恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ミナミジ(キ)サイチョウ

2021年07月01日 | 日記
 ひと月ほど前、聞こえてくる話はウイルス禍とオリンピツクの是非一色という、怒りと憂鬱がないまぜになったような、今に至る重苦しい気分の日々の中、「それにもかかわらず」というよりも、「そうだからこそ」と言うべきか、突如として動物ネタが3つ、連日ニュースやワイドショーで取り上げられました。ニシキヘビの脱走、外国での象の集団移動、そして「巨大怪鳥」(ワイドショーのタイトルです)の捕り物です。

 立て続けに起こったこれらの事件は、何か異様な陽気さと盛り上がりで、全国規模の話題になりました(象はその後どうなったのか?)。このうち、ヘビと象については、人的被害が懸念される面があり、無邪気に面白がれるものではありませんでしたが、ペットショップから逃げ出した「怪鳥」は、大きいとはいえ、人にも家畜にも農作物にも、特に害を与えそうもなく、その上「怪鳥」の名にふさわしいエキセントリックな容姿で、心置きなく楽しめる「騒動」でした。

 私もテレビで初めて見たとき、また変わった鳥が逃げたんだなと、そのインパクト十分な面相に興味をそそられましたが、画面にその鳥の名称が出たときにはビックリしました。「ミナミジキサイチョウ」に見えたのです。慌ててネットで調べると「ミナミジサイチョウ」だとわかりましたが、本当に驚きました。

 そうしたら、鳥の捕獲ニュースが流れた後、知人から「南直哉長老が捕まったと、ネットに出ているぞ」と知らせてきました。同じことを考える者がいるんだなと苦笑しましたが、そうなるともう、なんだか怪鳥が「他人」に思えません。

 どう見てもわが国では「規格外」としか思われない姿形の鳥が、囚われの身から自由になり、しばしの自由を味わった後、ついに捕獲される。この成り行きを見ていると、「いつでもどこでもアウトサイダー」みたいな意識で生きて来て自分としては、あえなく御用となった鳥の身の上に、一抹の同情を禁じ得ません。まあ、いくら逃げ回ったとしても、あの容姿ではいずれ捕まるか駆除されたのは必定だったでしょうが。

 鳥でさえこの始末ですから、人間の場合ならなおさら、完全な自由のままではいられないものです。「この支配からの卒業」と歌った歌手がいましたが、「この支配から卒業」すれば「別の支配に入学」するのが人間の常でしょう。

 人間は社会的実存です。一定の秩序、すなわち習慣や制度の下で生きていくしかありません。それには確かに支配と束縛の一面がありますが、日常生活を維持する基本的なインフラでもあります。

 毎日の衣食住の調達や維持を支える秩序が安定していればこそ、我々は「自由」に振る舞えるわけです。一切合切を任され「何もかも自由」にしろと言われたら、たちまち「不自由」になるでしょう。

 結局、自由と秩序は矛盾に満ちた共存関係に留まるほかありません。このとき、我々が秩序の中で自由を維持するために絶対に必要なのは、秩序を変更する手続きや方法を手元に確保していることと、暴力や実力行使ではなく、それが言論で行われる限り、自分の考えや主張を否定する発言や活動を行う権利に、最大限の尊重を与えること、この二つです。

 この支配から別の支配に服さざるを得ないとしても、この二つが手元にある限り、「自由」は消滅しません。ちなみに、いま曲がりなりにもこの二つを保証する政治・社会制度は民主主義しかありません(民主主義を否定する主張を当然として認めることが、民主主義の本質であり、他に類を見ない決定的な政治思想的強さと長所)。私が民主主義を支持し続ける所以です。






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