族のである。
「悪しきヴァーチャルな世界」は、朝鮮民族のである。

ナチスドイツがフランスに「電撃的に」侵略した時、本当に簡単に負けて、
直ぐに講和して、「ナチスに協力する政府」を樹立した。
だから、ほとんどのフランス国民は、ナチスドイツの協力者である。
だから、ユダヤ人を不法にも強制収容所に送り出し、その財産を没収・盗んだ。
ただ、ドゴール将軍など少数者のみが、イギリスに脱出し、
ロンドンで「亡命政府」を樹立して、ナチスドイツと戦った。
ナチスドイツが負け、ドゴールがフランスに戻った時、
「ナチスドイツの協力者であるフランス国民」の問題が残っていた。
国民の大部分がナチスドイツの協力者であった。

そこで「フランス国民を分断させてはならない」と、ドゴール将軍は考えた。
ここで「良きヴァーチャル・神話」を造り出した。
「フランス国民は、全員が、ナチスドイツへのレジスタンスだった」
という「神話」を使って、「国民がお互いを裁き合う」ことを消滅させた。

だから、戦後の「ドイツ」と「フランス」の和解は、茶番劇であった。
つまり、
戦前に、「ナチス政権を生み出したドイツ」と
「そのナチス政権に協力した・共犯者のフランス」が、
戦後に、和解したということである。当然である。

「良きヴァーチャルな世界」は、フランス民族のである。

他方、
「悪しきヴァーチャルな世界」は、朝鮮民族のである。
戦後、75年も経つのに、「親日」家であったのかどうかを糾弾して、
国民は、「深刻な、それも、真っ二つの分断」に熱中している。
何んと「親日」家として「子孫の財産」を、今になって取り上げている。
「親日家」が作曲したと決めつけ、それまで慣れ親しんだ「校歌」を廃止している。

これは
「李氏朝鮮の変質した儒教の朱子学思想と
朝鮮土着のシャーマニズムの融合した神話」
「悪しきヴァーチャルな世界」が原因である。

これが基盤だから、決して収まらない。
「反日」が永久に続く「本当の理由」である。
宗教の世界なのである。
「リアル」「事実」を突き付けてもこれは変わらない。

なお、これは、全て他人の思想である。
オリジナリティは全くない。
ただ、それに同意している。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-07 09:07:46
身体操作(=)坐禅を実行している全ての人が
「死苦の呪縛」に憑りつかれているという事なのですか?
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追加 (Unknown)
2019-12-07 09:04:43
身体操作をしたら死苦の呪縛から抜けられたけど、
その後、身体操作を止めたら、また死苦の呪縛に憑りつかれてしまう事に成りますか?

何日位、身体操作を休んだら死苦の呪縛が戻って来るとかの決まりはありますか??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-07 07:33:52
>仏教は身体の宗教です。身体を使って死苦の呪縛から自らを解放するのです・・・
ーーーーーー

もはや充分生きて、この世には思い残す事は無いから、
後は静かに自然死を待ち望むという形で、
死苦の呪縛なんて関係無くなった人は身体操作を行う仏教は不要という事ですか??

イエス君はいまでも「死苦の呪縛」に苦しんでいるのですか??

身体操作で死苦の呪縛から解放されたら、その後は仏教の身体操作は不要となるということですか??

それとも生きている間は死苦の呪縛から決して抜けられない筈だから、
死ぬまで身体操作の仏教が必要だという事ですか??

つまりそれは、
死ぬまで身体の操作したけど死苦の呪縛から抜けられないという事になるから、なぜ無意味に身体操作を続けるのですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-07 07:16:12
>「仏教」は「身体の宗教」です。

つまり修行(只管打坐??)という身体行為をして、
死苦だけでなく、それを含んだ四苦八苦の原因となっている煩悩・執着から離れる・・・
という意味という事でいい訳ですね。

万一、人生観の変化が在って、自分の心から煩悩・執着が無くなった心の人(涸れた人)は、もはや身体を使う修行は要らないという事に成りますか?
返信する
リアルかどうかは「一切皆苦」ではない、「経済データ」である (イエスちゃん)
2019-12-07 05:44:04
リアルかどうかは「一切皆苦」ではない、「経済データ」である。


そもそも、「仏教」は「身体の宗教」です。
「仏教」は、「「死苦」が起きてくるメカニズム」を、
「自分の体」を使って分析して、「体験」して、解明して、
「死苦の呪縛」から解放する宗教です。

人類の「頭脳の構造」は「建て増し」構造である。
それまでの「基本的な構造」に、突然変異で、遺伝子の発現の変化で、
そっくり「余分な別館」が建て増し追加され、
それまでの「生命の維持、経営」は「本館」の方で実現できるのだから、
「新しい別館」は「新しい、自由な、機能」の実現にと「使用できる」ようになるのです。
「延髄」「小脳」「大脳」、その中でも大脳皮質内での「複雑な階層構造」が重要です。

釈尊の禅定は、「浅い禅定」と「深い禅定」との間で、何度も「往復しているもの」です。
パーリ語の『大・般・涅槃・経』の入滅の状態もそうです。

大脳皮質の「進化の最先端部分」から、その機能を「低下させ、停止させ」ていくのです。

「色⇒ 受⇒ 想⇒ 行⇒ 識」
最初に「識」の機能を低下させ、停止させます。
坐禅の時「妄念」が浮かんだら、その妄念を「追うな」。放置しなさいと教える。
「妄念」が新しい「妄念」を生み出し、際限なく「識」を活性化し続けるからです。
「識」の働きが発散していき、止める事が出来なくなるのです。
また、坐禅の時は、眼を閉じてはいけません。
眼を閉じると、頭の中で「妄想」が浮かんでくるようになるからです。
先ず「識」を止める。次に「行」を止める。更に、「想」まで止める。

要は「色⇒ 受」である「完全な受動の状態」にまで頭脳の「働きを退行させる」のです。
ここの世界では「私」「自分」「自己」は働かなくなり、存在しなくなるのです。

「騙しの渦を描いた静止画」が「錯視」によって「渦が動いて見える」のは「受」の部分なのです。
これを「動かないように見る」ことは、身体の構造上できません。

要は、順次「想⇒ 行⇒ 識」の機能を回復するプロセスで、「私」「自分」「自己」が生まれてくることを、実体験すれば、検証すれば、いいのです。

「一人のヴァーチャルな世界」が造られ、複数の頭脳によって「民族のヴァーチャルな世界」が創られ、
日本人と朝鮮人と「別のヴァーチャルな世界」に生きる事になり「反日」現象も生まれてくるのです。
日本人には「豊臣秀吉が朝鮮征伐に行った」ことを、「現在において、なぜ直ぐに」持ち出すのかが理解できません。
韓国の新聞を「WEB」で読んでいると「高い頻度で」それも「直ぐに」出てきます。
韓国の人々に訴えかけるには、それが一番有効だからです。
すると、「豊臣秀吉が朝鮮征伐に行った」記憶が、ますます強固に作用するようになるのです。
「日本人のヴァーチャルな世界」と「朝鮮人のヴァーチャルな世界」は、「全く違うのだ」という理解を徹底させることが重要です。
そして歴史においては「このイデオロギー」ではなく、実際の歴史史料、経済などの統計データ、などで、「興った事実」を共有することが重要です。

「日韓併合は搾取のみだった」はイデオロギーなのです。
実際は「李氏朝鮮王朝末での人口が、日韓併合後、短期間で23年後、2倍に増えているのです」
つまり「李氏朝鮮王朝末期で、社会と国家が崩壊するところを、日本が救ったのです」
「その当時の状況では、日本が救い出すしか方法がなかった。だから朝鮮の革新官僚が賢明にも締結した。」
現在の欧米の歴史学者が、「実際の経済データ」で、立証しているのです。
この「歴史的な実際の経済データ」を「共有する」だけでいいのです。

後は、「その意味するもの、解釈」を「日本人のヴァーチャルな世界」と「朝鮮人のヴァーチャルな世界」との「各々の内部」で「消化・吸収すれ」ば、良いのです。
自分のを「他人に押し付ける」から「歴史問題になる」のです。
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永平寺儀式はシャーマニズム?? (Unknown)
2019-12-06 22:39:07
伝統を重んじる
伝統を大切にする

これ即ち神格化・超越化・実体化に他ならない。諸行無常に背反する。

しかしながらそれが
>すべからく危険かどうかは、まったく別な問題です
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-06 22:26:31
>悟ったなら「修証一等」

即ち、
妙(たえ)なる修には証が現れる(=本証妙修)
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-06 21:36:42
「修証一等」はバーチャルで理想論。
リアルは「依行せば必ず証を受べきなり」(眼蔵随聞記)で現実のプロセス。

「自他不二」はバーチャルでベキ論に過ぎず、
リアルは「他はこれ我に非ず」(典座教訓)。だから自未得度先度他はきれいごと。

「只管打座は役にたたない」はバーチャルで奇をてらって見せたに過ぎず、
リアルは坐禅十得(普励坐禅儀)
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訂正 「非」支配層→「被」支配層 (イエスちゃん)
2019-12-06 13:59:08

「両班」は死んだ世界でも「両班」、他方、
「両班に支配される層」は死んだ世界でも「被支配層」という
~儒教の身分制を強度に織り込んで~
「シャーマニズムの世界観」と融合させた。
返信する
訂正 「国立」⇒「国分寺」 (イエスちゃん)
2019-12-06 11:44:12
訂正 「国立」⇒「国分寺」でした。
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「リアル」から「ヴァーチャル」に変る (イエスちゃん)
2019-12-06 11:26:20
『イエス君は…「脳科学への知見」があるようですから、…』

入社して大分経ってから「ニューロ・コンピュータ」が重要視され、いろいろと勉強しました。
国立の「中央研究所」にもたびたび研究発表を聞きに行ったり…

要は、基本的には「階層構造」を取っていて、
更に「分割・並行処理」をしているので、複雑な処理を
「アルゴリズム」「プログラミング」「なしで」実現しているのです。

素子の動作そのものは「生体だから遅い」のですが、
膨大な「分担して、並行して、処理する」という戦略で、瞬時に認識し考慮し結論を出すことができるのです。

人間の思考構造も(原理的には)これで可能なのです。
これも「生物が進化してきた結果」だから、当然なのですが。

「錯視」現象も、
「ぐるぐる渦を巻いているような図」勿論「静止画」ですが、
本人には「動いて見える」のです。

これも「多段な階層のニューロンの処理」において、終わり頃の層で「渦の動きを検出する」ニューロンが働き出すのです。

だから、「見ている方」では実際に「渦が動いている」のです。

つまり「リアルな外界」が「ヴァーチャルな内界」に変化するのです。
人間は、この「ヴァーチャルな内界」で生きる事になるのですが、

釈尊だけが「ヴァーチャルな世界」で生きているにもかかわらず、
「自分」「自己」「私」が「実体でない」「虚構である」と発見したのです。

普通の人は「釈尊の教え」をガイドとして、
「坐禅」という行為で実地に実際にこれを「追・体験」するのです。

釈尊のガイドがなければ、山頂を極める事ができないのです。
名シェルパが必要なのです。

南師の『正法眼蔵』もそのガイドブックの一つなのです。
返信する
追加。 (Unknown)
2019-12-06 10:13:36
敢えて言ってみると
釈迦が悟りに至った瞑想法は
臨済宗の「看話禅」の形(原型)をとっており、
道元師は臨済宗の看話禅を激しく糾弾したのでは無かったんでしたっけ??
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Unknown (Unknown)
2019-12-06 10:00:07
イエス君は仏教理論だけでなく脳科学への知見があるようですから、イエス君の生身の考えをお聞きしたいです。

イエス君は釈尊と道元師は思想(主義、仏教への姿勢)は同一である、と言っている訳ですが、

道元さんの言う只管打坐での非思量とは、
理屈優先の言語野の左脳を働かせないで、
右脳の世界観の開花・顕現を促す感覚世界(=自他不二どころか、宇宙の中に混然と融合した粒子的存在)(=サマタ瞑想)を意図しているのに対し、

釈迦の瞑想は、S長老の御得意な左脳の言語野を活性化させたままのヴィバッサナー瞑想だったように感じます。
だからこそ瞑想中の釈迦の左脳は覚醒しており、諸行無常とか諸法無我とか、縁起論とかの明確な悟り(仏教的理論)に至ったと思われる訳です。

つまり釈迦と道元師の
プラグマティズム仏教は、両者では全く違う方向を向いていた・・・
という事では無いのでしょうか??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-06 07:43:31
症状か。なるほどね。
返信する
中国では、一人ひとりのお墓である (イエスちゃん)
2019-12-06 06:07:50
中国では、一人ひとりのお墓である。
日本の方が合理的だ、
と中国人の「日本語の生徒」が言った。

日本では、お墓はひとつ
「〇〇家 先祖代々の墓」で十分である。
返信する
「リアルとヴァーチャル」「リアルな苦」 (イエスちゃん)
2019-12-06 05:51:38
『身体の保証が失われてリアリティとバーチャルの区別が無意味になっても、
情報を「分衆」ごとに共有し合意することで、
複数の「現実」が構成されるかもしれません。』


現在、2週間で、30万部も売れている
『「反日」種族主義』は非常に重要です。(「嫌韓」本ではありません)
なぜ、朝鮮民族が「反日」になってしまうのか、
なぜ、朝鮮民族と「コミュニケーション」が取れないのかの
「根本原因」が明確に示されているからです。
それは「李氏朝鮮王朝で変質した朱子学の正理学」と「朝鮮民族の独特のシャーマニズム」が融合した「ヴァーチャルな世界観」を「リアル」だと感じているからです。
これは450年間築いてきた「堅固な宗教」なのです。
日本人は「この事実・現実」をはっきりと認識しなければならない。
そして、朝鮮民族が自分たちでここから変る事は起こり得ない。
米国でキリスト教原理主義の傾向がある「プロテスタントの福音派」の勢力が強くなっているのと同じ事が起こっているのです。
だから、日本では当然である「事実」を集めて来て、それを分析して、帰納法で歴史を研究する「日本での歴史」の事実と、「韓国での歴史」とがまったく異なった「内容」となってしまっているのです。

李氏朝鮮王朝が、祖国を裏切り、中国の軍事力を用いて建国したので、「中国を正当化する絶対化する国家」の建設を行った。
精神的には「儒教の朱子学だけを正しい」とする。朱子学から観るので、仏教は迷信として徹底的に弾圧した。儒教から「先祖の崇拝、先祖の祭儀を最重視する世界観」を築いた。そして「「両班」は死んだ世界でも「両班」、他方、「両班に支配される層」は死んだ世界でも「非支配層」という「シャーマニズムの世界観」と融合させた。
これは「両班」支配の強力なイデオロギーとなり、こころの内部から支配し、抜け出すことが出来ない。
ここから「先祖は遡るほど偉大な存在」となって君臨し、現在の朝鮮民族を支配することになる。
また、先祖は「一人ひとり人格を保存したまま連なっているもの」であり、このイメージが「リアル」なのである。
(だから「族譜」を重視し、だから「先祖」を捏造する。「檀君神話」を歴史的事実として教育する。)

だから、「彼の歴史上悪女で有名な「閔ぴ」」の子孫が、あきれることに、現在、韓国で名誉棄損の裁判を起こし、更にあきれることに、裁判所までが「名誉毀損」を認める判決を下すことになった。
つまり、子孫には、先祖の一人ひとりが「リアル」であり、先祖の名誉を、現在において回復しないとその先祖が怒って罰を与えると「リアル」に感じているのである。歴史上の人物を「善玉」か「悪玉」か、裁判所で、法律で、決定できると考えている。
つまり、朝鮮民族の「リアル」と日本人の「リアル」とは異なっているのである。

他方、日本は仏教国であり、「天皇」も仏教徒である。人間は「凡夫」であり、「死後」閻魔大王の誤魔化しの効かない裁判で、極楽浄土に生まれるか、地獄に墜ちるのかが決定される。「生前の身分」が死後も「固定」で変らないなどとは考えない。「悪いことすると、犬猫に生まれ変わるぞ」と子供を脅したりする。
死後も50年も経ち故人の記憶が薄れると、「ご先祖様」一つの「霊」に「合祀」される。
余程の名家でない限り「系図などを作り、代々それを引き継ぐ」などしない。
3代も前になると「ご先祖様」に合流してしまう。
人々は「天皇の赤子・あかご」であり、みな天皇の下で平等である。「家族」の概念を、「国民・国家」の概念にまで拡張している。
この「ヴァーチャルな世界観」が日本人の「リアル」なのである。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-06 05:50:31
だいたいが処、
身体・生身で修証一等を達成したと考えている(眼蔵)訳者が、
それ故にこそ、自分こそは眼蔵の中に確実に存在するThe『真理』を読み下せる…という確信が在ったんだったらどう言う事に成るのでしょうか?

イエス君のもの言いからは、
眼蔵の中にはThe『真理』があって、
自分はそれを、ここのコメ欄で披露しているのだという形が感じ取れるのですが真相はどうなんですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-06 05:25:56
それとも
曹洞宗体制派に属していて
身体・生身で修証一等を達成した達人しか、眼蔵再解釈はまかりならぬという清規があるのでしょうか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-06 05:08:20
身体・生身で諸行無常・諸法無我を悟らなくても、
頭で考えた諸行無常・諸法無我で、
眼蔵の再解釈を論理的に(=論理の整合性から)試みるのは
充分、可能な範囲で在りますね。

イエス君も余命がおぼつかないのなら
いたずらに時間を浪費しないで、
ご自分の頭で、眼蔵の再吟味をなすってみてください。
なんならこのコメ欄でご自分の研究成果を発表して頂いた方が、閲覧者に取って
よほど役に立ちますね。
君ほどの知見があれば充分可能じゃあ無いのでしょうか?
返信する
追加 (Unknown)
2019-12-06 03:18:28
悟った後は修証一等だから、
悟ってみると「只管打坐!!」
というつながり(こじ付け??)になるという訳らしいが・・・

それで、
悟っていなかった(いない??)興道さんなんかが、
「修行(只管打坐)は何の役にもならない」(=修証一等などは無い)と言ったという事でしょうかね??
まあ興道さんも南式『変性意識があるだけだ派』なんですかね。
返信する
イエス君言再考 (Unknown)
2019-12-06 02:55:32
>悟ってみると「修証一等」
(訳・・・悟った後なら修行と悟りは同じのものだ)

>悟ってみると「自未得度先度他」
(訳・・・悟った後なら自他不二となるから、他者が悟る事は自分が悟ると同じなのだ)。

ふ~~ん???
南さんの様に「悟り」とか「真理」とかという言葉に懐疑的でアレルギー症状が出る人はどうするのでしょうか?

南さん辺りでは
『悟りは開けない』って言っているのだし、
自他区別が鮮明に存在し「他者はこう思うが自分は違います」(独行独歩)がトレードマークだから、
「悟ってみるとチョンチョンチョン・・・」が出来る筈が無いと言ってるわけで、

要は「修行したとて悟りなんて無いのだよ、修行で得るものは単なる変性意識に過ぎないのだよ・・・
それ以上でもそれ以下でもないのだよ、分かるかねイエス君」と言ってる訳で・・・

この辺の事情とイエス君言の整合性はこれ如何に??
返信する
論理のミスを「バグ」(BUG) (イエスちゃん)
2019-12-05 17:27:45
論理のミスをバグ(BUG・昆虫)と言い、
バグを見つけ出し、正すのを
デバッグ(DE・BUG)「虫の除去」と言います。

WIN10の「OS」もしょっちゅう、「バグの修正版」が送付されてきて、困ります。
返信する
社内のバス旅行を思い出した (イエスちゃん)
2019-12-05 17:14:34
『AI・プログラム言語では「機械語」に変換される時点で論理整合性のない部分は「パグ」となり変な動きもしくは停止する。』

社内のバス旅行を思い出した。
1970年に入社し横浜市戸塚駅前の「ソフトウエア工場」という職場で働いた。

長い移動のバスの車内で、若いバスガイドさんから
「皆さんは「どんなお仕事」をなさっているのですか?」と質問があった。

一人が、からかって… 
「ふわふわのソフトな「ウエア」という、「柔らかい」布団のようなものを、みんなで集まって「手造り」しています。」

別の一人は、
「その中に、虫(バグ)が沢山潜んでいるので、みんな「徹夜で」一匹一匹見つけ出しています」
(当時、夜の10時11時までの残業はざらであった。開発プロジェクトは、3ヶ月遅れが普通であった。土日も出勤していた。会社の仮眠所もよく利用した)

周りのみんなはどっと笑っているのに、
バスガイドさん「だけが、理解できず」
きょとんとしていて、
それで、また、どっと笑いが起こった。

IBMの汎用機OS360の「機械語」で、プログラムを記述し開発していた。
(IBM互換機で商売を展開していた)

今なら「JAVA言語」「C++言語」だろうが…

職場が「戸塚駅」なので、北鎌倉の円覚寺の道場「居士林」の毎週の「土日坐禅会(泊まり込みです)」に直ぐに行けた。
(一番近い道場だった。これも運命か)

当時は指導者が足立大進師だった。
早稲田大学に「坐禅の同好会?」があって大勢が参禅していた。「経行」は、寺院の「本堂の周り」を走り回るものだった。曹洞宗では「半足」毎の「そろりそろり」だが。
返信する
Unknown (榮久)
2019-12-05 15:10:04
communication

・・・への伝達、連絡、通信、交信等々と訳され、また感染、伝導などとも。
しかし、他者(人)との相互の意思疎通とは各々の語彙、理解力、にも関連してくる。

言葉は使う人のなかの意味に束縛され、完全に自分の言語表現領域外にあることを言うことも意図することもできない。
言葉そのものは、ある種の一連の歴史的行為の貯蔵庫あるいは堆積物だといえるであろう。

言葉の曖昧さ他義性が表現を深めるためにではなく、むしろ表現をごまかすために用いられるように感じる、特に政治家と呼ばれる一連の人びとには、この不毛なコミュニケーション拒否のような用法を「無明」というなら適切と思える。

会話では、他者との異なりを思い知らされることが往々にしてある。
ゴルギアスのいう「誰も他の人と同じものを考えられない」が思い浮かぶ、「無明」とは意思疎通に関する指摘であろうか。

AI・プログラム言語では機械語に変換される時点で論理整合性のない部分はパグとなり変な動きもしくは停止する。
機械の方が拒否してくれるので自分の足りなさに思い至る。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-05 12:59:16
もっとだ
もっと脳汁ぶしゃぶしゃなコメントをくれぇえあ
返信する
訂正です。…威儀・即・仏法 (イエスちゃん)
2019-12-05 12:11:23
『暫定的な典拠として
雑誌『禅』明治42年10月1日号は「諡常済大師」記念号だが、
「森田悟由」禅師の所感として「太祖の仏法は高祖の所謂「作法是宗旨・

~威儀・即・仏法~

」にして徹頭徹尾実践躬行なり」とされたのを見出している。後はここからどこまで遡れるかが今後の課題である』
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「仏教」は「諸行無常」だから… (イエスちゃん)
2019-12-05 06:56:14

「仏教」は「諸行無常」だから…

「八正道」
仏教において「涅槃でいる」ための8つの実践徳目
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと。

当然、これから外れたら「仏」「仏陀」「覚者」…ではなくなります。

道元和尚が「威儀・即・仏教」と教えているのはそのことです。

「ブッダの生き方」をすれば、皆、「仏陀」なのです。
「仏教」は「業論者」「行為論者」なのです。

「その人の行為」が「何者であるのか」を決めます。

道元和尚の当時の中国宋代の臨済宗の禅師たちは、
「見性成仏」の「看話禅」であり、
「坐禅」は「見性」するための「方法・手段」でした。

だから「禅師になってしまう」と、
「坐禅」をしなくなりました。

ただ一人、如浄禅師だけが、毎日、修行僧たちと一緒に「坐禅」を続けていたのです。

だから、道元和尚は、「正師」と仰いだのです。

「坐禅」しなくなったら「僧侶」ではありません。
それは「凡夫」です。
行為で「僧侶」になるのですから、
それを捨てたら「凡夫」です。

「仏教」は「業論者」です。
「行為」で「バラモン」となる。
と、釈尊は教えている。

南師は、同じ事を、
「行為」で「空になった林檎箱」が「勉強机」になる。
「行為」で「空になった林檎箱」が「踏み台」になる。
「行為」で「空になった林檎箱」が「おもちゃの整理箱」になる。
と教える。
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Unknown (Unknown)
2019-12-05 03:28:39
イエスちゃんはネット中毒のようですね、独居老人の暇潰しには付き合えません。自分のブログで愚痴って下さい。ウンザリです。涎のようなただ垂れ流すだけの虚言と妄想
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-05 03:27:50
いや違います、いや違います、いや違います~~、~~、と叫ぶのは何故なのですか。
イエス君にだけ見えている絶対的「真理」とか言うモノが有るのですか?
他人の意見を聞くことができない柔軟性に欠ける老人の特徴ですよ
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Unknown (Unknown)
2019-12-05 02:56:37
また、また同じ話題で垂れ流す、馬鹿の話しは長いし、繰り返すことが多く結論は偉いさんの引用、このブログの汚点
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仏教において「涅槃でいる」ための8つの実践徳目 (イエスちゃん)
2019-12-05 02:44:01

「八正道」
仏教において「涅槃でいる」ための8つの実践徳目
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと。

当然、これから外れてはいけません。
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いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-05 02:33:03
八正道は、
悟る前も、悟った後も、「両方での生き方」です。
つまり、釈尊が「一生涯」実践した生き方です。

「八正道」
仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと。

『釈迦仏教と道元仏教が同じだとすると、
釈迦も修証一等とか自未得度先度他を説いたという事でいいんですかね。』

「釈迦仏教と道元仏教が同じ」ということは

「密教」では「ない」。
「仏性・如来蔵思想」では「ない」。
という事です。

「無常」「諸行無常」
「無我」「諸法無我」
「無記」「前世や来世は問題にしない。…現世、この世での修行に専念する」
この根本がまったく同じだということです。

『修証一等とか自未得度先度他』
これは、その根本から、当然、派生することです。

道元和尚は、「八正道」の「結論」を先に説いただけです。

所謂、悟ってみると
『修と証は一等である』
だから、一生涯「只管打坐」である。

『自未得度、先度他』
「自己」の虚構を発見すれば、
「自他不二」である。
当然、『自未得度、先度他』となる。
「自己」よりも「他己」が優先となる。

『仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、
「自己の身心」および「他己の身心」をして脱落「せしむる」なり。』

だから、一生涯「只管打坐」である。
『悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。』

つまり、
正見、正思惟、正語、正業、正命、
そして「正精進」、「正念」、「正定」
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Unknown (Unknown)
2019-12-04 17:41:32
イエスちゃんはネット中毒のようですね、独居老人の暇潰しには付き合えません。自分のブログで愚痴って下さい。ウンザリです。涎のようなただ垂れ流すだけの虚言と妄想
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 14:41:45
手前味噌な自説の自慢のみ、論理も知らないガラパゴス自称救世主、このブログの汚点
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一切経には、膨大な注釈書を含む (イエスちゃん)
2019-12-04 14:26:12
一切経には、「膨大な注釈書」を含むのです。

つまり「経」と「論」と「律」とです。
これが「三蔵」です。
ですから、三蔵法師は敬称です。

此の内「論」が「注釈書です。
竜樹菩薩の『中論』もその一つです。
天親菩薩の『浄土論』は親鸞聖人が格闘しました。

南師の著作も『正法眼蔵』の注釈書です。
待望しています。
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Unknown (Unknown)
2019-12-04 14:08:26
釈迦仏教と道元仏教が同じだとすると、
釈迦も修証一等とか自未得度先度他を説いたという事でいいんですかね。
返信する
「いや違います」様。 (Unknown)
2019-12-04 11:35:03
アッ、そ~か~!!
もう余命僅かだから、
今のうち、精一杯叫ばないとならないのだとかいう切迫感なのですね。
了解しました。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 11:25:51
人がイワシの頭を信じて
心の安らぎ・心の癒しを得ているのに、
それに論理闘争を仕掛けて、
いや違います、いや違います、いや違います~~、~~、と叫ぶのは何故なのですか。
イエス君にだけ見えている絶対的「真理」とか言うモノが有るのですか?????
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 11:11:45
佐々木閑さん辺りだったかの予言に拠れば、

これからのすべての宗教は
「心の癒し教」になっていく・・・とかでしたかね。

宗教の論理闘争は不要です。
単純明快に心が癒されたいですね。
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Unknown (Unknown)
2019-12-04 10:59:56
イエス君はキリスト教業界においては、
奇跡をおこないうる神の能力を否定して、
全てのキリスト教徒を無神論者化する論理闘争を仕掛けた訳ですが、

仏教業界に於いてはどんな論理闘争を仕掛けたいのですか?
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Unknown (Unknown)
2019-12-04 10:46:21
仏教がかくも複雑怪奇な理論武装をする羽目になってしまったのは何故ですか?
みんな釈迦のせいですか?
それとも道元さん??

原点の釈迦仏教に戻って
単純明快に修行に励んで、安楽の法門を這入ろうとするだけでは駄目なんですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 10:36:38
南本『眼蔵を読む』の中で、南さん言うには、
「『眼蔵』は人に分からせようとしないのだ・・・だから(状況を判断して)自己流で読むしかないのだ」的な事を云っていましたよね、たしか?

なんか道元さんと南さんはよく似ているみたいですよね。
「諸行無常・諸法無我・縁起」とかの分かりやすい言葉で済むのに、
何故、解りやすい事をわざと難しい言葉で言うのでしょうか??

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 10:22:49
要は要は要は・・・と三度繰り返して見ましたが、
ツマル処、要は、
道元さんと釈迦は同じ事を主張していたのである・・・ですね。
で、その仏教の要諦は
諸行無常・諸法無我・縁起説であるのだ、という事で・・・、

要は、仏教理論は全てそれに集約される。

・・・という事なら、
ふむふむ理論はそう言う事だな。
ではジックリ修行して、あとは煩悩・執着を滅して心穏やかに安楽の法門にはいりませふ。

・・・ってことでいいのではないのですか。
なぜ修行と眼蔵の両方が同時に必要だなんて言うのですか。
別に曹洞宗教師になろうなんて思っていないのですから・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 09:00:07
眼蔵に通底してる思想が
釈迦と同じ諸行無常・諸法無我なのだという事が最初から明らかならば、
なぜ南さんは他の訳者(と読者)にはそれが分かっていないから、俺が800年後の今になって、新解釈版を出そうとしているのだと言うのですか。

道元さんは今までの数知れぬ多くの訳者・読者たちを言葉で騙して来たのですか??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 08:54:36
自称救世主曰く
「釈尊の仏教」と「道元和尚の仏教」とは同じである。
この教えは、時代も、場所も、遊離はしない。それは「人間の誤り」は少しも変わっていないから。

『南さん曰く、眼蔵の中に「真理」が在って、自分は其れを解き明かせると思っている訳者の自己流主観でしかない。
「普遍の真理などというものは無く、
全ての全てが、時と場所と場合による限定的な正当化に過ぎない・・・」』との論理的整合性は如何に
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いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-04 08:51:35
『…なぜ「南さんの解釈」が必要なのですか?』

「南さんの解釈」を参考にして、
自分の解釈の不足な点を知って補給するのです。

つまり、南師と対話しているのです。

親鸞聖人も、関東の弟子たちを捨てて、
京都に上って、「一切経」で検証していきます。

道元和尚も、「一切経」を必要として、「一切経」と対話して、検証して、著述を続けられた。

自分の能力でも理解できるような・対話の相手が欲しいのです。

「禅宗での病」は「師が一人しかいない」事です。
一つだけを信じる事は危ういのです。

唐代の禅宗では「多くの師匠を巡って」修行しました。

だから「雲水」と呼ぶわけです。
しょっちゅう旅をしていた。

返信する
いいえ違います & 以前のご質問への回答 (イエスちゃん)
2019-12-04 08:32:27
『ドンドン、今という時代に、また土地柄から遊離していく。』


「釈尊の仏教」と「道元和尚の仏教」とは同じか?
というご質問がありましたが、
同じと考えています。

道元和尚は、ご自分の「旦那」に要求して、「一切経」を納めさせました。
つまり、大乗仏教と小乗仏教とを備えて、
「道元の仏教」を「それで」検証していくのです。


道元和尚は、「釈尊の仏教」に回帰していくものでした。

だから、大分以前に、松岡由香子・日本基督教団牧師は、花園大学に「道元は小乗仏教にもどった」という論文?文章を出している。

だから『正法眼蔵』の新草「全12巻」の現代語訳の仕事がきたわけです。
担当者に抜擢された。
(花園大学の上田閑照先生の当たりの推薦?)

道元和尚の信仰の軌跡が「回帰」です。

比叡山の「天台密教」「日本天台本覚思想」を、捨てた。
晩年の栄西禅師の「最新の臨済禅」を捨てた。
(栄西禅師は、2度、中国に留学し、「本物の臨済禅」を習得していた)

その400年前の古い仏教の「天台宗止観」を
如浄禅師が実践していた。

そして小乗仏教の「説一切有部」の哲学書を「論理としては勝れている」と言いながら、それも乗り越えて行く。

仏教の最初期の『阿含経』に至って、
「釈尊の肉声の教え」に触れて満たされた。

一番最後の著作が「八大人覚の巻」だった。
これが「釈尊の遺言だ」と意味付けしている。

「釈尊の仏教」と「道元和尚の仏教」とは同じである。
そして、それが、
「諸行無常」
「諸法無我」

この教えは、時代も、場所も、遊離はしない。
それは「人間の誤り」は少しも変わっていないから。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 08:13:19
「諸行無常・諸法無我」という前提が先ずあって、眼蔵を再解釈していくという事ならば、
専門家ではない素人筋なら、ただ単に、
「そうだよね、諸行無常・諸法無我なんだよんね」っと思っていればいいだけの事・・・結論はもう出ているのだから。

自分で坐って解かるまでも無く、頭ですでに解かっている事で、
さらにいまさら、まだ何か?って言う事に成る。

坐って解る修行の目標は、
自らの「煩悩・執着」から解き放たれる事なのである。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 07:59:20
南さんの言に拠ると、
今迄の眼蔵現代語訳は、
眼蔵の中に「真理」が在って、自分は其れを解き明かせると思っている訳者の自己流主観でしかない。
だから自分は、諸行無常・諸法無我という仏教的観念(注、南さん表現では「仏教的事実」)にそって眼蔵を吟味し直して自分流解釈本を作るのだ(しています・したいです)って言ってるのだから、
イエス君はすでに南さんの趣旨を理解しているんでしょうから、
その流れの中で、
イエス君は自分で坐って、(眼蔵本を)確かめればいいだけでは無いですか。
余命いくばくかのイエス君、ぜひそうなすって下さい。
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Unknown (榮久)
2019-12-04 07:51:09
数学と言葉

古代文明 エジプト、バビロン、インド、中国かなり程度の高い数学がつくり出されていた。
言語はものを一般化するはたらきを持つ、「はな」という一つのコトバは、サクラもウメも、バラの花もさすことができる。
おそらく何万種類の花すべてに適用するコトバである。
「トリ」といえば、ツバメも、スズメも、ハトも、すべてのトリを意味することができる。
このように、コトバは何か特別なものや動作ではなく、一般的なものや動作を意味しているのである。
数字もこの点はコトバと同じである。

数学で使われている記号はながいあいだの洗練を経てきたせいもあって、たいていは覚えやすくできているし、また国際的な象形文字のようでもある。

1,2,3・・・・というものの個数を数えるときに使われる自然数は、人間がはじめに考え出した数であっただろう。
その後プラスやマイナス、分数に一般化され、その概念もしだいに一般化されていく。

約1000年ほど前アラビア人のアルクワリズミ(Al-khwarizmi)が二次方程式をはじめて研究してその解法を発見したが、彼はプラスの数しか知らず今のマイナスや0を知っている、いわゆる根の公式での解法とはだいぶちがっていた。

元をただせばマイナスや0という新しい数が発明されて、数が一般化されたからである。

AI ・プログラムの基礎的要素ともいえるアルゴリズムも数学、インドでゼロ「0」の概念が、仏教論理学の「四句分別」も興味深いが、数学「記号論理」集合論のものを分解し、それをバラバラの部分品の集まりと見なすことから考えはじめ、もういちど組み立てること、つまり総合することが最終的な目的とする、Georg Cantor(カントル)が無限の性質を定義し、また無限が複数存在し、ある無限は他の無限より大きいという証明した。集合論という古代の数学の一学派の理論をベースに、そこに自分なりの考察を加えて発展させた論理の数学とも呼ばれる魅力的な学問である。
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坐って、眼蔵を読んで、確かめればいいのです」 (Unknown)
2019-12-04 07:42:18
イエス君が自分自身で眼蔵を読んで確かめればいい訳だから、なぜ南さんの解釈が必要なのですか?
じぶんの解釈に自信がないという事ですか。
自信がないのに何故、眼蔵はこうこうだと言いたがるのですか?
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Unknown (Unknown)
2019-12-04 07:26:52
終生変らぬ古き良き普遍の世界(真如・桃源郷)があるとか夢見るのは、
日ごろの自然の脅威にさらされ続けている日本風土に対する反動から起きた、
日本人のバーチャルと言った処であろうか。

リアルが諸行無常であるならば、
釈迦の言葉も修行無常、道元の言葉も修行無常・・・単に時と場合に依る限定的な正当化に過ぎぬ(のでは??)。
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いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-04 07:17:54
『坐って、「確かめれば」よいのです。』

ガイドブック『正法眼蔵』が必要です。

秋月老師は「白隠禅」の「二つの流れ」の両方とも卒業された方です。
だから珍しい方です。

秋月老師は、95巻に編集された『正法眼蔵』で提唱なさっていました。
これは「仮名の法語」を全て「執筆年代順に並べた」ものです。

これの「海印三昧の巻」まで来て、立ち往生したのです。
「白隠禅」では「道元禅」は理解不可能とはっきり解ったのです。
その文章の部分から、以降、提唱は止めになりました。

つまり「坐禅」だけでは、「道元禅」は解らないのです。
『正法眼蔵』の理解が必要なのです。

つまり「正見」が必要なのです。

古来、インドでは「ヨーガ行」がありました。
それでは、解らないのです。

釈尊が発見した事は、現代の言葉でいうと、
「自己」は「言語」が虚構したものである。
「自己」は「実体」ではない。

「諸行無常」
「諸法無我」
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Unknown (Unknown)
2019-12-04 07:11:00
諸行無常の原理は
「ところ変われば品変わる」のみならず、「時が変われば思想も変わる」、
即ち
全てが変わる、万物流転を認める立ち位置で在ろう。

もし2500年前の釈尊や、800年前の道元師が言ったことが簡潔明確であったとしても、
それを後世が後生大事に守り永遠に変わらず引き継ぐべしであると言うならば、
それはその言葉(及び、作法・儀式)を神格化・超越化している事に成る。普遍の真理化が起きる。
かくて言葉・行為の「常住」を強いる事に成る。
ドンドン、今という時代に、また土地柄から遊離していく。

南さん曰く、
「普遍の真理などというものは無く、
全ての全てが、時と場所と場合による限定的な正当化に過ぎない・・・」。

そうであるなら、今われわれに必要なのは、智慧を働かせて、
昔の教えから、誠心誠意をもって、彼等の言葉から現在でも通用する言葉を吟味選別して行く事であろう。
返信する
数学者は「数字」が実在すると考えている (イエスちゃん)
2019-12-04 06:50:45
数学者は「数字」が実在すると考えている、
と本で読んだ。
頭脳が「リアリティ」を付加するので、当然だろう。
年中考え続けていると、自然とそうなる。

中村元さんもそうである。
中心は「インド思想」である。
主流は、当然、「ヒンドゥー教、バラモン教」である。
その視点から「仏教」を理解する。
すると「ヒンドゥー教、バラモン教」の「支流」に見えてくる。
だから、「無我」ではなく「非我」を主張する。
これは「ウパニシャド哲学」そのものだ。
「バラモン教」と「仏教」とは「対立するもの」ではなくなる。

同じ現象が、高崎直道先生にも起こる。
「仏性・如来蔵思想」が「仏教」だと信じて一生涯研究してきた。
それを急に「仏教」でないと言われても、「仏教」にしか見えない。

同じ現象が、「三祖」にも起こる。
何も知らない幼少時期から「9年間も」
「日本達磨宗」を信じて修行してきた。
その指導者と組織まるごとが、道元和尚の下に、移動した。
そこで道元和尚の下で、10年間修行して来ても「日本達磨宗」の教えで理解することになる。
そちらの方に「リアリティ」があるからである。

「オーム真理教」の信者は、教祖・麻原彰晃が死刑にされても、中央に麻原彰晃の写真を飾り、「麻原彰晃の教えの本」を読んで、修行を続けている。
そちらの方が「リアリティ」があるから。
「洗脳」から抜け出すことができない。

頭脳が「リアリティ」を付加するので、当然だろう。
年中考え続けていると、自然とそうなる。

そこで、道元和尚に戻って来る。
道元和尚は、天台宗の比叡山を下山した。
「天台本覚思想」に疑念を生じたのである。
リアリティを感じなくなったのである。

だから「仏性・如来蔵思想」を「全身全霊で」批判するのです。
『正法眼蔵』「仏性の巻」が集大成である。

松岡由香子・日本基督教団牧師の研究本が、それを明確にしている。

高崎直道 VS 松岡由香子
である。
どちらの主張に「リアリティ」を感じるのか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 06:09:54
5G解禁の2020年も間近。バーチャル拡大で、リアルは拡張されるでしょう。そもそも釈尊はリアルについての、バーチャル性を説いた。リアルが拡張されようが、分断されようが、客観性を持ってリアルに対峙する仏教者にとっては、立ち位置は変わらない、とは思います。

坐って、確かめればよいのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 04:30:07
すなわち南さんにあっても
実存たる自己が存在する意味と価値を感じているのだからそれが南さんという実存の根拠なわけであろう・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 04:25:28
実存の無根拠性はバーチャルの世界。
因果因縁はリアルの世界。

バーチャルは形而上学を言及し、
リアルは形而下学を扱う。
両者に理論の整合性が無いわけでは無い。
返信する
訂正 (Unknown)
2019-12-04 04:17:44
祇園精舎の鐘の声!

鐘の声などとはいかにも日本人の発想だよね。
返信する
侘しさこそが日本の心!! (Unknown)
2019-12-04 04:12:11
祇園精舎の鐘の音
諸行無常の響きあり・・・

これが日本仏教の源泉で、
少年南直哉君はこの言葉にやられた・・・
やっぱり南さんもニッポン人じゃね!!
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 03:59:27
インド仏教でなければいけないという
根拠と意味と価値とは一体なんぞや??
返信する
ところ変われば品変わる! (Unknown)
2019-12-04 03:58:02
宇宙普遍の真理とはバーチャルという仮想世界の出来事だろう。理想論という意味だ。

地域性のある思考こそがそこで息ずいている生きている人間のリアルであろう。
人は自分の周りのリアルの世界で生きるのだ。

この前提で考えると、
あと寿命が僅かばかりのイエス君が、天皇万歳するのも日本的現象であるという事で充分納得がいく。

要は、要は、要は、
日本には日本的仏教が必然的に生まれてくるという事だ。
日本人には日本仏教がよく似合う!!
決してインド仏教にはなり得ない。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-04 01:43:25
要は、と三回言い要約出来ていない論理性のなさ相変わらず繰り返しの話題、ガラパゴス老人、当ブログの汚点
返信する
「本証妙修」…なぜ事実を隠すのだろうか? (イエスちゃん)
2019-12-04 01:18:00
今日、バイクで10分のイトーヨーカドーに行って来た。
「法蔵館文庫」で高崎直道先生の「仏性・如来蔵関連」の新しい本を出版していた。
立ち読みしたが、
「本証妙修」でいいのだ、
という結論だった。
涅槃経の下田さんも応援していた。
相手も必死である。大きな徒労感を感じた。

要は「三祖」から「日本達磨宗の印可状」を大切に継承している「立場」からは「仏性・如来蔵思想」から離れる事ができないのである。

比叡山の「天台密教」「日本天台本覚思想」にリアリティがあるのである。
相手も必死で擁護している、論陣を張っている。

要は、「二つの宗教」「別の宗教」なのである。
どちらも「区別がある」だけで、同等なのである。
つまり「どちらが正しい」というのではないのである。

ただ、なぜ「日本達磨宗の印可状」を「三祖」以下、大切に継承してきたという事実を、隠すのか?
「大切ならば、堂々と公表すべき」である。
そうでないと「羊頭狗肉」となってしまう。

「誤魔化し」が入ると宗教は堕落する。

「本証」は「本覚」と同じものである。

「本証」にリアリティを感じ、この「本証」を根拠にしてしまう。
きっと「仏性」にも「リアリティ」を感じるのだろう。
そうでなければ一生涯「仏性・如来蔵思想」の研究をやっていけないだろう。
研究を続けたから「リアリティ」を持ったのか?
鶏が先か卵が先か?

しかし、肝腎の道元和尚は、どちらなのか?
「仏性の巻」に従えば「仏性・如来蔵思想」を批判しているのは明確である。

高崎直道先生の本の中でも、
『正法眼蔵』には「本証」も「妙修」も出てこない、
と書いてあった。
「最初期で」かつ「入門書」の『弁道話』にだけある、と。
(弁道話は、改訂作業はしていないだろう。若書きで「古いまま」なのだろう。)

要は「本証」は誤解を誘発させる言葉であるから「使用すべきでない」と考える。
「本証」から「日本達磨宗」が入り込んで来る。
「日本達磨宗」にリアリティを感じるから離れる事ができない。
「不思議な」論理展開で「無理に」道元和尚に繋いでしまうのだ。


「釈尊の仏教」に「仏性・如来蔵思想」を繋ぐことは不可能である。

何にリアリティを感じるのか?が問題である。

大脳皮質の「膨大なニューロンの連鎖反応」の「結果」にその「違い」が出てしまっている。
これが「曹洞宗の僧侶の生き方」に違いとなって「発現する」のだろう。多分。

南師の『正法眼蔵』の講義録の出版が待たれる。
「現成公案の巻」だけでも、
先行販売にならないものか?
もう寿命がもたないから。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-03 23:23:24
イエス君に感謝!!
君が何か言うたびに、突如新たな疑問が浮かんでくる。

今回のコメのどこかで、君は確か、
「仏教は縁起を説き、因縁因果を説き、すべては自業自得だ」と言ったよね。
つまり、物事(事象)は偶然・偶発的には生まれないという意味だよね。
全てには原因があり理由があるという事な訳だな。

じゃァ、仏教僧の南さんが説く、
「全ての実存、即ち存在には根拠が無く、意味がなく、価値がない」と言うのとの整合性はどうなんだ??

南さんの言葉を言いかえると、
「すべての存在は偶然・偶発的に出来たに過ぎない・・・
それゆえに根拠なく意味がなく価値がないのだ」という事になるじゃないか。

そうだとすると両者の言い分は矛盾するじゃないか、
どうなんだろ、お得意の『違います』っていう調子で
君の考える整合性を、説明してくれたまえ。
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Unknown (Unknown)
2019-12-03 15:50:24
言葉が無かったら文化文明は出来なかったろうし、仏教も出来なかったろうし、
人間の思考も認識も伝達できなかったろうし、
人間の精神活動の全てが言葉がある故に存在するわけだ。
言葉に騙される人はいる訳だが、
無明とは言葉だ、では無くて、
間違って使う人間が無明だという事に過ぎない。
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Unknown (Unknown)
2019-12-03 14:02:07
『言葉は無明などではなく世界を開く「光 = 明」なのでは』ヘレン・ケラーにとっては無明じゃなく明かりじゃないのかと言っているのでしょう。すごく全うな意見です。
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Unknown (Unknown)
2019-12-03 12:27:17
「言葉が世界を開く光明」とはこれ如何に?

ボンヤリし過ぎてて中身がない。
こんなのなにもいっていないのと同じ。
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Unknown (78)
2019-12-03 10:56:28
最近、宮司や住職など社寺のトップになった人が、その社寺を好きに「活用」していいと勘違いする例が多い気がする。
言っておくが、その土地、社、堂宇は束の間預かっているだけだ。
思いつきは三代寝かせろ。
聖域はお前の玩具でも金を稼ぐ道具でもないんだ。
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Unknown (Unknown)
2019-12-03 09:58:07
確かに榮久さんの視点には気付かされることが多いです。
目で見た物を言葉に置き換えて口に出して言い、それを耳で聞く。
こういった環境で育てば、自然と「物」を「言葉」で表現できるようになるでしょう。しかしヘレン・ケラーとサリヴァン先生の「奇跡」と「ウォーター」にいたるまで
その長い苦闘といえるほどのサリヴァン先生の努力とヘレン・ケラーの感受性の高さと
言葉という抽象的な「記号」に置き換える能力が結びつき「音声言語=話す」を獲得し得た。
言葉は無明などではなく世界を開く「光=明」なのではと思いますね。
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Unknown (Unknown)
2019-12-03 09:28:06
親衛隊長様のご説明ありがとうございました。
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Unknown (Unknown)
2019-12-03 09:08:07
【自己はない】という思いさえも、ひとつの【所有】だということ

【自己】は【不意に】去来する

【自己】はある。自己がなければそもそも生活できない。

しかし【自己】が【所有】されることはない。自己はただ去来する。

この身体、この思考、この感情、あらゆるものが【不意にやってくる】ものであること

【私】とは単に【場所】だということ。
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Unknown (Unknown)
2019-12-03 07:15:54
馬鹿の話しは長いし、繰り返すことが多く結論は偉いさんの引用、他力本願の自己中
ガラパゴス老人、このブログの汚点
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いいえ違いますの訂正です (イエスちゃん)
2019-12-03 07:11:26
『「全員が結婚している曹洞宗」からは、
「目障りな存在になる」「自分達を行為で否定する存在になる」と「多分思った?」のであろう。』

これを訂正します。
つまり「ニーズ」がなかったのです。
南師だけが必要としていたのです。
一生、僧堂で「出家」を貫こうという僧侶が存在しなかった、のです。

「ニーズ」がなければ「制度」は必要ありません。

ただ、「道元和尚の教え」の「出家主義」と調整する必要は残ったままです。

僧侶の「結婚」の根拠そのものが曖昧なので、曖昧なまま「先送り」状態です。

なお、盛岡の寺町の源勝寺第三十三世石亀環道和尚は一生涯独身だった。
そして、無欲な師であった。
近くの「報恩寺の僧堂」で修行僧の坐禅の指導をしていたと聞く。
毎月、坐禅会を開いていた。
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Unknown (榮久)
2019-12-03 07:07:29
言葉

言葉が先か観念が先か
心に生じる感情や頭に浮かぶ考えを言葉で
表現しようとしてなかなか表現しきれないもどかしさを感じたりすることがあるように、
たしかに言葉に先行する形で何か気体のようなものが存在するような感触を経験している。

言葉に先行するそれは、イメージなのか。

Oliver Sacks 著「手話の世界へ」で
手話は優れた、ときには音声言語よりも優れた抽象能力を持っていると指摘する。
視力によって認知される手話は、一種のイメージと呼べないこともないが、それはすでに高度に記号化された約束事になっている。
つまり言葉としか名付けようのないものになっているのである。
絵としてのイメージが右脳で処理されるのに対して記号となったイメージが左脳で処理される。
先天的視力障害児の場合、そもそもイメージという方法に頼る記憶や概念の結晶化はあり得ないのではないのでは、言葉に先行する何かとは、一体何なのだ。
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-03 06:18:17
『南さんのB面は永平寺生活のダースベーダーであるが、
「そこで正師を受ける事を拒否して、
やがて永平寺を下山する事となった」、
天上天下唯我独尊が南さんのA面である。』

現在の曹洞宗は、
みな「結婚して、妻ができて、子供ができて」「寺院という財産を持ち」
実質「在家」になってしまいました。

この状況で、一生涯、僧堂で「出家」で貫くことが、
「曹洞宗の制度の中では不可能」なのです。

「20年頑張った」が「その限度」だったのです。

「8年間?も待っていてくれた女性」も存在していたのです。

だから、南師は「一生涯、独身で僧堂で修行できるような制度」を作る様に呼びかけるのですが、
「全員が結婚している曹洞宗」からは、
「目障りな存在になる」「自分達を行為で否定する存在になる」と「多分思った?」のであろう。

現在でも、実現できていません。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-03 05:31:08
イエス君が非常にまじめな方であることは認めます。その点では尊敬に値します。

しかし、いつもいつもの紋切り型の陳腐な説法は見るだけで疲れます。
だから、ワタシはその長い説明文を数秒でスキムするだけにしてます。

折角の君の生真面目さが生かされていないのは至極残念でなりません。
年齢的ガラパゴスなのでしょうか?
返信する
補足 (Unknown)
2019-12-03 05:17:06
イエス君がいくら身体・生身を使っても、
こればかりはダメですね。
返信する
此の世には真如などは無い。 (Unknown)
2019-12-03 05:14:42
リアルリアリティ=真如
バーチャルリアリティ=虚偽

>ただしリアルリアリティが必要かどうか、バーチャルリアリティは虚偽で、すべからく危険かどうかは、まったく別な話です。

すなわちバーチャルリアリティは
方便として役に立つ…ということで、

人生が、「すべからく」、
バーチャルリアリティで回っているという意味ですね。
返信する
えええ、ホンマでっか? (Unknown)
2019-12-03 05:01:10
>リアリティは大脳皮質が決定する・・・

南さんの同意が有って言ってるのですか?
まさに今回の記事に逆行している様ですよね。

でもまあ、
バーチャルもリアルの内だ、ということで受容できなくもないですかね、たぶん、ムリムリに・・・
返信する
補足 (Unknown)
2019-12-03 04:52:12
自分では解っているからそれでいい、自知だから…とか言うんだったら、
それは単なる幻想・妄想と変わりませんね。

南流で言うなら、
特殊な思考回路で思いついた、或る【変性意識】にすぎない、という訳です。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-03 04:45:32
>本当に諸行無常・諸法無我が如実に解っているなら他人に質問する訳がない、自知なのだから・・・

言ってる君自身が如実に解っているのかどうかという逆説的・婉曲的質問にすぎません。

だから君自身は君の身体・生身で
諸行無常・諸法無我が本当かつ如実に解かった人なのですか?

君自身もただ単に、
頭で理解しただけでは無いのですか?

諸行無常・諸法無我を身体・生身で如実に解っている君は
他者に向かって「解っている証し」をどう証明しているのですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-03 04:25:45
>(諸行無常・諸法無我を)
頭で理解しているだけでッスね!!

頭で理解する事を「バーチャル」と言い(=脳はサンスカーラ即ち「虚偽」するから)、

身体・生身で理解するのがホンモノだと称するイエス君式「リアル」との間に、
何の差も無いというのが今回の記事のテーマですよね。
バーチャルとリアルは区別がつかない、つまり、
道元の言う過去の出来事が、道元固有の過去の出来事であるのか区別がつかない、結局分からない・・・というのと同じ命題でしょう。

ひっくり返して考えれば、
身体・生身で本当かどうか分かる、とかいう君の理論もバーチャルなのかリアルなのか何一つ分からない訳でしょう。

だからこそ南さんが言うのでしょうか、
「リアルを担保するのは苦の感覚しかないのでは」…と
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-03 02:43:07
馬鹿の話しは長いし、繰り返すことが多く結論は偉いさんの引用、自分の頭で考えない。
返信する
頭で理解しているだけ… (イエスちゃん)
2019-12-03 02:19:20
『ワタクシは「修行しなくて」も
「その理解が有る」ので
ワタクシには【死苦】が無いのだという事としていいのですか。』

頭で理解しているだけ…ですね!
本当に
「諸行無常」
「諸法無我」
が、如実に、解っているのならば、
他人に質問する訳がない。

「自知」なのですから。
返信する
自己の根拠を求めるのを停止する (イエスちゃん)
2019-12-03 02:07:33
『自己が他者との「関係から」生起するとすれば、…』

自己の根拠は他者である。
他者の根拠は自己である。

生まれた時から、他者に課せられた「自己」を、
今度は、それを「自己」の意思で担っていく、という生き方。

『佛道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、「萬法に證せらるる」なり。
萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。』
返信する
哲学者デカルトは、坐禅をしなかったので、根拠を神に求めた。 (イエスちゃん)
2019-12-03 01:52:21


自分が「最強度のリアリティ」を感じている「自己」が、
実際は、「ヴァーチャルなもの」である、
と、自分が「リアリティ」を持って、まざまざと「知る」。

このことを「如実・知見」と仏教ではいう。

この構造だから、非常に単純だが、同時に、非常に困難である!
この構造だから、非常に容易だが、同時に、非常に複雑である!

デカルト・西洋哲学には、理解不可能であった。
それは、キリスト教信仰を持っているから。
デカルトは、結局は、自己の存在根拠を神に求めた。

釈尊だけが「人類史上初めて」この事実を発見した!

深い禅定と浅い禅定との間を、何度も往復する「体験」をきっかけに、
「自己」が消え去り、再度「自己」が構築されていくプロセスを、
自分が深く考察する。

なぜ死に対して苦が生じているのか?
その原因を深く探求していく。
「自分の死の苦しみの感情」は「どのプロセス」で興ってくるのか?

「色⇒受⇒想⇒行⇒識」のプロセスの発見から、
ここの「何処に」も「我」は存在しないと、発見した。 

「我」の消滅への恐怖の「苦」は、「我はそもそもなし」の発見で解消した。

「色⇒受⇒「想⇒行⇒識」」のプロセスの中で、
先ず、「識の働き」を低下させる。そして停止させる。
次に、「行の働き」を低下させる。そして停止させる。
次に、「想の働き」を低下させる。そして停止させる。

この「想⇒行⇒識」のプロセスが所謂「我」「自己」「自分」なのです。

「色⇒受」だけで、「大脳皮質の働き」を停止させる。
これが「無我の世界」です。

「雀がチュンチュンと鳴く」「カラスがカアカアと鳴く」
「主客分離」「雀カラスの弁別」・・・の世界から、

ただただ、「チュンチュンの音声」「カアカアの音声」だけの世界!
西田幾多郎の「純粋経験」の世界へと、変わっていく。


『眼・耳・鼻・舌・身・意、色・声・香・味・触・法』「リアリティ」は大脳皮質が決定するのですが…

『無色、無受・想・行・識、
無眼・耳・鼻・舌・身・意、
無色・声・香・味・触・法。』

眼・耳・鼻・舌・身・意、
この外界の「受信機関」から、
色・声・香・味・触・法。
この「情報」を「読み取り」ます。

その結果は、「電気信号に変換」されて、
神経細胞で、頭脳に集められます。
そこで、「膨大な脳細胞・ニューロン間の連鎖反応」を起こします。
その結論が、運動野を経過して、小脳も参加して、神経細胞を使用して、
「電気信号で」、体中の筋肉に命令として伝わります。

それで手足を動かして、
「林檎を歯で齧る」訳です。

つまり、

「林檎を眼で見て」
「林檎を手で持って」
「林檎を歯で齧る」
この間を結ぶのが「電気信号」です。
その中で、
「林檎だと判断する」
「林檎を食べると決心する」
つまり、
これらの「大脳皮質においての、
「膨大なニューロンの連鎖反応」も、
「電気信号」のやり取りな訳です。

外界から「眼で」始まり、「歯で」外界に変化を与えて「終わる」。
この「外・界」と「体内・界」との壮大な流れが、重要なのです。

このプロセスの中には「我」「自己」「自分」は存在しません。



『言葉で認識せずにどういう方法論があるのでしょか、
無明と無記では論理展開できません。』

ここの中では「言葉」が必要ありません。
言葉が存在しない、まあ「原始的な猿」のレベルです。

「坐禅」で
「進化の最後に形成された・自己認識機能モジュール」を「機能低下」「機能停止」出来ている
と考えているのです。

この世界では「眼での情報に」リアリティがあり、「手への信号に」リアリティ」がある?

「リアリティ」は大脳皮質が「付与する・決定する」のですが…。
返信する
Unknown (ふるやま)
2019-12-02 19:34:38
記事と違うコメントで すみません。
「人は死んだらどこへ行くのか」という問い。
誰もわからないけれど その中での 納得できる答えが「大切な人や物の中」なのですね。

もし 機会があれば「許す」ということについての お話も聞けたら 嬉しく思います。
許した相手と 側にいることの難しさを痛感しています。
返信する
仏教者の本質 (Unknown)
2019-12-02 11:50:04
仏教者に取って、
身体・生身で本当かどうか確認出来るものは何かと言えば、

以前の自分は煩悩・執着にがんじがらめに囚われて身動き出来ずにいたが、

生身の身体を賭して修行に励んだ結果、
今では、煩悩・執着に囚われにくくなった、という実感なのである。
安楽の法門に一歩近ずいた自分の姿を見る事が出来るのである。
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八正道に生きる! (Unknown)
2019-12-02 11:23:30
では現代人に於いての仏教の持つ意味は何なのか?

ひとえに煩悩・執着にわが身を任せていると、
この世界は滅びる(自滅する)のだと知ることにある。

慎み深く我が身を処すれば、我も「安楽の法門」をくぐれるのだという教えは今も生きて居る。
返信する
補足 (Unknown)
2019-12-02 11:16:36
ただし、
釈迦に起きた意識現象について
周りの人は【リアル】であると理解したからこそ仏教成立となったのであろう。
昔はそういう時代であったのだ。
返信する
水平思考!! (Unknown)
2019-12-02 11:09:00
釈迦が死苦とか四苦八苦とかから解脱して「涅槃寂静」という「安楽の法門」をくぐったのは、

論理的な諸行無常や諸法無我みたいなバーチャル概念を知ったからなわけでは無い。

釈迦が、「現法涅槃」という寂静状態に達したのは、
身体・生身の修行を通して、
苦の原因となっている煩悩と執着から解放されたからだ・・・
と考える方がよほどリアルだと思える。

まあそれが南流の言い方によれば、
釈迦にリアルに起こった釈迦自身の過去の出来事だったのか、
或いは、バーチャルの脳内出来事だったのかは
実は知る由もない。

>「リアルが必要かどうか、バーチャルは虚偽で、すべからく危険かどうかは、まったく別な問題です」・・・ってね!!
返信する
Unknown (ふーちゃん)
2019-12-02 11:08:47
 いつも楽しみに読ませていただいています。
皆さまのコメントが白熱してなかなかついていけませんが、
 一発解答を求めない、南さん流仏教解説に共感し、日々仕事に家庭に子育てにいそしんでおります。今年もだいぶ押し迫ってまいりました。皆さまの心に平安がおとずれますよう、完全燃焼を目指してがんばります。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-02 10:57:33
虚言癖と妄想による捏造自説だからです。嘘八百 自称救世主なのだから
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-02 08:57:42
>身体・生身で本当かどうか確認できる・・・

?????
南流仏教では、
「(坐禅・瞑想という)特殊な身体操作で得られた【変性意識】にどんな物語を乗っけるかは人それぞれだけど・・・、それが個人の妄想であるかどうかは区別がつかない」的な事をいってますよね。

それなのにイエスさんは、どうして、「身体・生身で本当かどうか確認出来る!!」と言い切れるのですか??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-02 08:49:48
馬鹿の話しは長いし、繰り返すことが多く結論は偉いさんの引用、自分の頭で考えない。
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Unknown (Unknown)
2019-12-02 08:41:16
イエスさんのコメントは私の質問に答えていない気がするんですが、それはそれとして・・・

釈迦が知った諸行無常・諸法無我という概念(=仏教的事実・・・per南流言い回し)は
ワタクシは個人的にはえらく共感し理解し徹底的に納得済みですので、

だからワタクシは修行しなくても
その理解が有るのでワタクシには【死苦】が無いのだという事としていいのですか。
この質問にも答えて下さい、イエスさん。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-02 08:24:04
「仏教」は「身体・生身」で本当かどうか確認できるとは、何を指し示して確認できるのですか、言葉で認識せずにどういう方法論があるのでしょか、無明と無記では論理展開できません。空想でしかないのではありませんか
返信する
「仏教」は「身体・生身」で本当かどうか確認できる宗教 (イエスちゃん)
2019-12-02 08:13:21
「仏教」は「身体・生身」で、「本当かどうか」確認できる宗教です。

「神の国」「天国」「極楽浄土」「地獄」
「輪廻転生」・・・死後の世界
すべて、実際には確認はできません。

だからこそ「信じる」のです。

「仏教」だけは、「この世」しか問題にしません。
「死後の世界」は「無記」です。

「この世の世界」で
「諸行無常」
「諸法無我」
を実際に「発見する」「知る」のです。

「我」が「初めからない事実」を「リアリティ」を持って知る。
これっきりです。
だから「仏教」は単純なのです。

しかし、「言語」で認識しているので、これが困難です。

道元和尚からは「非思量」と言われている。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-02 07:46:28
道元さんは修証一等と言い
シャカさんは修証一等と言わなかったとすれば、
釈迦さんと道元さんは違う仏教を説いたのかしら??
説明して下さいなイエスさん。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-02 06:16:07
釈迦も修して、修して、修して、修して・・・、
その結果、証に至った。

釈迦自身が修証一等と言ったかどうかは定かでないが、
覚者、悟りを【開いた人】と言われるからには、
修が先行した事は間違いがない。

「開く」とは自分が先ず行為を行って
自分の手で門を「開く」わけである。
即ちそれが、「坐禅行為」の目的である。
返信する
証あらんと修を行為す!! (Unknown)
2019-12-02 06:06:32
修証一等は脳が描いたバーチャルで、
修は証に先行するがリアルである。

道元師は比叡山で修して、中国に渡って修して、日本に帰って来てからも修して、修して、修して・・・

その結果、やっと「修証一等」という境地になった(道元流悟り!)。
修が先行していなければそんな気持ちになる事もあり得ない。
バーチャルがリアルを書き換えたのだ。


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安楽の法門!! (Unknown)
2019-12-02 05:43:42
修行者よ
狭き門より入れ!!

此処には、
這入るという主体行為が必要である事には変わりはない。

人は狭き門を目指して入る。
這入ったら其処に安楽が待っているからだ。
それが修行の目的になる訳だ。

返信する
Unknown (榮久)
2019-12-02 04:37:47
AIが仕事を奪う

人類がそこそこ体系だった文字を使い始めたのは紀元前4000年頃とされている。
数百から数千の記号、文字で世を表現しようとすることには無理があっただろう。

プログラム言語という128の文字種でミサイルや電車を操作し字や絵が出てきたりとする事は6000年の文字の歴史に比べて、まだ100年も経っていない。

プログラム言語を読むのは機械(コンピュータ)です。
文字で何かを説明するのに飽き足らず、文字で機械を動かすという、歴史上例のないことをしている。

パソコンの一般化で写植、和文タイプ等は全滅、バスの車掌さんも車内アナウンスに代り、人減らしが進んだ。

働き方改革、ハラスメントへの対応、時短、非正規労働者の賃金、低賃金労働者としての外国人雇用、等々で資本家側には人間を雇う必要性は希薄になり、そこで人間にしかできないことは何かと問われることに
あるいは、その個人にしかできない仕事は何か、みんなと同じことしかできない人は、すべてAIに取って代わられることとなる。

スマホを見てなにも考えず、歩く人たちは既にAIやコンピュータに支配されている。
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-02 02:52:03
『此の世には「二種類の坐禅者」がいる。
「坐禅しても」「何の役にも立たない」、という人(澤木興道さんとからしいけど??)
坐禅は「安楽の法門だ」という人(道元さんらしい様だけど??)
注。興味深い事に「同一人物が」引き合いに出していた。これ如何に??』

道元和尚は
「仏法のために、仏法を学す」
と教えています。
「「それ以外」のために、仏法を学すべからず」です。

「見性成仏」
「見性して成仏する」ための坐禅を否定しているのです。

「目的をもって」坐禅するのを「汚れ」と教えています。

だから「安楽の法門」とは
「安楽に「至る」ための法門・教えの門」ではありません。
「最初から「安楽であった」法門」なのです。

ついでにいえば、「坐禅」はトレーニングと同じで、「体の方が慣れて」きます。
たとえ「足の痛みがあった」としても、
時間と共に増加するものではありません。
ある軽い痛みで「それ以上には大きくなりません」。
足もしびれません。血が流れています。
すぐにスッと立つことが出来るようになります。

だから、苦痛を我慢する、我慢比べではありません。
しかし、睡眠不足は、これは非常に応えます。
睡眠は人間に必要なものです。
しかし坐禅では眠ってはいけません。

そして、目を閉じてはいけません。

(「瞑想」では、目を瞑っている)

だから、臨済宗では、「対面で」坐禅をしているので、向こう側の坐禅姿も見えます。
これが切磋琢磨になる時もあります。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-02 02:44:05
超越を信じない人には死苦が無い、と言うのがA面で、
超越を信じる人にも死苦が無い、がB面である。

実は超越か、非超越かは死苦の関数ではない。
有「死苦」はバーチャルで、無「死苦」はリアルという関係性である。
返信する
釈迦と南さんは似ている。 (Unknown)
2019-12-02 02:34:16
天上天下唯我独尊が釈迦の本質でA面であるが、
弟子達の悟り事業促進の為にサンガ制を考案するに至った釈迦の側面もある。
これが釈迦のB面である。

南さんのB面は永平寺生活のダースベーダーであるが、
そこで正師を受ける事を拒否して、やがて永平寺を下山する事となった、天上天下唯我独尊が南さんのA面である。
返信する
リアリティーを担保するものが苦の感覚です・・・ (Unknown)
2019-12-02 01:58:15
ナルホド、
若い女の子がリストカットの自傷行為をするって事ですね。
自分の「生」がリアルかどうか確認したいからと・・・

釈迦の場合で言えば、
35歳早々で精神性の苦が無くなっちゃったんだけど(=その後、バーチャル世界に生きて来た)けど、

80歳にして、毒キノコを食べて起きた腹痛苦から、
自らの存在のリアルさを改めて認識したという事になりますかな??

すべて物は言いようで、いくらでも反転させた論理が成立しますかな??
返信する
「自己が存在する」が虚構 (イエスちゃん)
2019-12-02 01:16:33
「自己が存在する」が虚構なのです。

「言語認識機能」が「自己」というものを「虚構する」のです。

「無明」とは「言語」のことなのです。

「只管打坐」の「身体の訓練・調性」で「発見できる」のです。

仏教は「正見」と「正念」「正定」修行訓練が、
「方法」であり、同時に「到達点でも」あるのです。
返信する
その通りです (イエスちゃん)
2019-12-02 01:07:07
『超越を否定した「リアルな世界」には「死苦」は存在しない、という事であろうか?』

「自己」の「消滅の恐怖・不安」が「死苦」です。

釈尊の仏教では、
「自己」の「観念」つまり「言語の虚構・主語」が無くなるので、
「不生・不滅」です。

「自己は前世から「生まれ」て来ない」
だから、自己は消滅してどこかに「行く」事もない」
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-02 00:54:55
『…此方で「重複させてまで」も長い作文を捏造している自己中な輩』

南師に、以前から「何度も」削除されておりますので、それの為に、「キチンと保存する」ことにしました。

南師とイエスちゃんとは、「当然」考えが異なるので、「或る基準」によってバッサリと削除される訳です。

(南師は「曹洞宗内の僧侶」という立場がおありです。一部、それを考慮して、御発言なさいます。こちらは「檀家」で「在家」。自由度が異なります。)

当方としては、何がいけなかったのか?その時点で、「南師の削除の意図」をいろいろ「推測・憶測・忖度」します。
それで「反省」して、次には「削除されないように注意」しております。

ここで重要な事は、「みんなの見ている前で」、バッサリと削除します。

これで「南師の或る基準」が明らかになり、他の人々も「その基準が目に見えるようになり」ます。

なお、拙ブログの方は、「後から修正が可能」なので、「それ以後、色々と考えたことを反映して、また考えを変更して」いますので「決定版・完成版」です。

なお、豚児には、死後、「適当に」編集して「自家出版」してくれるように頼んでおります。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 23:57:52
超越を否定したリアルな世界には死苦は存在しないという事であろうか?
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無明とはバーチャルリアリティの事である。 (Unknown)
2019-12-01 23:15:25
2500年前のこの世はオバケ(今様に言えばゾンビ、ゾンビQ)が闊歩する時代であった。

私というちっぽけな人間が、決して抗する事の出来ない力を持つ超越者。ただただ恐れかしこみ奉るしかない・・・。

だから、
「因縁因果」の客体(『果』すなわち受難者・授受者・受苦者)は人なるワタシ。
主体(『因縁・因』すなわち行為者・検察官・施行者)は超越たるオバケ、オバケの下す罪と罰。
二元論の誕生である。

よって、
「自業自得」の客体も人なるワタシであり、主体は「業」なるオバケなのである(二元論)。

それゆえに人は、
死が怖くて仕方が無かったのだ。
人はもう、むやみやたらと「死」を恐れたのである。
これが「死苦の起源」である。

そして、オバケのタタリを常に恐れていれば、
生きている最中も常に怖く、
老いもオバケのタタリであって、
病(やまい)と死はオバケからの懲罰であった。
これが「四苦の誕生」である。

2500年前以前では実に、
この「バーチャル」こそが「リアルそのもの」であったのだ。

しかし2500年前、
釈迦は気が付いたのだ。
人々の惑い恐れているこのリアルは実は「虚偽」であると・・・
われわれはありもしないオバケの世界、すなわちバーチャル世界を無駄に恐れていただけなんだと・・・

左様にして、
釈迦はシクシクと苦に囚わり続ける無意味な死苦(及び四苦)から解放されたのだ。

釈迦こそが真のリアル(真如)の第一発見者であったのだ。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 22:38:54
となれば、人々はリアルを求めて戦争を希求する。

自由のために、人権と永遠平和の実現のために、というお題目を掲げて。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 22:31:43
>システムの一機能のごとき、新たな実存の様式が我々に与えられるかもしれません。

これ、まんま映画「マトリックス」の世界だと思う。



「情報のリアリティ」を最終的に保証する「役割」としての身体が無効化されるとしても、それでもこの生々しい身体そのものが無効化されるわけではないと思う。

南さんが今回描かれた事柄は、みんな直感的に漠然と感じ取っていることだとも思う。

オリンピックが間近に控えていることを差し引いても、この異常なほどのスポーツや筋トレ、登山やアウトドア等々への関心の高さは、私のようなスポーツに興味がない人間からすれば、ただの押し付け、スポーツハラスメントだ。

スポーツだけじゃない。座禅とか、ヨガとか、

みんな圧倒されるような、卒倒してしまうような膨大な情報に晒されて、限りなく希薄化されてしまう一方の、この身体の「生(なま)の」感覚を取り戻そうと必死だ。

最も極端な例が「殺人」だ、と思う。

「人」が「殺す」「殺される」という局面において、人は最もこの「身体」が「生々しい」生きた身体であることを実感するのではないか、と思う。

烈しい痛み、激しい恐怖、生温かい噴出する出血

一切を「死」に引きずり込む「暴力」こそが、最終的にリアルを保証するのではないか。

地震や豪雨での「災害」は人を、その「暴力」によってその弱々しい身分を自覚させる。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 22:26:22
言語が無明より、認識が無明のほうがしっくりします。言語と認識の違いがいまいち分からない。認識したら無明なのか、言語で発することで無明になるのか。
認識と言語は同じなのか。
言語を発するのには勇気がいります、信心がいるような。
言語内実存と認識内実存 私はまだ認識内実存にいる。
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ツマリ (Unknown)
2019-12-01 15:23:06
無明を言葉のせいにするな。
言葉が無明なのでは無くて、
君の脳が無明なのだ。

でも言葉があるおかげで、
君自身が無明であることが分かったんだから
まったく言葉サマ様ってもんじゃね~か。

ツマリ、
言葉が騙す訳じゃないだろ。
君が君自身を騙しているんだろ!!
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言葉に真理はあるのか? (Unknown)
2019-12-01 13:13:33
無明とは言葉の事だと言いながら、
言葉の旅を延々と続ける南さん。

言葉の無明に君は騙されていると言いながら延々と言葉を繰り出すイエス君。
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Unknown (家巣ちゃん)
2019-12-01 10:26:26
イエスちゃんと名のる、このブログの汚点、自説に拘り周りを見る事が出来ない知識の幅が狭くて浅いご老人でしょう。自分のブログが不人気で発散出来ないので、此方で重複させてまでも長い作文を捏造している自己中な輩、スルーする事が自称神様対策には一番です
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 09:40:59
おぉ、神の如き、神の預言者、イエスちゃん…

しかし、イエスキリストはいわれています

私の名を騙る偽預言者に気をつけなさい、と。。。。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 09:20:33
イエスちゃんは、唯物論は仏教と矛盾しないかのようにコメントするが、そうではない

イエスちゃんは「仏教は現実をありのままに観察する」というが、イエスちゃん自身は現実をありのままに観ていない。

イエスちゃんは物質世界がまず先立って存在し、そのなかでの自己組織化として「自己」が生成されるとする。

しかし、その「物質世界が自己に先立って存在する」ということを確認(想像)したのは、「自己」ではないとすれば一体誰なのか?ということにイエスちゃんは気づかない。

それは、こっそり神の視点を持ち込むことに他ならない。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 09:06:12
たとえ釈尊が「一切皆苦」と教えられたとしても、釈尊自身も出家した当初から「一切は皆苦である」と確信していたわけじゃないだろうと思う

だから仏教が「一切皆苦」を教えるからといって、「あーそうか、一切は皆苦しみなんだ」と思い込むものでもないと思う。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 08:57:14
そんなことないと思う

イエスちゃんのように、はなから「一切皆苦」という紋切型で存在を断罪する論は、結論先取であって、

すでに結論が先取りされてるわけだから、諸々の細々とした説明はその全てが、先取りされた結論に接合され隷従するようにでっちあげられるわけだ。

要するにイエスちゃんの説は、ひとつの絶対的な結論(命題)を無自覚に前提し(つまりそれは唯一絶対の「神」の如きもの)、現実存在の全てがそれに従うことを強制しようとする
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 08:00:18
え~と~・・・
一応論理を整理してみると
死苦だ死苦だというのは仏教だけですかねェ~?

死苦を全然感じないワタクシは非仏教のヤカラなのでありましょうや??
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 07:50:46
そう言う論拠とは
仏教僧侶の場合は「死苦」が常に目の前に、ニンジンの様にぶら下がっており、

精神科医の場合には
自分の精神がどこかおかしいと思うので精神科医となり、患者を観察しいしい自らを治療しているんだと解説してるから、その軋轢が原因で行きずまったりするんですかね。
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餅は餅屋ってことなのか (Unknown)
2019-12-01 07:35:34
うん、過って読んだ記事だが
死を恐れるのは仏教僧が最も多いいんだとかだったよね。

類似系は、(職業別)自死は精神科医が最も多いいんだったよね。
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言葉に誤魔化されている??? (Unknown)
2019-12-01 07:29:22
仏教僧が自死したら次の輪廻でゲジゲジになってしまうから自死が怖い。
だから死苦におびえる。
あの世で何があるか分からないんだしね・・・

そこへ行くとお気楽な世俗の人には自死しても死苦が無くて爽やかみたいだね。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 05:29:12
まあ信じない人は初めっから坐禅なんてせんよな。
だって釈迦だって信じたからこそ坐禅したんだろうしね。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 05:27:16
信じる者は救われる!!
の典型例だよね。
セロトニンがじゃかじゃか出るし・・・
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 05:24:59
俺は安楽の法門に一票だな
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 05:24:03
ご自分自身の考えではどうなんでしょうね
ェ??
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 05:11:55
此の世には二種類の坐禅者がいる。

坐禅しても何の役にも立たない、という人(澤木興道さんとからしいけど??)

坐禅は安楽の法門だという人(道元さんらしい様だけど??)

注。興味深い事に同一人物が引き合いに出していた。これ如何に??
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Unknown (榮久)
2019-12-01 04:05:52
共苦(compassion)


大衆・民衆・市民と呼ばれている大部分は
労働者とその家族が占めているなか
1990年代以降に徐々に格差が広がり、
社会の分断が深まり、20代・30代の人々は
そうした閉塞感の社会しか体験していません。
現安部政権の税金の私物化や職権乱用に対しても
香港での抗議行動のような市民運動にも広がりません。
放置すればデータ捏造も過労死も引き起こす
資本主義の仕組みや、その是正には経済理論や
社会改革の理論を学んでほしいものです。
20世紀の思想家でマルクスの影響が見て取れる、
ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロ=ポンティ、ロラン・バトル、クロード・レヴィ=ストロース、
カール・ポパー、フリードリヒ・ハイエク等々、
マルクス抜きに彼らの学説はあり得なかった。

作家評論家の平野啓一郎さんの視点に
分人というのがある、
目の前の不在と本質的な不在を説いて興味深く、
分衆と言う事にも通低するようにも思える。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 04:02:46
人には二種類の人が居る。

認知症になって死ぬ人と、
認知症になる前に死ぬ人。

仏教理論を極めても苦しか見いださない人と、
単純に仏を信じて楽を見出す人。

リアル、バーチャルどちらかあれば、
幸せの種を見つける人と、不幸の種しか見いだせない人。

これでもかこれでもかと陳腐して言いつらう人と、
陳腐陳腐と見向きもせずにスルーする人。
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「夢中説夢」 (イエスちゃん)
2019-12-01 03:27:04
「夢中説夢」

「夢の中において、説夢=夢を説く」

「自己」は実在であると「リアリティ」を感じている。
しかし「夢中説夢」ではないのか?



『たとへば、船にのりて山なき海中にいでて「四方をみる」に、
ただ「まろにのみ」みゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、
この大海、「まろなる」にあらず、「方なる」にあらず、のこれる海つくすべからざるなり。
「宮殿」のごとし、「瓔珞」のごとし。』

「海」は「いろいろ」に見える。
「丸い」「四角い」、
魚にとっては「宮殿」で、更に「瓔珞」・・・

どれが「本当」なのか?


人間は「自心自性は常住なる」と誤まる・・・

『身心を乱想して「万法を弁肯する」には、「自心自性は常住なる」かとあやまる。
もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法の「われにあらぬ」道理あきらけし。』
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いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-01 03:07:03
『涅槃寂静という欲望』

「涅槃寂静」は目標ではありません。結果です。

「諸行無常」「諸法無我」を「発見した」
その「結果、起こった状態・出来事」なのです。

そして「死苦」が機動力なのです。
それでもって「修行が継続できるという構造」です。
釈尊は、29歳から35歳まで「6年間も」修行なさった。

つまり「一切皆苦」が「ガソリン」なのです。
だから「4つ目の法印」として重視するのです。

「商売繁盛」「家内安全」「無病息災」…
現世利益を求めるのなら「日本の神さま」が得意とするものです。適しています。
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「禁書」「情報遮断」と「オカルト集団」の形成 (イエスちゃん)
2019-12-01 02:43:51
『情報を「分衆」ごとに共有し合意することで、
「複数の「現実」が構成される」、かもしれません』

「禁書」「情報遮断」「焚書坑儒」と
「オカルト集団」の形成が最大の問題である。
トランプが「マスコミはフェイクニュースだ」と主張し、
「新聞もテレビも信用させなくする」、
これは「情報遮断」である。

「SNSで「自分の好みの情報」だけを聞き、確信をますます強化する」。

「キリスト教原理主義の南部アメリカの州」では、公立学校で「ダーウィンの進化論」を教えてはならない。
「この世界は神様が6日間で創造したのだ、7日目の日曜日に休息した」。
だから、日曜日は教会へ「主日礼拝」に行く。
これが「分衆」において「リアリティ」をもっている。
そこでは、これが「事実・事実・実際」になる。

戦前では「天皇家の歴史研究を禁止した」「情報遮断」。
「万世一系」(持統天皇が創設した説)に反する日本歴史研究を「不敬罪で」罰した。

「天皇」を「現人神」に祭り上げた。
戦後、1946年「元旦」に、昭和天皇が「人間宣言」をなさった。
「神さまから。人間に戻った」。
しかし、「神の子孫である」これは維持し、確信しておられた。
日本人の宗教では「神さまと人間とは近い存在である」。
また、主要な豪族も「ご先祖である神の子孫」である。
「民草」は「神」とは切り離れており、初めから日本列島に存在していた。
「民草」の起源は不明のまま、説明はなし。

戦前は、法律で、学校で、「明確な情報遮断」が存在したが、
現在は「見えない情報遮断の壁」がある。見えないから厄介だ。

「キリスト教」「ユダヤ教」「イスラム教」「ヒンドゥー教・原理主義」…
「オーム真理教は麻原彰晃の写真を飾って活動を拡散している」
「オーム真理教は永遠である」。

「情報遮断の壁」は自分自身が堅固に建設していく。「繭の中に閉じこもる」。
「大人のニート」が増えてきている。

外部を「ありのままに」観察し、自分の心理の動きを「ありのままに」観察する。

すると、
「諸行は無常である」
「諸法は無我である」

「坐禅」「禅定」「正定」
「正念」「マインドフルネス瞑想」「気づきの禅」

仏教は「身体の宗教」である。
「只管打坐」が「リアリティ」を担保する。
「身心一如」
「身学道」と「心学道」と、ここで身の方が重要。
と道元和尚は教える。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 01:44:43
リアルな人は二種類しかない。

涅槃寂静という欲望を裏切る実存の苦しみにあえぎ続ける人と、

涅槃寂静という欲望に安楽の法門を見出す人・・・
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精神性のバーチャリズム (Unknown)
2019-12-01 01:30:15
かのひとがいう「違います」、「これが正しいのです」と言いつらうは
すべからくバーチャル世界の出来事で、リアルは無根拠で無価値で無意味なのである。
ただし人はそれでは生きられないから
バーチャルによりすがるしかない。
人は仮設の世界で生きて居る。

・・・したがってバーチャルは虚偽なんだけど、すべからく危険なわけではない。
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Unknown (Unknown)
2019-12-01 01:17:38
道元固有の過去の出来事とはリアルであるが、
道元が語った過去の出来事はバーチャルリアリティーである。
まったく区別がつかないしどちらだったか分からない。
>ただしリアルが必要かどうか、バーチャルは虚偽で、すべからく危険かどうかはまったく別の問題です・・・
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脳はサンスカーラなり。 (Unknown)
2019-12-01 01:10:55
「一切皆苦」はヴァーチャルリアリティ(仮想現実)で在ってリアルではない。
だから「涅槃寂静」が仏教者の目指すリアルである。

しかしながら釈迦が35歳で達したと思った「現法涅槃」はリアルであったのか、ヴァーチャルリアリティを思い違えたのかは定かではない。

>ただし、リアルが必要かどうか、バーチャルは虚偽で、すべからく危険かどうかは、まったく別のもんだいです・・・
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情報を「分衆」ごとに「共有し合意する」ことで、 複数の「現実」が…何で決定するのか? (イエスちゃん)
2019-11-30 15:26:23
『情報を「分衆」ごとに「共有し合意する」ことで、
複数の「現実」が構成される、かもしれません』

韓国のいう、所謂「日本軍慰安婦」は、現在、2週間で25万部売れている『反日種族主義』(文藝春秋社¥1600円)という本で、「韓国側の政治的なでっち上げ」であることが歴史史料・データで証明されました。
(先日、夜9時のNHKニュースでも、著者李栄薫・元ソウル大学経済学教授にインタビューしていました)

結論から言うと、「日本人の日本軍慰安婦」と、「朝鮮人の日本軍慰安婦」とは、ほとんど同じである。
業者が、警察の指導で、性産業を行うのと同じで、警察が軍隊になっただけ。
韓国の主張する「日本の官憲が強制連行した」は政治目的でのウソでした。

しかし、韓国社会では、
『情報を「分衆」ごとに「共有し合意する」ことで』、
ウソが事実とされています。

だから、過去の「日韓歴史共同研究」プロジェクトも決裂しました。
(中国との「日中歴史共同研究」は真摯に議論し、その成果は外務省のHPからダウンロードできます。中国側・歩平・座長が偉大だった。)

現在、ウソの歴史を日本政府に強引に認めさせようとしている。
「慰安婦の賠償」を、3度目を、要求している。

宗教者は「韓国の日本軍慰安婦」に、積極的に仲裁する役目はないのだろうか?

『情報を「分衆」ごとに「共有し合意する」ことで、…』

結局は「棲み分け」をして、鎖国をして、完全に接触をなくして、「争い」をなくする。
本件は(ウソの解消ができないので)これしかない。
のだろう。

『情報を「分衆」ごとに「共有し合意する」ことで』
これは、巨大な壁である。
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Unknown (Unknown)
2019-11-30 13:08:21
ビッグバンとかそんなのセオリーでしかない。

そもそも宇宙の誕生する瞬間など「誰が」観たのか?

宇宙の消滅など「誰が」観るのか?

神か?

イエスちゃんは神の視点を語っているのか?

やっぱりここでも明らかになったことはイエスちゃんは唯一絶対の神を無自覚に信仰しているということ。
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Unknown (Unknown)
2019-11-30 12:49:16
「細胞」「ネットワーク」とかいったところで、それはひとつの「解釈」、ひとつの生きられる世界の「価値づけ」に過ぎない。

それは、あくまでもひとつのパースペクティブに過ぎないのであって、絶対的なものではない。
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Unknown (Unknown)
2019-11-30 12:34:50
だめだめ

イエスちゃんの主張は結論ありきの牽強付会の説
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Unknown (Unknown)
2019-11-30 12:31:02
だめだめ

イエスちゃんの主張は論点先取
したがって詭弁
返信する
「仏教」は何を気付かせるのか? (イエスちゃん)
2019-11-30 10:46:55
一つの水滴と大河、
一つの細胞と人体、
一個人「自分」と社会・国家・人類・生物群、
地球生命体と銀河系大宇宙、
ここで、いったい「何が」生きているのか?

この「自分」とは関係なく、「ビッグバーンから宇宙消滅まで」と流れる。

「諸行無常」
そして「諸法無我」
これを「諦める」「明らかにする」が「仏教」

「個人」は『細胞』、ネットワークの一つの「ノード」
~多くの情報を入力して、変換して、多くの情報を発信する~
「人類」は『人体』、巨大な複雑な「ネットワーク網」
~「ノード」の「発火の炎上の」多数決で「ネットワーク網」が動く~

その中で「個人」は「喜怒哀楽」が動機で、行動する。
自己に執着して行動を決定する「無明の世界」である。

「自己」が言語の虚構と発見して、「我」執着から解放される。
快楽「ネットワーク網」から、解脱する。
「身心脱落」
「涅槃寂静」
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Unknown (浅野)
2019-11-30 07:19:36
先々はわかりませんが、多くの一市民は、「労働者契約」ってことで、自己を担保することに変わらないのではないでしょうか。
システムを理解し、それに倣い、個人が社会で動き続けるのでは。
リアルや現実が掴みにくい世の中で、人との関わりが難儀で、成熟することが難しい。
誰でもよかった(殺人)、少女誘拐など、ひと昔は、変人や変態な一部の人間の事件だと感じますが、今は、通過儀礼や成熟していくことを、自ら発起して、志向していかざるを得ません(成熟の困難)(依存先多し)。
そこで、先達の痛みや苦しみの助言がリアルに感じると思います(経験と言葉)。
しかし、無痛文明を追求するほど、日常の痛みは際立ち、過敏になると思います。
コンビニや日常の他者との応対場面でも、機械的に挨拶や対応するのを見たり、接すると、生きてる実感ってあるのかな、なんて思います。
ひきこもる人たちは、承認を求めているために、そんな社会や場面に耐えられないんだろな、とも思います。
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VRとは (Unknown)
2019-11-30 06:42:13
バーチャルリアリティー略語とか。

私的には眼が疲れるだけな感じがしますね。


仮想が現実なのか、現実が仮想なのか。

これを解くカギは坐禅しかない!?




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Unknown (Unknown)
2019-11-30 05:44:43
ふむふむ

南さんがNHKの「クローズアップ現代」の視聴者であることがわかりました

ヒトラーの予言みたい

http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha400.html
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寝不足としてのブログ (Unknown)
2019-11-30 00:40:25
夜中に長文をありがとうございます。

明朝に、読み直してみます。

お疲れ様でした。



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奈良ではなく、 (ツワブキ)
2019-11-30 00:37:26

恐らく死ぬ実存である限り、欲望を裏切る実存の苦しみは、残存するはずです。

ご心配なく。


人間は、どう足掻いても、AIには成れませんもの。AIは人間に成れない。え、成る?




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Unknown (いったんもめん)
2019-11-30 00:26:31
夜中に難しい文を読んで、酔いが覚めてしまいました。

「苦」を解消する技術が生まれるのは大歓迎です。よね?
そうしたら、私のような怠け者はのんびりと生きますが、南さんなら、また新たな問題を探して苦難の道を歩まれるのかしら?
せめて、今夜一晩、熟睡させてくれる技術が欲しいです。
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