何か「ある」なら、それがあることは証明できるでしょうが、そもそも「無い」ことは証明のしようがありません。アリバイ(不在証明)が、同時刻に別の場所に「いた」ことの証明で成り立つ所以です。
では、「無い」ことの主張は、論理としていかにして行えばよいのでしょうか。
一つは、「ある」ことの証明が原理的に不可能であることを示す。もう一つは、「ある」と主張すると論理的な矛盾が生ずることを指摘する。
しかしがら、これら二つは、実際には「あるとは言えない」ことを主張できても、「無い」ことの論証にはなりません。ということは、「無い」ことの主張は、事実上、「ある」とは言えないが、「無い」とも言えない、という言い方によってなされるほかありません。これが、釈尊の教える「無記」のアイデアです。つまり、有無の判断をもろともに無効化するわけです。。
したがって、ナーガールジュナが「空」の主張を『中論』で行うとき、帰謬法を使うのも当然です。釈尊は世界の起源や死後の存在など、形而上学的な問題への対応として「無記」を提示しましたが、ナーガールジュナは、これを我々の認識一般に拡張したのです。
なぜそれが可能なのでしょうか。それは、人間の認識が言語によって行われるほかなく、言語はそれ自体が形而上学的に作用するからです。以前にも述べた如く、言語は「事実」そのものを表すものではありません(「火」という言葉は燃えない)。
たとえ、「私の目の前の、このコップ」と言っても、言葉は、たった一つの具体物であるコップそのものを、決して言い表すことはできません(言葉が言い表すのは、そのものとの関係の仕方=意味です)。「私」「この」「コップ」という言葉は、別の時間に・別の場所で・別のコップにも使える以上、いかなる特定の個物も意味しないからです。すなわち、言語の「意味」は常に、超時間的、超空間的、超経験的な、要するに形而上学的な存在なのです。
私が『中論』に注目し続けてきたのは、釈尊以来の「無常」「無我」「縁起」「空」の主張が、「なにもかも変わりゆく」とか、「あらゆるものがあらゆるものと繋がりあっている」、「大いなる生命と一体になる」などという、センチメンタルな「感想」とはまったく無縁な、「無記」のアイデアから展開された言語批判という、鋭利な論理によってなされているからです。
と同時に、いささか胸の痛みを覚えるのは、言語批判を言語で行うほかはないという切なさが、すでにこの書物においてこれ以上ないほどリアルに表現されているからです。
今日にいたるまで、釈尊の言葉は、私にとっての救いでした。『正法眼蔵』は課題でした。そして、『中論』は、最大の味方だったのです。
では、「無い」ことの主張は、論理としていかにして行えばよいのでしょうか。
一つは、「ある」ことの証明が原理的に不可能であることを示す。もう一つは、「ある」と主張すると論理的な矛盾が生ずることを指摘する。
しかしがら、これら二つは、実際には「あるとは言えない」ことを主張できても、「無い」ことの論証にはなりません。ということは、「無い」ことの主張は、事実上、「ある」とは言えないが、「無い」とも言えない、という言い方によってなされるほかありません。これが、釈尊の教える「無記」のアイデアです。つまり、有無の判断をもろともに無効化するわけです。。
したがって、ナーガールジュナが「空」の主張を『中論』で行うとき、帰謬法を使うのも当然です。釈尊は世界の起源や死後の存在など、形而上学的な問題への対応として「無記」を提示しましたが、ナーガールジュナは、これを我々の認識一般に拡張したのです。
なぜそれが可能なのでしょうか。それは、人間の認識が言語によって行われるほかなく、言語はそれ自体が形而上学的に作用するからです。以前にも述べた如く、言語は「事実」そのものを表すものではありません(「火」という言葉は燃えない)。
たとえ、「私の目の前の、このコップ」と言っても、言葉は、たった一つの具体物であるコップそのものを、決して言い表すことはできません(言葉が言い表すのは、そのものとの関係の仕方=意味です)。「私」「この」「コップ」という言葉は、別の時間に・別の場所で・別のコップにも使える以上、いかなる特定の個物も意味しないからです。すなわち、言語の「意味」は常に、超時間的、超空間的、超経験的な、要するに形而上学的な存在なのです。
私が『中論』に注目し続けてきたのは、釈尊以来の「無常」「無我」「縁起」「空」の主張が、「なにもかも変わりゆく」とか、「あらゆるものがあらゆるものと繋がりあっている」、「大いなる生命と一体になる」などという、センチメンタルな「感想」とはまったく無縁な、「無記」のアイデアから展開された言語批判という、鋭利な論理によってなされているからです。
と同時に、いささか胸の痛みを覚えるのは、言語批判を言語で行うほかはないという切なさが、すでにこの書物においてこれ以上ないほどリアルに表現されているからです。
今日にいたるまで、釈尊の言葉は、私にとっての救いでした。『正法眼蔵』は課題でした。そして、『中論』は、最大の味方だったのです。
先生、なんだか吐きそうです…。
コメントを書いてふと思ったのですが、子供の頃の話でしょうね、妖怪や幽霊、お化け、宇宙人などが本当にいるのか気になりました、そこに現れたのが「科学特捜隊とウルトラマン」「変身するヒーロー達」だったと思います。
「仏教」(私が保育園の頃はお寺が保育園でした)では、仏様の前に「地獄、苦しみ」の話を聞かされて恐ろしくなり。
「キリスト教」(クリスマスなどで?)では父なる神の前に「罪、悪魔」の話を聞かされて恐くなり。
「神道」(子供の頃は神社で神道と言うイメージは無かった)では「穢れ、鬼(陰陽道なんて知らなかったので節分の鬼でしょうか)の話で恐くなり。
元々から「臆病」だった様です。
大人になって方は「無神論」に傾いていたのでしょうがそれはそれで「悲観論やニヒリズム」みたいなものからは抜けられずに「心配性」は続いていた様です。
そんな私も遅ればせ乍ら縁が有って結婚、子供を育てているうちに「子供の聞いて来る何故?」になかなか答えられない。
小さい頃の疑問をこの年でもう一度学び直しているみたいな感じがします、知らなかった事だらけですね。
有り難うございます。
食物連鎖をどの位置で見るかで見え方が変わって来ますよね、自分の目の前だけで見ると「弱肉強食」の様に強いものが弱いものを食べてる様に見えますが、やがて強かった者も年老いて食べられてしまいます、一見食べられなかった様に見えても腐敗して(微生物に食べられて)土に養分として帰って行き植物などの肥料として連鎖して行きます、大局的に見れば「絶対的な強者は存在しない、食物連鎖(自然界)には頂点(最終捕食者)は存在しない」養分と言うか水に溶ける位に小さな素材がじゅんぐりに形を変えて現れている。
動力源は「熱」でしょうか、太陽で暖められて水で冷やされて作動しているみたいです、昔、エントロピーの第二法則が話題になって「宇宙はいずれ熱的平衡を迎えて停止する」「太陽もいずれは燃え尽きる」こんな話が有って「ニヒリズム」や「悲観主義」が流行した時代が有った様にも思います、でも冷静に考えれば数十億年とかそれ以上の時間の話ですよね、「拡散」が無かったら変化も無くなる、人間て不思議です、集団に広がったりします、人類が破滅に向かっている、そんな風に思われるのも似た様な現象なのでしょうか。
「不生不滅、不垢不浄、不増不減」
なら何も心配する必要も無い?。
お寺では今でも「地獄」を説いているのでしょうか、機会が有ったら聞いてみようと思います。
<歴史上の釈尊の仏教>が、
<言語批判であった>からと受け止めています。
人間は
「言語」「分別概念」でしか世界を認識・把握できないように
<生まれてから>そこに投げ込まれている。
この中で、他者をコピーして、
自己を築き上げていき、
<想定した他者>との<現実でのずれ>に気付いて、ずれを用いて、
<自己の世界を、自己自身を>修正していく。
常に<この事実を意識しながら>生き続ける。
これが<仏の生き方><仏道>である。
人生最終の涅槃に至るまで。
そして、<この事実を、言語表現>する。
神秀の
「身は是れ菩提樹、
心は是れ明鏡台の如し、
時時に勤めて払拭せよ、
塵埃を惹かしむること勿れ」
これを否定する神会の「知」の一字。
それを否定する馬祖の「即心是仏」
それを自分で否定する「非心非仏」
さらにそれを否定する薬山の流れ。
少なくとも禅宗は、
言語を最大の問題にして、
しかも、最後まで、言語を捨てない!
歴史上の釈尊の仏教の中心と考えます。
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」
きっと「ある」側から見ているからかな、と思います。
私はこういうふうに(どういうふうに?)いるので、いないものは分かれなくて、いるものしか拾えない、のかな。
夏なんかいろいろ外で遊んだりして日焼けすると皮がむけたりしますでしょ?さっきまで私だったものが、むけたとたんに別物になった気がします。
ダニはフケが好物なんだそうで、あるときまで私だったものがあるときからダニになるんですね。
私も、さっきまで米だったりネギだったり鰺だったりだったりしたものでできていたりします。
食人種は相手を食べることで相手の魂も取り込むらしいです。
昔日本人にとってけものを食べることが一般的でなかった頃は、けものを食べるとけものになると思っていたとか。じゃあ魚を食べると魚になるとは思わなかったのか、野菜を食べると海藻を食べると…と謎は尽きないのですが、それにしても私はどこにいるのだろうと、ちらりと思ったりはするのです。
<逆に、社会を捨てて、出る>ことを勧めた。「出家」
中国の<唐代の>禅宗も同じであり、
厳しい修行で悟った<大勢の>僧たちが、
ひとりで<山奥に籠り>一生出て来なかった。
本当に<少数の>僧だけが<例外的に>市井に出て行った。
その代表的なのは
馬祖道一禅師。嗣法の弟子は88人を数えた。
要は、ひとり山奥に籠って一生を終える。
これに、どのような意味があるのか?
道元和尚が、越前の<山奥の>永平寺に籠る。
これは、社会の変革・改革とは、反対の方向である。
王(つまり、政治家)には、近づかない!
「社会」を捨てて、サンガを築いた。
このサンガの中では<社会ではないので>
<社会であるカースト>はなかった。
○ ○ ○
『インドに仏教を復活させたアンベードカル博士』
これは、<歴史上の釈尊>とは、<別の>偉業です。
ブッダは『発見者』です。人間と社会の現実を見つめて、真実を発見した。ブッダの教えは彼の発明ではなく、いわんや創作物でもなく、ましてや突然の御告げなどではありません。
人間ブッダは、社会改革者であり、因習への挑戦者であった。
自ら「聖なる人(アーリア)」と称する乱暴な征服者は、先住民の文化を蹂躙し、自分達との混血度合いによってカースト制を作った。また、中でも激しく抵抗した先住民は階級制の更に下に置かれ、魔族あるいは龍(ナーガ)と呼ばれた。即ち、我ら“不可触民”こそは、誇り高き龍の末裔なのだ。
私達は蹂躙され、組み伏せられた。社会の最底辺に追われ、触れてはならぬ存在と呼ばれた。しかも支配者らはそれを「神の掟」と云い、生きる場所を与えてやっているのだ、と称した。この馬鹿げた嘘が、言い方(例えば神)を変えるだけでどんな時代でも通用してしまうことこそ、悪魔的である。
この年になって「無記」について学ぶ機会ができました、ようやく仏教の入り口に出会えた感じがします。
「知らない」事と「無い」事の違いが十分に考察されていない事も「心配事」の原因の様です。
イメージを言葉で伝えるには、相手に共通した経験の様なものが無いと難しい、経験の共有の方法の一つとして「修行」が有るのでしょうね。
有り難うございます。
自分自身の問いなどを、その時々において引き出してくれる書物は、とても価値が高いものだと私は思っております。
追伸:
「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」は、啐啄同時なども含む状態を表しているのかなとも思いました。
ありがとうございます。
ただ、そんな私が言うのもなんですが、帰謬法のくだりはやや横着に思えます。
帰謬法により、「ある」と主張すると論理的な矛盾が生ずることを示すことができるなら、それはまさしく「無い」ことの証明になります。少なくとも論理的・数学的に言えば。ですから、それだけなら「無い」ことの論証になるはずです。
もう一つ付け足して、「無い」と主張しても論理的な矛盾が生ずると示せば、どちらの主張も矛盾するというのはおかしいですがから、固定的な言語で仕切られた前提条件がおかしい、という結論になるのではないでしょうか。私はまだとても中論を理解したと言える身ではないですが、この方が議論の筋が良いように思われます。
そもそも、小さい頃に「死んだら地獄に堕ちる」そんな話と「地獄絵」みたいなものを見せられたのでトラウマになってる?、嘘をついたら閻魔大王に舌を抜かれる、などなど、そこから仏教や寺や墓地は恐いのイメージになってしまった。
未だにそんなイメージを引きずってる、先に「仏教のいい処」を教えてもらっていたらもう少し違っていたでしょうか、漢字も苦手で難しいイメージが未だに克服できません。
不安の原因は「正しい知識が無いから」かかも知れませんね、良いきっかけを有り難うございます。
心配性
「究極の問い」として古くから有る問いですね。
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」
古代には「絶対無」の概念が無かったが、時代の有る時機に誰かが発明して人類に広がった「ゼロ、無」の概念、この頃から人は恐怖を感じる様になったのではないでしょうか、死んだら自分が無くなると思ってしまう。
根性のない私は、なかなか「無」に至らないのでこの頃半ばあきらめています、このまま普通の人生です、これも経験のうちじゃないかと。
「悟り」に至る事ができないとどうなるのだろう、こんな心配が残りますが。
「無」になったら心配、「無」になれなくても心配、今日もまた臆病風に吹かれています。
もしかしたら「絶対無」何て元々無かった、誰かの勘違いでした、ハッハッハなんて事にならないかと、ちょっとだけ期待しています。
ふと思いついただけで、何の関係もないと思いますが、確か開高健という人の書いたものだったと思います。
いわゆる未開の地に行ってそこの人達と混じっていると「言葉がゴロタ石ほどの大きさになる」「しかしその大きさの言葉でなければ撃ち落とせないものがある」というような。
これが、「釈尊の仏法」として「救い」となる!
この不可思議さが理解できるだろうか?
「日本教」にある日本人には、到底、理解できない!
「キリスト教」信者にも、理解できないだろう!
それは、「言語の壁」そのものが、見えていないから!
「自己」は「言語が生み出す虚妄」である。
その「自己」を、
「仏性」「ダルマ・法」「真如」「大我」・・・
「絶対神」「ブラフマン」「超越者」・・・
・・・という「言語が生み出す虚妄」を根拠にして・用いて・依存して・信じて、
救い出そうとする。
すべては、言葉の中の出来事!
金魚鉢の中の嵐!
血で血を洗い落とす作業である。
言葉で、もがいている事に、目覚めて、初めて、
「言葉の世界にいたまま」、寂静に至る。
人間は「言葉の世界の中でしか」生きる事はできない。
そして、自分にとっては、南方丈様は「扉」でした。
ありがとうございます。