恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

三つのわからなさ

2020年05月10日 | 日記
 私はこれまでしばしば、死と他者と自然は決してわからないと、あちこちで言ったり書いたりしてきました。これについてもっと説明しろと最近注文されたので、この際一通り書かせていただきます。

 死と他者と自然は、確かに「決してわからない」ことですが、「わからなさ」の質は違います。

 死は「絶対かつ原理的」にわかりません。わかる本人が消滅することが死である以上、わかるわけがないでしょう。
 
 死についての「わかったような話」は、すべて「生きている」人が、「生きている」間に、「生きている」経験として話しているのであり、かつ彼らが語っているのは、常に「死ぬまで」か「死んだ後」についての、妄想と区別する基準が何もない、お伽噺同然の代物です。彼らは決して「死ぬこと」それ自体について話しているのではありません。

 他人のわからなさは、死のような絶対的なわからなさではありません。それは、いわば「根源的な」わからなさです。

 他人が絶対的にわからないと決まってしまえば、それはそれなりに対処の仕方も決まるでしょう。問題なのは、他人にはわかるところもある、ということです。わかるところもあるが、わからないところもある。

 だが、わかっていたことが急にわからなくなったり、わからなかったことが突然わかったりする。もはや、わかることとわからないことの境目がわからない。他者のわからなさは、こういうわからなさであり、それが他者の他者たるゆえん、他者の他者性なのです。

 最近「コミュニケーション能力の高い人」というセリフをよく聞きますが、そう言われる人物が他者のわからなさに鈍感なら、彼の能力とは「他人を誤解して平気でいられる能力」と大差ないでしょう。

 自然のわからなさは、「無限の」わからなさです。様々な方法で自然は理解され、知識は集積され、「わかったこと」は増え続けてきたし、これからも増え続けるでしょう。しかし、すべてわかることはありません。自然の内部に生まれたものが、自然のすべてをわかることはあり得ないのです。

 自然に対するあらゆる「理解」と「予測」は、自然を一定の条件下における思考の「対象」として構成することによって、初めて可能になります。自然そのものに到達することは金輪際ありません。つまり、用いられた理解の方法によって限定された「一面」以外に、まるでわかりようがないのです。

 このような「絶対的」「根源的」、そして「無限」のわからなさを、当然ながら我々は解消することも、制御することも、支配することもできません。つまり徹頭徹尾、「思いどおりにならない」のです。ならば、そのわからなさに対してとるべき態度は「敬意」です。それが「わからない何か」を受容して生きる、おそらく唯一の作法なのです。

 わからないものをわかると錯覚して、あくまで支配し制御しようとするべきではありません。その錯覚は必ずや我々を自滅させるでしょう。なぜなら、死は生よりも、他者は自己よりも、自然は人間よりも、存在の強度がはるかに高いからです。


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