恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

どこでも、いつでも、ちょっとでも

2019年06月30日 | 日記
「お前が今度出す本の表紙に、でかでかと坐禅姿が載ってるぞ。いい度胸だなあ!」というメールが知人から来ました。

 7月発刊予定のその本では、坐禅の作法を紹介する章の口絵写真と本体につける帯に、私の坐禅姿を使いたいという話を編集者からされて、何枚か写真撮影をしたのですが、表紙になるとは知りません。

 言われた通り、ウェブ上のショップで見てみると、なんと!?!

 帯と言うからには、本の三分の一程度の幅で、その右隅に私の写真がちょこっと使われ、残りに宣伝文句が入ってるのだろうと漠然と思っていたら、帯が全体の三分の二以上を占め、そのど真ん中に大きく私の坐禅姿があるのです。

 仰天です。その上「南流仏教入門書ついに成る!!」「私の考える仏教」などという惹句がついています。

 これはやりすぎだよお・・・・はずかしいよお・・・・出す前におしえてくれよお・・・・

 しかし、もう時すでに遅し!

 ただ、呆然としながら、しばし写真を見ていたら、坐相(坐禅の姿勢)自体は悪くないなと思えてきました。実は、私はこれまで自分の坐相を見たことがありませんでした。修行僧時代に一度、真後ろから坐禅姿を撮影されたことがありますが、正面は初めてです。

 そういえば、この撮影のとき、30代と思われるカメラマンが、写しおわった後に

「息してたんですか? 生きている気配がないですよ」

 と言い、立ち会っていた編集者も、

「そう、物みたい。それこそ仏像っぽい」

 この写真の撮影の時には、たぶん10分と坐っていません。ただ、事前に坐蒲(坐禅用クッション)を用意してもらったので坐りやすく、坐相の決まりもよかったのです。

 とはいえ、「生きている気配がない」とか「物みたい」という二人の感想は、かつて前永平寺貫首、宮崎奕保禅師の坐禅を見た時の私の印象とまったく同じでした。

 二人とも生身の坐禅姿を見たのはこれが初めてということでしたから、インパクトが強くて当座そう感じたのでしょうが、108歳の生涯を坐禅で打ち抜いた禅師に私が受けた印象と、同じようなイメージを彼らが持ったと言うなら、自分の坐禅も少しはものになって来たかと、じんわり嬉しい気持ちがしました。

「頑張って」坐っていた修行僧時代より、確実に進歩したことを一つ。

 永平寺に入ってから5、6年は、坐禅堂か、少なくとも畳の和室でないとまともな坐禅ができませんでした。そもそもする気にならないのです。

 ところが、その後永平寺の役職者になり、国内外の出張が多くなってからは、そんな「贅沢」は言えません。そこで、場所も時間も無視して、坐禅の出来はどうであろうと、とにかく1日1回は坐ると決めて、今までやってきました。

 このどこでもいつでも坐る(坐蒲の代用品には工夫が必要)ことができるようになったのが、おそらくは私にとっての明白な進歩であり、存外、大事なことかもしれないと、写真を見ながら思った次第です。
 


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95 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (小澤)
2019-08-05 00:04:49
上顎の内側に舌をベターっと軽く付けることですかね。そして腹式呼吸を鼻ですると、ツバが出ることさえ忘れてしまうような。

一つ一つ忘れていきませう。




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Unknown (大澤)
2019-08-03 22:31:00
コメント失礼します。
今回の著作は坐禅の姿勢がとても分かりやすかったのですが、坐禅の最中にツバを飲みたくなったりしないようにするには、舌の位置はどう工夫するのがいいでしょうか?
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本についての質問です (小坊主)
2019-07-23 21:25:21
「仏教入門」楽しく拝読しています。一つ質問なのですが、P182の「正語」について、「~飾り立てられ誇張された発言のことである。」とあるのですが、これは正しいですか?飾り立てられ誇張された発言をしないことである。ならわかるのですが…
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なんだ  (スカビオサ)
2019-07-19 23:26:28
てっきり裏表紙は後ろ姿かと思いきや、不機嫌そうなお顔で、何とも怖いですよ。

カメラマンさんと編集者さんには、もう少しセンスを磨いて頂きたいものです。


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Unknown (Unknown)
2019-07-10 01:46:38
ここでは、坐禅の目標設定が「仏像(置き物)」、で宜しいのでしょうか。

個人的には、仏像がペラペラ話すことは苦手な方ですが。





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Unknown (Unknown)
2019-07-10 00:02:52
なるほど、なるほど。

幾ら無根拠で無意味で無価値な実存でも、
坐禅を目標設定すれば
人は生きていけて
その進歩に満足感を味わったりするもんなんですね!!
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Unknown (Unknown)
2019-07-09 21:50:41
まあなァ~。
坊さん(住職)の世界では
檀家衆にそんな彼岸の存在を信じ込ませないと商売あがったりになるからなァ~、

其処が難しい処で
南さんの存在不安症を掻き立てるんだろうかね。職業人モラルの問題だな。
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Unknown (Unknown)
2019-07-09 21:39:52
「死後の世界」云々と議論する時は、
過って生命体(動物)としてこの世で意識活動(行為)していた死人(故人)が、
あの世の世界で、未だに意識活動してるかどうかを詮議する。

非超越論者ならば、「それはねえなァ~」という信仰でこの世の意識活動を行為する。
ただそれだけさ!!

代々死んだ縁者が集まって初代先祖様が御前会議を招集して、
而今で生きてる君に苦言を呈せにゃならんなどと、あの世(彼岸)で一生懸命
画策してナンカおらん・・・
と僕は思っているんだね。

二歩進んで一歩下がる
ワン ツー パンチもねえな、あの世では!!
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Unknown (Unknown)
2019-07-09 20:49:49
「死んだら全部終わりでそれ以降変化することはない」
誰が?というか、何が?というか、しっくりこないわ。

死んだら年を取らない、みたいな話かなって気はするけど。

たぶん「死んだ人」を、普通名詞で考えてるんだろうと思う。
「死人それ自体」って、うぅぅぅぅぅん・・・・そんなんあるんや?

すでに死んだ人は、私の死を知らないんだよな。私はたぶん確かに死ぬんだろうけど、死んだじいちゃんは私の死を知らない。たぶんね。
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Unknown (izt)
2019-07-09 12:17:39
贖罪しないといけない。。
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Unknown (Unknown)
2019-07-09 03:20:04
俺はどうしてこんなにもバカなのか
同じ間違いを繰り返す
俺はどうしてこんなにもバカなのか
同じ間違いを繰り返す
俺はどうしてそれを学ばないのか
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全く結構な悟り本、現る! (Unknown)
2019-07-08 22:31:10

釈迦の弟子で悟った人は、何人ぐらいいると思いますか。

10人? 100人?

違います。

なんと、8万4000人もいます。つまり、悟りは難解なものではなく、誰にでもできるものだったのです。実は、悟りとは悟ることよりも悟ったあとにどう生きるか?のほうがはるかに重要であり、釈迦が伝えたかったのも悟ったあとのことでした。本書は悟りを明確に定義することで悟りを一瞬で理解し、本来最も大切である悟りのあとを解説する、まったく新しい悟り本です。

『超悟り入門』
苫米地英人/著


それって、釈迦の悟りなの?

ホントにホント?( →_→)?




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坐と禅 (Unknown)
2019-07-08 02:06:24
毛穴で息するのが、坐なんです。

気配が消えるのが、禅なんです。


「と」は不要。



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坐ってまんがな (Unknown)
2019-07-08 01:55:12
息していない、置物いわれて喜ぶのは、坐禅人間だけやねん。

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何も掴めやしない。 (Unknown)
2019-07-08 01:46:52

死人でも、生人でも、ちょっとでも、実体は無いんです。

どっちみち、幻なんです。


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Unknown (七三分け頭)
2019-07-08 01:41:13
満員電車でも、格好悪くても、ちょっとでも寝たい。

 

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こんな言い方でどうでしょう (Unknown)
2019-07-07 23:25:38
「無」というは(言い切る事は)、
「有」では絶対的に無いという事で、
もはや無が有に変化する事は無いという事で、
無はいつまでたっても無であるという事で、
無は永遠に、
無、無、無、・・・、無、無、無ナリ。

つまり「無」は、
つねに変化する事を意味する「無常」
では無いという意味を持つ。

「死人」はそう言う属性を持つという程の意味である。
死ぬという事は全ての終わりという意味である。
魂は無いんだとすれば(非超越論)、
本人自身にとってはそう言う事に成る。

これは肉体的な物質としての死人についての死人の属性の描写で在り、

残った人の記憶の中で「死人が生きる(立ち上がる)」というのは
リアリティーとしての身体的死人では無くて、
生きて居る人の脳内の(故人についての)偶像・幻想・虚構である。

脳内の偶像は常に「無常」であるが、
死人それ自体は常に「常」である。
なぜなら死人は
常なる「無」に帰趨してしまったのだから・・・
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Unknown (Unknown)
2019-07-07 22:51:52
往く道は精進にして
忍びて終わり悔いなし

如何に凌ぐか耐えきるか
どこでも、いつでも、ちょっとでも

ご褒美は仏像っぽい物と成りきる。
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Unknown (Unknown)
2019-07-07 19:52:54
>死んだ人とは過っては生きて居た人の事を指す。
今は「無」という「常」の範疇に適合する

今は「無」という・・・のほうは何のことかわからないわ。

死んだ人とは過っては生きて居た人の事、というのは、死んだ人を知ってる生きてる人の記憶なり、生きてた頃の記録を読んだ人の解釈なり、他諸々ってことでしょ?
それは無常でないわけなくない?
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報恩寺・7月7日・「軍鬼霊塔」・米内光政海軍大将 (イエスちゃん)
2019-07-07 16:04:16
盛岡の報恩寺で、昨日、義理の母の一周忌の法要を営んだ。
報恩寺は、南部藩の曹洞宗の総司寺であり、208の寺を支配し、現在も専門僧堂がある。

今日、7月7日は、日中戦争が勃発した「盧溝橋事件」の日である。

昨日、報恩寺の山門をくぐってすぐ左側に、
「巨大な石碑」が建っていて、つくづく考えた。
その巨大な文字は「軍魂霊塔」とあり、
運筆者は、日本海軍大将・米内光政(盛岡の人)
建てたのが、皇紀2600年。(零戦の誕生した年)

これが堂々と建っていた。
曹洞宗自身の戦争協力、戦争犯罪など伝えるべきものがあるのだろうが今は少しも聞こえてこない。

一周忌の法要は「般若心経」と「観音経」のお経をあげて御焼香、有難く終える事ができた。

「坐禅」と「平和への取り組み」とは、どう関係をつけていったらよいものか?

南師自身が「平和へ取り組ん」でいる姿を想像する事はなかなか難しい。

イエスキリストは、それで十字架刑で殺されたのですが。
「ローマ帝国への反逆者」への「死刑方法」です。
それに該当する行動をとった。

釈尊は「戦争反対の直接行動」を取らなかった。
二回は「故郷は民主的に治められている」として擁護したが、三度目で諦めた。そして「故国は巨大国家に滅ぼされた。

直ぐに、8月になる。終戦記念日である。
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Unknown (Unknown)
2019-07-07 09:48:48
うん、でも只管打坐も坐禅もスタイリッシュにマインドフルネス瞑想なんて言っちゃって。

セレブがやったり、IT系の大企業が取り入れたりして、それを見たパンピーが飛びついちゃったりして。

ZENはファッションでしょ?
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仏教はヨーガ教室ではない。智慧。 (イエスちゃん)
2019-07-07 09:13:47
仏教は「ヨーガ教室」ではない。
ヨーガは、インドで、古代からあった。

智慧。

如浄禅師が
「身心脱落」
が解らなかったという「恐ろしさ」。

「心塵脱落」
を解って貰うために
必死に『正法眼蔵』を著作した。

「只管打坐」だが、
ヨーガとならないために。

どこでも、いつでも、ちょっとでも
から、始まる。
「只管打坐」
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Unknown (Unknown)
2019-07-07 07:39:59
縁があって【生】起するが縁起ならば
過去的縁起の結果、人が死んでしまえば

最早死んでしまった人には
再度、縁起は【生】起しない。

非超越論ではそうなって、
超越論ではその後も縁起が生起する・・・かと。
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Unknown (Unknown)
2019-07-07 05:39:03
こー言えばこの人は喜ぶだろーなあと思ったんだね、きっと。
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Unknown (Unknown)
2019-07-07 05:32:07
ヨガが典型的なように坐禅もいまやファッションだから、カメラマンも編集者もゴマすりで南さんをヨイショしたんでしょ。
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そうなると、 (Unknown)
2019-07-07 04:19:15

>死んだ人には「無常」は無い。

「縁起」も無いんだろうか?

返信する
お先に失礼します。 ()
2019-07-07 04:16:16
最初から、フローリングで坐禅している僕は、南師より進歩していることになりますか。

だからといって、あまり嬉しくもありませんが。


返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-07 04:13:53
>死んだ人には「無常」は無い。

死んだ人とは
過っては生きて居た人の事を指す。
今は「無」という「常」の範疇に適合する。

非超越論からはそうなるかと・・・
死んだらそれで終わりという事で
輪廻も無いし、生き返る事も無い。
死という状態は変化しない「常」の一種と考えられる。
「空」は「無常」か「常」かという問い方も同じかもしれない。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-07 04:07:54
オードリーの春日くんが、銅像に模して、人を騙くらかすというドッキリというか、バレるかバレないかという番組があるのですが、騙された人は、「息をしていない置物」と見てるんですよね。

その銅像と南さんは、どこがどう違うの?

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「識と名識が、同時に、起こっている」 (イエスちゃん)
2019-07-07 04:06:33
「識と名識が、同時に、起こっている」

つまり、
「言語認識機能の世界」
に到達する。

そこから、
「自己が起こってくる」

「只管打坐」であり、
『正法眼蔵』旧草75巻、新草12巻、全87巻を学ぶ必要がある。
旧約聖書と新約聖書のようなものである。
返信する
苦行はしたが、ダメだと解った (イエスちゃん)
2019-07-07 03:34:00
苦行はしたが、ダメだと解った。
具体的には、断食の苦行だった。
それを止めて、「乳粥」の供養を受けて、
体力を回復してから、「禅定」に入った。

「禅定」の方法が習得していた。
そして
「なぜ、自己の死に対する苦しみが起こって来るのか?」を
考え続けていた。

「苦しみ」「不安」は、実際に感じれれていた。無意識の中でも。そして、
「縁起で起こっている」ことを発見する。
「条件に依って起こって来る」

その条件を遡ると、
「識に依って、名色が起こる」
「名識に依って、識が起こる」
つまり
「識と名識が、同時に、起こっている」
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-07 02:55:10
>死んだ人には「無常」は無い

これはちょっと意味が分からん。

死んだ人ってどこにいるんですか?
無常はあったりなかったりするんですか?
返信する
而今への考察 (Unknown)
2019-07-06 23:56:33
生きてる人は常に「無常」であるならば、
「常」なる時点(=瞬間)は「而今」しかない(限りなくゼロの時間)。

ではそのゼロなる而今には如何なる意味(価値)が在るのか?
而今に意味が在るとすれば過去と未来への関連ずけに於いてのみであろう。
而今より過去と未来への考察の方が大事だという事であろうか。

「今」と「而今」とは同じ事だ。
過去と未来がなければ而今などは存在しない。
而今などと取り立てて言う程の事ではない・・・??
返信する
死ぬる修行に恋い焦がれ! (Unknown)
2019-07-06 23:37:21
マクロで「動」、即ち「動いている生命」が動物ならば、
「全く動きの無い動物」は無生物の典型で、
動物としては死の状態を指す。

という事は、坐禅によって
人は死を体験している訳なのか??
つまり「無我」とは「死」と同義語か??
養老孟司さん曰く、
「人は半分生きて半分死んでる」・・・
みたいな使い分けテクニックしてるってことかも?

「無常」とは変化を表す言葉だからそれとも違う。
死んだ人には「無常」は無い。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-06 10:19:51
何と言っても
南さんが
92歳で永平寺貫主になった宮崎禅師を見て感じた『物みたいな、生きてる気配がない』坐禅姿を、
(南さんは当時35歳位か??)

今、60歳になった南さんご自身が
他者からそう言われたという事が、
ことさらうれしく、
我が身の進歩を認識し自信につながった・・・
そんなエピソードの御披露で
微笑ましい限りでありますね。
やっと坐禅道を究めたみたいな・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-06 10:02:47
三島くん 「なあ、君は今回のネタどう思う?」

由紀子さん 「そーねえ、不特定多数に対する記事だから、仕方ないといえばそうだけど、私たち舐められているのかもしれないと感じたわ」

三島くん 「うん、そうだな。運動することと静止することは相対的だ。坐禅によって静止することは必然的に行為することを促すんじゃないか?」

由紀子さん 「そうかもしれないわね。南さんは、私たちになんの期待もしていないのよ。どーせ、こいつら分かりっこないって思ってるんだわ」

三島くん 「ありえるかも(笑) ところで坐禅ってなんだろう。生きることは行為することだ。生と死とは裏表だ。坐禅は自己を学び忘れることだとしたらば、言語的実存としての自己が死ぬことによって、行為すること、即ち生は最も充実するんじゃないか?」

由紀子さん 「そうかもね。ただ坐禅を強調するだけでは欺瞞だと感じる人もいるでしょうね。南さんは本音を隠してるとおもう人もいるかもしれない。」


三島くん 「生きることはなにより行動することだ。しかし、行動するバカほど恐いものはないということもあるから、きっと行為は坐禅によって裏打ちされてなければいけないんだろうね。」
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-06 08:37:30
「坐相が決まっている状態」を言語化してください。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-06 08:32:22
この記事読んで、思い出すのが「座禅中、ゾーンに入っている状態」の話。
「言語による認識機能をかなり低下させてる、それだけのことだな、と」
みたいな調子に読んだんだけど、
外側から「息してるんすか?置物みたいっすよ」って言われると、「それだけのことだな」とはちょっと違う感じの反応になってるみたいな。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-06 02:27:21
君は、正常でも異常でもない。


無常だ。
返信する
正とは。 (Unknown)
2019-07-06 02:17:31

「止」の上に「一」がある。

一とは?


一を乗っけて坐れ。正しくなるから。


で、一とは?



(ヒント)

ちょっとだけ。

返信する
ガンバって生きよう!! (Unknown)
2019-07-06 00:54:28
どこでも、いつでも、ちょっとでも、

我は歩むなり自灯明、

私(わたくし)こそが
この世を照らす法灯明。
返信する
現代仏教には「正論」も「正明」も必要だ!! (Unknown)
2019-07-06 00:45:31
十正道;

正見・正思惟・正語・正論・正業・正命・正精進・正念・正定・正明


とにかく正しく、正しく正しく,
更に正しく、
どこでも、いつでも、ちょっとでも…

これが仏教者の宿命だ。
返信する
仏教訓!! (Unknown)
2019-07-05 19:47:43
およそ出家僧侶たるものは…
釈尊の悟りを目指すべし。
確固たる信仰心を持ちて
ダダ修行、タダタダ修行、ひたすら修行、いつでも、どこでも諸行のみ。
ちょっとでもとは片腹痛し!!

およそ在家で仏道を志す者は…
己の置かれた立場に在りて
釈尊の教えに信仰心を持ち
徳心をもちて功徳を行い
我が心身を清めんとして
只管打座をも忘るるべからず。
どこでも、いつでも、ちょっとでも!!
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-05 00:39:03
まあ、
しないよりずっと良い。
精神安定効果は期待できそう。

どこでも、いつでも、ちょっとでも。

それはそれで
結構じゃないの
返信する
どこでも?いつでも?ちょっとでも? (Unknown)
2019-07-05 00:23:18
釈迦は
沙羅双樹の樹の下で、毎日、四六時中
瞑想し続けた。
明けの明星を見て
オンドリがいななく音と出逢い、
悟りに達するチャンスを得た。

なるほど徹底している。

悟りを開くまでは
動かじとの覚悟のもと、

坐禅姿のまま餓死をも恐れぬほどに
肝が座っていた。

真剣勝負という事か?
片手間仕事では無いという事か?
悟りを開くとはそういうことか?

言葉を発しなければ夜も日も開けず、
さもなくば生きていけない現代人には出来ない事か?
返信する
愛のキューピッド  (ブッダのファン)
2019-07-05 00:14:21

>「山ちゃんとは仲が悪かったと聞いていましたが、なぜ紹介したんですか?」と聞かれると、「ブッダかなんかの言葉で、『一番憎い人をも愛せるようになったら悟りが開ける』というのがあって…」と説明した。


しずちゃん、悟りを開きたいんだ? 

いつでもどこでもちょっとでも、憎い人を愛してみようか。

って、山ちゃんそんなに憎まれてたんだ?



返信する
Unknown (izt)
2019-07-04 20:28:07
新しい本楽しみです。釈尊ファンで道元ファンで南さんファンの俺も真似事ですけどちょっと坐ります。坐禅が間に合わなくなってきて、本格的にワケ分からなくならないように、という目的で(笑)
返信する
「仏教とは…」は言えるが、キリスト教の場合は無理。 (イエスちゃん)
2019-07-04 08:12:11
仏教の場合は、「仏教とは何なのか」を言える。それは、
釈尊は、35歳から80歳まで、45年間も教えを説き、
それを明確に理解した高弟達が次々に独立していき、インド全土に広めたので、
更に何度も「結集」を図って、
教えを確認し合って共有化した。
これで、教えの乱れを防いだ。

しかし、キリスト教の場合は無理です。

イエスの活動は、約30歳頃から34歳頃までの長くても3,4年間であり、更に弟子たちはイエスの教えをまったく理解できなかった。

更に、「イエス自身の教え、生き方」と無関係に、
イエスに生前会った事のない自称・使徒のパウロが「独自の信仰」を布教した。

イエスの直弟子たちはユダヤ教に退行し全滅して、
このため、
イエスの直弟子と喧嘩別れした「パウロ個人の信仰」がキリスト教の実体となった。

所謂、キリスト教とは、イエスの始めた「神の国」運動に共鳴した、同時発生した、多種多様な「多くのグループ」の集合体なのです。

だから「新約聖書には、統一できない、多種多様な信仰が、混在、同居している」のです。

ペンテコステ派の教会の場合は、「聖霊・ホーリースプリット」の働きを強調しており、ダイナミックな讃美歌のオンパレードであり、「教理を重視する」の対極ですね。

頭で理解するのではなく、体で実際に聖霊に触れて経験し救われる。


まあその点では、体感の「坐禅」に近いのかも。

しかし「坐禅」は「無分別智」「智慧」です。
熱狂とは対極にありますが。

以前、座間市の
「福音主義ペンテコステ派の教会」の礼拝に出席しましたが、熱狂そのものでした。(職場の部下に勧めれれて)

自分の籍を置いている教会は、
スイスのジュネーブで宗教改革をした
カルヴァンの流れ、改革長老派ですので、
こちらの方は、冷静で、教理を大切にします。
だから礼拝は、聖書の講義みたいなものです。
カルヴァン自身の膨大な聖書研究と講解説教が残されています。

キリスト教の教会もいろいろあります。
自分の性格に合った教会を探すのも手です。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-04 05:31:02
私は一年ほど福音主義ペンテコステ派の教会に通っていた時期がありますがちょっとついていけなかったかな。

そこの70余歳の牧師曰く、「ブッダは人間的真理です、しかしイエスさまは宇宙的真理です、仏教にはサタンの働きがあります。」
返信する
どこでも、いつでも、ちょっとでも…坐禅する生き方 (イエスちゃん)
2019-07-04 01:20:55
どこでも、いつでも、ちょっとでも
…「坐禅する」生き方こそが、大切です。


法然上人が、
どんな生き方でもいい、
そこで、念仏を唱えればいい、

独身なら、独身のままで念仏する。
独身が保てないなら、結婚して念仏する。

南無阿弥陀仏の念仏を唱える事だけを考慮するだけで、後のことはどうでもいい、
と教える。

念仏「原理主義者」の面目躍如です。

翻って、
どこでも、いつでも、ちょっとでも
…「坐禅する」生き方こそが、大切です。

それには「坐禅する」気を起こす必要がある。

「仏教入門」の表紙を独占する…
ド派手な、でかでかとした「坐禅姿」が
何よりである。

全てのお寺が、
「朝日カルチャーセンター」に変身し、「ヨーガ教室」のノリで、「坐禅」の布教ができないものか?

エンゲイジド・ブッディズム
参加する・仏教
「こころの内部」の問題の解決ではなくて、「身体を動かして」それで現状を変えていく。

これこそが『仏教入門』の真骨頂ではないのか!

「釈尊」とまったく同じに「坐禅する」。
これこそ「原理主義」の原点である。

米国では、現在、キリスト教の、
福音原理主義の系統の教会が強い勢力になっている。
(非科学的であり、ダーウィンの進化論を教えない。神の創造論を教える。)

これらの人々がトランプを熱烈に支持している。
そして、現に、アメリカを動かしている。
これは、これで、困ったものだが。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-02 15:14:23
「三島由紀夫 ふたつの謎」

大澤真幸著

大澤さんの著した三島由紀夫論、こりゃ読むっきゃない!!
返信する
Unknown (Unknown)
2019-07-02 01:44:07
>宣伝効果抜群を狙った編集者も、予想以上のインパクトだったのから、帯を大きくしたのかもしれませんね。


本自体が、ラーメン1杯分の金額ということですので、本の面積が小振りなのでしょう。だから、写真を目一杯大きくする必要があった訳ですね。帯の端っこで坐っていても、意味も価値もない、というより見えない訳ですね。


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たったらりら~ (永平寺ファン )
2019-07-02 01:32:51
酔っ払いもいるもんだ。

そこは、永平寺名物の「ごま豆腐」を入れとかにゃあかん!

この世の食べ物とは思えん程、ウマイ!クセになること間違いなし!



(小声で宣伝しておきます)
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宝の持ち腐れ (Unknown)
2019-07-02 00:35:49
今日ではネットで大概のことは調べられます。

ユーロが通貨として発足したのは1999年。ユーロ紙幣・貨幣が市場に出回ったのは2002年。

40年前は、イタリア・リラの時代。おそらくはドル建てのトラベラーズチェックを購入されたのでしょう。

1979年のドル・円の為替相場は、一年の平均で219円。年末の値は240円。
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木綿でも、絹ごしでも、厚揚げでも。 (Unknown)
2019-07-01 23:57:31

豆腐が好きだー!

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そこは、 (Unknown)
2019-07-01 23:46:30
「いつでも、どこでも、ドルじゃない。
ユーロでしょ!」ヾ(-ο-;)


と、ツッコでおきます。


それに40年前なら、1ドル300円台だっつうの🤛
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Unknown (Unknown)
2019-07-01 20:58:32
そうだったのですね。
ごめんなさい。
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苦労したのです。1ドル240円だった。 (イエスちゃん)
2019-07-01 17:41:29
『40年ほど前に、イタリアのアッシジを巡礼しましたが、…』

イタリアのアッシジ(修道院)には、
巨匠ジオットの有名なフレスコ画があるのです。

「聖フランシスコの生涯」を描いている。
小鳥に向かってキリスト教の教えを説教している場面、
中世キリスト教が腐敗して傾きかけるのを支えている場面、…

それまでの聖画から、血の通った人間の描写へと、
絵画に革命的な影響を与えたのです。

日本がいくら金持ちになっても、フラスコ画は日本に持ってきて展示はできない。
だから、こちらから見に行くしかない。

サラリーマンだったから、長時間残業など、苦労して長期間貯金をしてようやく行きました。

しかし、それだけのことはありました。

聖フランチェスコの精神が残っていた。

皆様にも勧めたい。
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Unknown (Unknown)
2019-07-01 12:46:11
「貧を学ぶ」だたね
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Unknown (Unknown)
2019-07-01 12:45:16
イタリア🇮🇹まで旅行に行ってどこが「貧に学ぶ」なのよ
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聖フランチェスコのボロボロの服 (イエスちゃん)
2019-07-01 10:07:00
『どの宗教も「袈裟を着て」いる訳ではないですよ。』

40年ほど前に、イタリアのアッシジを巡礼しましたが、
「聖フランチェスコのボロボロの服」が「聖遺物」
礼拝の対象になっていました。

本当に
「荒い目の、所々穴の開いた、麻袋のような物質」
でしたが、
「聖フランチェスコの精神」がそこに現れていた。

これを着て、ローマ法王に謁見して、修道会を認可させた。
それまでは異端の嫌疑がかけられていた。


道元和尚は「貧を学ぶ」とお示しになさった。
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生かされている・・・坐禅 (イエスちゃん)
2019-07-01 09:46:35
生かされている・・・坐禅


「自分が生きている」ではない。
自分の意志で、生まれたのではない。

「自分は、生かされている」のである。

だから、
自分の意志とは無関係に、
「自分は、生きるのを終える」のである。

『どこでも、いつでも、ちょっとでも』
この坐禅の行為が、
自分の意志とは関係なくに、止めて、
自然と「この事実」に気づかせてくれる。

釈尊も、托鉢の時間以外は、
一日中、
坐禅・禅定で、過ごしただろう。
「安楽の法門」


これが「仏道」だ、と思う。
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そうは言っても、 (Unknown)
2019-07-01 09:15:41
釈尊が、猫背で傾いて坐してる姿は、想像しにくいんだなぁ。

それに傾いていると、自己を忘るる前に疲れてしまいそうなんだなぁ。

身心一如なんだから、どっちも大事なんだなぁ。



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Unknown (道智)
2019-07-01 08:31:33
宣伝効果抜群を狙った編集者も、予想以上のインパクトだったのから、帯を大きくしたのかもしれませんね。

重力の方向と身体の正中線を結んで、きれいな一直線を保つ。正面から見ても、横から見ても。それが安定した、つまり、身体に無理のない姿勢。
摂心などで一日中座る際、重力に抵抗した姿勢をとっていると、身体にコリや痛みが生じてくる。

畢竟、坐相とは、そういうことだと思う。

「坐禅とは、ただ正しい坐禅の姿勢を筋肉と骨組みをもってねらい、これにすべてをまかせきってゆくこと」。
これは、内山興正老師の言らしいが、沢木興道老師から現在の藤田一照老師に連なる考えかただろう。
–––––
いっぽう、井上義衍老師に連なる「悟り」を第一義とする法系では、坐相に対するこだわりを感じさせない。

「何遍もいうようですが、なりふり構わずにやってごらんなさい。摂心の最中ですけれども、身体が前に倒れてしまうとか、横になってしまうとか、坐相が崩れてしまうということを気にする人があります。一所懸命にやっていると、知らず知らずのうちに身体が前に倒れたり、横に傾いたりすることもあるでしょう。けれども、姿勢をよくするために坐禅をするわけではありませよ。自己を忘じるために坐禅をするのですから、姿勢を云々する暇なんかないはずなんですね。
そういうことはしばらく第二義的なものになります。そうでないと、この摂心も前と同じように終わってしまうということです。」
原田雪渓老師

「思うまんま、両手を挙げて降参して、どうにでもなれ、あとは野となれ山となれ、と言って坐ると、そこでようやく坐禅らしくなる。
それでうまくいかない人は、難しく考えすぎている、何かしら自分でやらかしている。
座相だって、正身端坐が良いには違いないけれど、前にのめろうが傾こうが構わない」
甲賀祐慈老師(耕月寺)
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そうそ (Unknown)
2019-07-01 08:30:29
テメエらが不正を働いて、こんな国してること忘れんなてね。


大人の学習指導要領には、坐禅も入れようか。
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Unknown (Unknown)
2019-07-01 07:57:33
「小学校学習指導要領」が定める教科の内容は、「正直に明るい心で生活」「高齢者に尊敬と感謝」「進んで義務を果たす」「先生を敬愛」「集団生活の充実に努める」「我が国の伝統と文化に親しみ、国を愛する」等である。>

大人の学習指導要領にした方がいいんじゃね?
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Unknown (カレーパンマン)
2019-07-01 05:17:39
賢坊くんのラーメン論議は、よく出来ていたね。

ちょっと惜しいのが、当時インドに麺があったのか?ということだよね。

出来ればカレー論議を望むが、ナン題だろうか。

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Unknown (Unknown)
2019-07-01 01:44:54
『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(新潮新書)

日本教育の問題点が、浮き彫りとなるような?

<日本では道徳が2018年から教科化された。

「小学校学習指導要領」が定める教科の内容は、「正直に明るい心で生活」「高齢者に尊敬と感謝」「進んで義務を果たす」「先生を敬愛」「集団生活の充実に努める」「我が国の伝統と文化に親しみ、国を愛する」等である。>


何これ。戦前の話?
誰が考えたの?

義務ばかりを押し付けるような教育では、ダメでしょう。

こんな日本の小学校には入りたくないし、親にも成りたくないなぁ。


https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190630-00065548-gendaibiz-life&p=1
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前世でも、現世でも、来世でも。 (天気のような者)
2019-07-01 01:08:06
君は、君の名ではない。

坐禅に訊け!
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Unknown (Unknown)
2019-07-01 00:57:02
息は、毛穴もしていますよ。
置物でもありませんよ。実体視しないで下さいね。

只の帯です。


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Unknown (Unknown)
2019-07-01 00:43:55
一旦、
自分に纏わりついている、
自分をがんじがらめにしている「自我」から離れる。
頭の中を空っぽにして、つまらぬ思想は飛んでいけ。。。

せやろ?
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息身仏ですな! (坐禅一筋)
2019-07-01 00:24:41

調身・調息・調心わいね。ぜんぶ調うわいね。

せやろ?

毎日どこでもいつでもちょっとでも調整すればな、調子よくなるわいね。

せやろ?

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脚が見えませんので、 (Unknown)
2019-06-30 18:40:52
「結跏趺坐」をされているかわかりませんよ。

それにしてもwikの写真の人、石の上で、膝も空中!

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/結跏趺坐

いくら、どこでもいつでもチョッとだけ、と言われましてもね・・

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アホでも、バカでも、アンポンタンでも。 (初心者)
2019-06-30 18:33:23

本が手元に来たら、表紙を仏壇の右の方に飾っておきます。

真ん中は釈尊で、その右隣は道元禅師がいらっしゃいまして、置く場所がありませんので、右の扉に貼り付けでも構わないでしょうか。

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ラーメン、Gメン、ぼくアーメン  (長崎ちゃんぽん)
2019-06-30 18:23:48
>「袈裟」は物質なのだが、道元和尚にとっては「宗教そのもの」のように扱われている。

「仏道そのもの」にしないと、どの宗教も袈裟を着ている訳ではないですよ。


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Unknown (講釈師)
2019-06-30 17:57:41
何時もながら 臭い噺の イエスちゃん いい加減に このブログから卒業すれば
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道元和尚は、一歩でも釈尊に近付こうとした (イエスちゃん)
2019-06-30 17:21:48
道元和尚は、「一歩でも」釈尊に近付こうとしました。

だからこそ、袈裟とその作法とに感涙しました。
僻地である日本においては、これを知る事はできなかったと。

水野弥穂子先生には、
「袈裟功徳」の巻の現代語訳があります。

「袈裟」は物質なのだが、道元和尚にとっては「宗教そのもの」のように扱われている。
と注釈しています。
是非、一読をお勧め致します。

「宗教の世界」は、こころの救いの問題だから、このようになるのだろう。
「ラーメンの世界」とは、少し味が違うような気がします。

謂わば、道元和尚は「元祖ラーメン」を追及しました。
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Unknown (Unknown)
2019-06-30 17:01:36
新刊楽しみにしてます!
とは言え、南さんの著作は全て読破しているコアなファンの私に、今回の新刊には新要素はあるんでしょうか?
表紙、貴重です!坐禅のお手本にします!
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ラーメン論議 (賢坊)
2019-06-30 13:30:45
南さんの書籍は古いものも新しいものもよく読ませていただいています。それとは別に、スッタニパータ、ダンマパダ、阿含経典、中論、正法眼蔵、随聞記などの翻訳本も読んでます。原文が読めないので、中村元さん、増谷文雄さん、水野弥穂子さんが翻訳されているものを選んでます。100年前なら、私にはとても読めなかっただろうから、たいへん助かりますよね。今や、このような読書は私の趣味になってます。
ここのコメントもよく読ませていただいてますが、最近、ラーメン論議を妄想しています。
麺を最初に作ったのはお釈迦さんとして、それを基に様々な人たちが様々なラーメンを作ってきて、今は即席ラーメンが流行っているみたいですよね。九州のとんこつラーメンと北海道のみそラーメン、関東のしょう油ラーメンを各人の好みで論議しているみたいですよね。無我といっても、所詮自分好みのラーメンを選んでいて、道元さんも中国へ行って好みのラーメン作りを修行してきた感じでしょうか。スープによく絡むちぢれ麺より、ストレートの太麺が好みのようですよね。スープは激辛かな。脳天をどつかれるけど、辛すぎて味がわかりません。具材も同様かな。まあ、寺の数だけ、ラーメン店があるという感じかもしれません。ラーメンも地域や時代に合わせないと、多くの人が食べなくなる。
南さんが作るラーメンは少し辛いけど、スープも具材もおいしいし、他のものよりも食べやすい。それに、何といっても、適当に味をごまかそうとしないところがうれしいですね。
新しく出た書籍も、ちょうどラーメン一杯分のお値段のようで! 食べるのが楽しみです。
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坐禅の時は、袈裟をかける (イエスちゃん)
2019-06-30 12:36:06
坐禅の時は、袈裟をかける。
「仏教入門」
本当に立派な袈裟の姿である。

袈裟は「袈裟色」で、沢山の襤褸布をつづって、全体を一色に染め上げる。
(だから、誰も盗もうとする気持ちが起こらない清浄である)

「袈裟功徳」

水野弥穂子先生が、東京・大森の自宅で、お袈裟を縫う会を開いていました。
沢木興道老師の教え(袈裟の研究)に従って。
そこでなんとか一枚「小さなもの」を縫った。

道元和尚が、中国において、お袈裟の作法で、感涙されました。
それが、根本の動機。

時代は変わり、
昨年、城下町盛岡の・天下の報恩寺のお葬式(妻の母、享年九拾九歳)で、びっくりしました。

葬儀の通夜で、死者への受戒の儀式で、
導師が、「真っ黒なお袈裟」で、そこには、
色彩艶やかな「風神雷神図」が大きく描かれていました。
背中に「風神雷神図」を背負って、つまり「遺族に見せるサービス」なのでしょう。

お袈裟の本当の意味が、果たして伝わっているのだろうか。
道元和尚の感涙を思い出した。
曹洞宗がどんどん崩れていく。
「諸行無常」
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澤木興道老師の坐禅の姿勢の写真 (イエスちゃん)
2019-06-30 12:03:21
『禅宗要典』
いつもその坐相を見ていました。

同じ姿ですね。

『禅宗の要典』
朝課、食事の時も、いつも、用いますから。
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どいつも、こいつも、長州力でも (腹筋いのち )
2019-06-30 08:54:37
いつか引退するまで。

死んだ心地で坐ります。


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お腹の虫が鳴く前に  (雨蛙)
2019-06-30 08:42:59
おはようございます。

訂正でしたら、記事の訂正はされないのですか?


鼻で笑ってはいけません、腹で笑いましょう。
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Unknown (講演を聞いた者です。)
2019-06-30 08:40:26
先日横浜でお話を聴きました。坐禅の話になった時、唐突に「宣伝です」とおっしゃって、よく意味が分かりませんでした。恐山での坐禅会の話かなと思っていましたが、この事でしたか。もっとストレートに宣伝なさって下さい。それを待ってる人もいるのですから。とりあえずアマゾンで本は予約しました!
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訂正です。 (院代。)
2019-06-30 08:16:34
宮崎禅師の享年は満年齢では106歳です。ご自身が数えで自称されていたので、誤記してしまいました。
「お腹の中でも生きとるやろ」とおっしゃっていたのを思い出します。
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Unknown (蓮華)
2019-06-30 07:00:57
『帯と言うからには、本の三分の一程度の幅で、その右隅に私の写真がちょこっと使われ、残りに宣伝文句が入ってるのだろうと漠然と思っていたら、帯が全体の三分の二以上を占め、そのど真ん中に大きく私の坐禅姿があるのです。

 仰天です。その上「南流仏教入門書ついに成る!!」「私の考える仏教」などという惹句がついています。』

「仏教入門」、帯も含めて非常に楽しみにしています(笑)


『とはいえ、「生きている気配がない」とか「物みたい」という二人の感想は、かつて前永平寺貫首、宮崎奕保禅師の坐禅を見た時の私の印象とまったく同じでした。』

「而今」の坐禅なのでしょうか。

「今」と「而今」2019年05月20日
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/df11145c143868b138d0b2f4d62493ea


やはり坐禅になりますね。
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Unknown (Unknown)
2019-06-30 06:04:13
生きて居る=自我がある。

(どの位)生きて居ないみたいか?
=これは無我の状態に達したという証拠である。

これは「坐禅道」
段位認定試験科目となる???
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Unknown (Unknown)
2019-06-30 05:47:18
ナルホド、
生きて居ないみたいとは
ミイラみたいに枯れた物質的様相とか、
魂を抜き取られた形相とか・・・、

確かに普通の人には出来ない芸当ではありますね。

で、其処から引き出される価値・意味はどう定義したらよいのでしょうか??
それが「安楽の法門」??
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Unknown (Unknown)
2019-06-30 05:44:58
本人が表紙を飾るなんて、「南直哉」のブランド力は凄いですね。
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Unknown (Unknown)
2019-06-30 02:21:37
釈尊みたいですね!


(見たことないですが、)
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Unknown (Unknown)
2019-06-30 02:14:32
宮崎奕保禅師は、108の煩悩な年数を生きておられたのですね。

その領域に達すると、仏像との違いは、何になるのでしょうか。



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場所など選びません。 (Unknown)
2019-06-30 02:11:04
私は、風呂場で坐ります。
 
ダメですか?
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Unknown (おたっきー)
2019-06-30 01:30:49
ぼくは、アパートでも坐りますよ。
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はは。 (マツムシソウ)
2019-06-30 01:26:11
編集者さんに、してやられましたね。


先に言うと、断られるのを知っていたからですね。



そろそろ禅師に成れますね。



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本当だ! (スカビオサ)
2019-06-30 01:17:11
ほぼ表紙、丸々ではないですか。
裏表紙は、後ろ姿になっていますか?

本の宣伝ありがとうございます!

自営業お疲れ様です。

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