『月刊石材』掲載、青森県青森市・やまと石材社長の石井靖氏によるインタビューのご紹介、最終回です。
□仏教との出会い 石井社長(以下、石井) 話を戻しますが、子どもの時に世の中に不安を持たれて、そこから国語の教科書でしたか、「諸行無常の言葉、このもやもや感はこれだ」という話を少しお聞かせいただけますか。
南直哉(以下、南) その通りだったですね。要は、自分の感じていることが人に通じることなのかどうなのか、全然わからないわけですよ。小学校の高学年あたりから、「異常なのかな」という感じがしていたんです。異常というか、何か孤立している感じをずっと持っていたんです。 石井 ご自身で「こう感じているのはどうも自分だけ」という感覚…。 南 だいたい同級生の中に、「三ヵ月入院しました」「小学校、丸1年くらい休んでます」などというのは、私しかいないわけです。そうすると、自分が考えていることは自分だけのことで、誰にもわかってもらえないような話なのか、あるいは、人にとってはどうでもいいことなのか。私が常に気になったり考えていることを、人に話せないわけですよ。 人というのは、要するに同世代。それでいて大人に何かを話せる雰囲気でもない。ちょっと話すとびっくりして、非常に忌まわしいとまで言わなくても、「何? やめてくんない。この忙しいのに…」といった視線を感じるわけです。どこにも何かを聞いてもらえそうな所がないわけですよ。そうすると、ノイローゼじゃないですけど、何か今ひとつピンとこないわけですわ。 それで中学に入ったらますますで、でも思春期になるから、女の子の目も気にするわけですよ。だけど、「どうも…」と思っていたんです。そうしたら国語の教科書に「諸行無常」とあり、「あっ、これはしゃべってもいいことなのかな」と。この言葉のつながりで、自分が考えていたり感じたりしていることを、外に出せる何かがあるのではないのか、というのが一番大きかったですね。 だから、家に帰ってきて百科事典を引いてみたら「仏教の言葉」とあって、初めて「こういうことをテーマにする何かがあるんだな」というのがわかったから、大転機だったですね。 石井 もやもやしていて出せないでいたものを、その言葉をきっかけにスッと出せた。 南 子供の頃、孤独というのは一人でいることだと思っていたんです。でもそれは違って、孤独というのは、わかって欲しいことがわかってもらえないこと。わかって欲しいことがなければ、誰も孤独にならないわけですよ。ところが、わかって欲しいことが人に通じないという時に、孤独を感じるのであって、そばに恋人がいようと親がいようと関係はないんです。 ところが「諸行無常」という言葉があって、しかもそれを言いだしたのは、インドで二千年前に死んだ人ということになれば、そのインドの人と今の自分がわかるということは、「ひょっとしたら、それがわかる人がまだいるかもしれない」と、当然思うじゃないですか。教科書に載っているくらいだから。 その時に孤独から開放されたんですよ。今まで自分は孤独だったんだ、とわかったんです。その時に一回悟ったんです。言葉によって、考え方と、ものの感じ方が変わったわけですから、何かあると思ったんです。ひょっとすると自分の考えていることは、非常に大きな意味があるんじゃないのかな、と思ったんですよね。 石井 一回目の悟り、と書かれていましたよね。 南 物の考え方と感じ方が、そこで変わっちゃいましたからね。これが何であるかわからんうちは死ねないな、と感じましたね。 石井 中学生の時ですよね。 南 死ねないというか、多分これを避けて生きることは、まず難しいというのはすぐにわかったんです。そのことがもうここらへん(頭)にドカーンと入っちゃったから、あとはどんなことをやっていたって消えないです。だからそれ以外のことは、ほとんど眼中にない。 大学に入る時に、親父に「文学部に入る」と言ったら、彼は旧世代の人だから「おまえがそういうならしょうがないかもしれないけど、男が何も文学部じゃなくてもいいのに」と言うわけです。思春期の人間というか馬鹿ですから、目の前のことにとらわれるわけですよ。この問題にアプローチするのに、物理だ、数学だなんてムダだと思うことになれば、あっさりやめちゃうんです。今にしてみれば、数学とか物理が人間精神の偉大な活動の一つ、ということで後悔をしているんですが、あの時は、諸行無常を説くのに数式が何の役に立つのかと、スパーンと馬鹿らしくなって止めちゃうわけです。 「経済」と言ったって、要するに毎日何を食うかの問題だろう、何だって食っていけるはずだと。そうなると、とにかく一番このことを大っぴらに考えても大丈夫そうな学部、生活とは何か、みたいなことにしか頭がいかんわけですよね、高校生ぐらいでは。ますますおかしくなってきて、考え方とか行動パターンがもう変わってしまったんです。 石井 すごいと思ったのは、その後、仏教書だけではなく哲学書などまで、幅広く随分お読みになられたことです。 南 正確に言うと、仏教書はほとんど読んでいないですね。基本的な道元禅師の『正法眼蔵』と仏陀が語ったといわれる経典のいくつか、つまり、「諸行無常」を具体的に書いてある典拠になるような書物をざっと読んで以降は、もうほとんど仏教書は読んでいないです。インドの原典に近い翻訳のようなものを読んで、今のお坊さんや評論家みたいな学者が書いたようなものは一切読んでいないです。 石井 それはいったいなぜですか。 南 いくつかは読みましたが、使い物にならんのですよ。一番知りたいことが書いてないんです。要するに「仏性」と言ったって、何のことだかわからない。「諸行無常」について、ひどいのになると「ものの哀れ」と一緒のような「はかない」、「桜は散りました」のような話。そうではないとすると、「実体のないこと」と書いてある。「あるじゃないか」と。 どんなに仏教書を読んでも、自分の経験に刺さらないんですよ。私は自分の経験と一致しない言葉は言えないんです。どうもこれはダメだな、と思ったんですね。 仏典に本格的に触れる前に『正法眼蔵』を拾い読みして、「自己をならう」とか「自己を忘れる」といった話を読んだんですが、わからないわけです。その次に強烈な印象があったのはハイデッガーの著作なんですが、これもよくわからんわけです。ただ、『正法眼蔵』の「諸行無常」とか、「自己を忘れる」と同じで、「死に対する先駆的決意性」とか、言葉自体がパコーンとこう入るわけです。そうすると、繰り返すことで漠然としたイメージが出てくるんです。あるいは世界観とかね。 その後大学に入って、また仏典か何かを読んでいたのですが、ハイデッガーがわかりたくて読んだ周辺の本の哲学者の言葉に、一発で通じる時があったんです。そこで、仏教書を読むことをやめたんです。 要は仏教のことを理解したいというか、『正法眼蔵』のこと、ゴータマブッダの何がしかの言葉を理解するのにむしろ役に立つのは、仏教書以外にあると。 石井 あくまでも知りたかったのは、仏陀の言葉であったり、道元禅師であったり。 南 もっと言うと、『正法眼蔵』がわかりたかったんです。 石井 わかりたいがために、周辺の仏教書じゃないものを読んだ。 南 私にとっては、「諸行無常」が「自己の存在根拠が欠けている」といった実感であり、「縁起」が、例えば自意識は「何かを意識する」という形で、意識でないものに向かって流れださない限り意識として働かない、みたいなことを、言葉としてハッキリ定義できなくても、自意識がすごい脆いってことは、子供の頃から思っているわけですよ。 そういった実感を説明する言葉は、仏教学者や評論家にはないわけです。むしろそれは現代哲学の中にあるわけです。これを武器にすると、自分の実感に近い形で仏教、『正法眼蔵』を読めるんです。 私は幅広く読書をしたわけではなくて、仏教の言葉が知りたかったから、道具を探したらそうなったというだけ。さっき言ったように自分がいるってことを考えた時に、心身構造、社会経済構造、言語構造といったものが、どう見たって決定的な役割を果たしているとわかれば、その周辺の本も読むじゃないですか。だからブログにも書きましたけど、あるキリスト教の神父の「私は聖書を読むように新聞を読んで、新聞を読むように聖書を読む」というのに近かったです。 つまり、『正法眼蔵』が自分に何を訴えてきているのかがわかるためには、道具は何でもよかった。ぶち込んで使えたらそれでいい。自分の体験と言っている事が、最初はどう繋がっているのかわからないけど、この繋がりを説明できれば何でもいいんです。結果的にいわゆる坊さんの本にも仏教学者の本にも、それを説明する概念がなかったといっただけの話です。 石井 今思い返してもそれはないですか? 南 なかったですね。だから例えば、唯識(あらゆる存在はただ識、すなわち心にすぎないとする見解)のある概念が使えるか。唯識というのはよく出来ているし、「これは使えるな」と思った時に、唯識の言葉を使うために唯識学者の本を読むということはあります。 いずれにしても、すべての本というか言葉は道具ですからまず理解する。だから、使えれば何でもよかったんです。結局私が、『正法眼蔵』なり、仏典との関係をリアルに語れる、実感をもって語れるものでありさえすれば、ハイデッガーであろうと何であろうと、言葉はなんでも良かったんです。 □人間はそれだけで欠陥がある 石井 今のお話は大学時代のことで、その後いったんはお勤めになられた。でも、まだ勉強は続けられていた。 南 仕事は真剣にやっていたんですが、どう見ても続かんな、という感じだったですね。 石井 「出家しよう」と思った最後の決め手は何ですか。 南 きっかけで一番大きかったのは、ある人から「辞めろ」と言われたんです。「あなたはこのままやっていると仏教の理解、禅の理解もそこそこまでは進むだろう。サラリーマンとしても、普通のサラリーマンになるだろう。しかしそれは、君にとっていいことではない」と言ってくれて、「では伺いますけど、どっちにしたらいいですか」と言ったら、その人が「俺は全く責任はとらないが、あなたはサラリーマンを辞めて、坊さんになった方がいいと思う」と言った人がいるんです。人にまでそう思われたのでは「もうダメだ」と思ったんです。もう一回やってみよう、失敗したら戻ったらいいんだから、と思ったんですよね。 石井 ご両親の反応はどうでしたか。お父さんはやっぱり来たか、のような感じですか。 南 決して賛成はしないけれども、「しょうがない」ですね。だから後になってから「俺はあの時、『賛成』とはとても言えなかったが、なるほどと思った。このままサラリーマンは続かない。本当は何をやりたいんだろうと思っていた」と言っていました。坊さんと聞いた時には「決して賛成ではなかったが、なるほど、人というのは自分に合ったものを見つけてくるもんだなと思った」とは言っていました。
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お彼岸、元気が湧いてきました(笑)
方丈様、石井社長のご両方が、普段からどれだけ深い問題意識をもちながら行動されているのかがうかがわれるような、とても重厚で深い多数の内容が織り交ぜられたお話だと思われました。
貴重なお話をいただきまして、本当にありがとうございました。
お話にありました個々の内容につきまして、未だ考えている途中でございますので、改めてこちらにコメントさせていただきたいと思っております。
重ねてではございますが、誠にありがとうございました。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
『「自殺するほど切ないことは何か」と言ったら、しょせん人間関係です。』
他にも理由など沢山あります。この記載は極めて傲慢であり、その様な亡くなり方をした方とその遺族に対する冒涜でしかありません。
少し御配慮をいただければ幸いに存じます。
矛盾が浮き彫りとなった過酷な社会状況の中で、どのように対峙していこうかと迷っていました。 ブログや講義でお話を伺い、長年の不安感の大部分が氷解したようです。
今は多様な価値観が交差し、変り続ける世界の中で、問い、生きていくことが出来そうな気がします。ありがとうございました。
両者は、その後交際して別れた女性達や死別した人々とは明らかに違います。私なりに言うなれば、別れや旅行モデルではなく「こころの灯が消え去った」という思いでした。
そして、50歳も過ぎ何故か?亡くなったあの子を想い出す時がある頃、30年振りにあの子と同窓会で再会!日を改めホテルのロビーで語り合い夢のようなひと時は瞬く間に過ぎ去りました。
それは兎も角として、亡くなったあの子と語り合えるあの子への思いや意識の差は何か?
ここは、はてなとさて措くとしましょう。
次に形についてです。小学六年生までは、二年生の時の担任教師に連れられ命日になるとお墓参りに行きましたが、去年33年振りにお墓参りに行くとそこは竹藪の中と化していました。
オー!が第一声でした。
人は形に囚われ過ぎます。戦没者の慰霊塔には、毛髪や爪などが収納されていますがDNA鑑定をすると、冤罪など遠く及ばぬ「あっと!驚く為五郎」になることでしょう。
形に残したいという方の意思を方丈さんが拒むことはないでしょうが、こころのあり方と形に残すことの意味などは、葬儀で飯を食っているという立場を超えてお話しをされることが剃髪され求道するお坊さんの姿ではないでしょうか。
そうでなければ、人を説くこと以上に己の心を説くことができないのではないかと思わされてしまいました。
「以前ほどには苦しまなくなってきた」、「苦しみがあっても許容範囲内に収めることができるようになってきた」ということです。
仏教の方法に、少し馴染んできたのではないかとも思っております。私自身のこの悩みや苦しみとその移り変わりは、「悟浄出世」(中島敦(著))の悟浄に良く似ております(笑)
苦しみに悶え苦しんでいた最中には、「一発で解決」してくれることを望んでおりました。
公案の「達磨安心」を伺い、もしも達磨のような方に出会って、この苦しみを一気に解消できるのならば、腕や足の一本でも差し出してもいいと思いつめるほどでした。(そうです、私はその時、間違いなくノイローゼでした(笑))
私の個人的な経験でしかないのですが、ノイローゼは「一発で治る」ものではないような気がします。またノイローゼの原因は、『不適切な形』で、自ら問い続けること(自ら『拷問』にかけること)を、心身ともに疲れ果てるまで続けていることによるのではないかと思われます。
したがいまして、ノイローゼになっている方は、「問い続けること」(無駄に考えること)を、少し脇においた方が良いかと思います。
ノイローゼになったら、まず第一に心がけることは、「先に身体を整える」ことだと思われます。
規則正しい生活(食生活を含む)を心がけて、身体の養生に努め、身体を回復させた方が宜しいかと思われます。
しかしながら、身体の休息だと思って、睡眠時間を心の欲するまま過剰にしたり、部屋でゴロゴロ寝転んでいたりするのは、却って良くならない気がします。やはり「身体を整える」というイメージで行うのが良いように思われます。
その後、体力が充分に回復したところで、適切な方法で「自らを問う」ことを行えば、前ほどは苦しまないでやっていけるように思われます。
この方法に慣れたのが、ここ最近ですので、完全に実証出来ているとは言い難いのですが(笑)
しかしながら、お釈迦様も確か苦行の果てに、牛乳粥を食べて体力を回復した後に、お悟りを開かれたのですから、あながち間違ってはいないように思われます。(お詳しい方がいらっしゃいましたら、否定等を含めてご教示いただければ幸いに存じます)
そこで思ったことがもう一つ。
仏教とは、倒れそうな我が身を壁によっかかるようにして「委ねる」というよりも、方法等に「染まる」というイメージに近いように思われました。
また、「染まる」ということであれば、やはり「抜け落ちて」しまうこともあり得るので、「染め続けてゆく」ことが必要なのかなあとも思っております。
2010/01/30のお話、「ずっと前から、もっと遠くから」から、ずっと、方丈様の本をむさぼるように読んで、我流ながらも何となく方丈様のおっしゃる『方法』がわかってきたように思われます。
それにしても、もしもこの度の4回のお話のネタふりとして、「ずっと前から、もっと遠くから」のお話をされたとしたら、随分と方丈様も意地悪な方だなあと思います(笑)
後輩のご住職様が、「ダースベーダーのテーマソングが流れるようだった」というご感想をいだかれたのも納得がいく思いが致します(笑)
『心の原風景』を誰もが何かしら持っているかと思われます。
『心の原風景』が現実において、壊されたり、満たされなかったりするのが常ですが、それでも『心の原風景』を求めてやみません。
『心の原風景』を別の形である程度担保するため、宗教が求められるのではないかと思っております。お話の中にもありましたように、ある種の新興宗教は『心の原風景』に適うようなシステムを提供しているように思われます。
また新興宗教でなくても、幕藩体制崩壊後に武士階級の人達が、同じような絶対者構造を持つキリスト教に帰依した例が多いというのも、やはりそのシステムが『心の原風景』に適ったからではないかと思われます。
私が宗教に救いを求めたのは、その『心の原風景』が、脈略なくほぼ同時多発的に多方面から殆ど救いようのないほど破壊されたのがきっかけでした。今から考えれば、「見えるのにはっきりと見ようとしなかった」私の愚かさしさもさることながら、まあ、運も無かったなぁとしか言いようがありません(笑)
それから、『日常』から脱線し、『日常』を根底から疑うようになりながらも、その『以前の日常』のレールに戻れるよう、今冷静になって考えれば、苦痛ばかりで実りのない酷い努力をしていました。
方丈様の『幻想を幻想と知った上で賢く使う』というお言葉、とても素晴らしいですね。何らかの原理主義でも思想でもシステムでも、頭や心にある幻想を無理やり現実に『あてはめる』のは、かえってわが身を苦しさに放り込むことにもなりかねませんから。
何らかの事に委ねることなく、また現実から安易に逃避するという意味でもなく、『心の原風景』はそのまま大切にしながら、『賢く使う』という方法を私自身の今後の課題としていきたいと思っております。
チープ‥だと感じた。 うつけは‥私かな。
どうでも良い事で、失礼致します。
「仏の顔も三度まで」という言葉もあるように、方丈様、皆様のご迷惑をおかけするのは本当に申し訳ございませんので、これで終わりにします。
何よりも方丈様のお話を勝手に誤解釈させるような、個人的な内容を書き連ね、本当に申し訳なく思っております。
私は確かに言語化する能力も、また体系化する能力も、さらには人の気持ちを大切にする能力も著しく低いということを自覚しております。
御不快になられた方々も多いかと思われます。重ねてお詫び申し上げます。
でも、何故それがわかっていながらも、書かずにはいられないか。それは、書くことによって自分の考えを整理したいこと、また自分がこうしていきたいと思った瞬間の記憶を強化したいから、ではないかと思っております。
読む方への不快感を催すことのないよう、なるべく努めてまいりましたが、多分結局のところ、普遍的に共感できるようなものではなく、単なる個人的な思いを書き連ねることとなりまして、本当にすまなくおもっております。
ここ数カ月間、大変お世話になりました。
お詫びも込めて、そろそろ私も巣立っていこうと思います。
最後の我がままですが、私の記憶の強化のために。
「老師と少年」の中の「器」、これを作っていこうと思います。
方丈様、皆様、本当にありがとうございました。
また大変申し訳ございませんでした。心から深くお詫び申し上げます。
いくら長男とは言え、実家を離れてはや30年。もちろん節目節目には帰ってはいるものの、私の故郷ではあっても、お寺さんはもれなく付いてくるという意識はない。もちろん、永平寺出身の住職さんには、いろいろとお世話にはなっているけど。
でも、実家に戻れば、母はしっかり、後継ぎなんだからと、菩提寺の行事での供物は私の名前で差し出しているようし。
そうは言われても、オレには関係ないよと故郷を捨てようにも、墓石どうやら200万円だったという話を聞けば、もったいないやら、ご先祖さんにもチョットは申し訳ないやら。
最近になって、母は、私の息子(母の孫)の名前を挙げて、「彼もちっとも帰ってこないけど、他人事だと思っているのかっちゃ」と。。。。。えー、私としては、息子には負わせたくないなあ、だって、息子にしてみりゃほぼ「そんなの関係ネエ」土地なんだから、とボヤくも、良い解決策はまだ見つからずに、悶々と先祖代々のお墓にお線香をあげていたお彼岸でした。
ことしは黄砂で白くなっていたなあ。
ホットケさま