「死と神は似ている」
「何のことだ?」
「どちらとも、それ自体が何なのか絶対にわからない。いかなる経験とも結びつかないという意味で、純粋観念だ」
「死は経験できないと、よく君は言うよな。神は?」
「神が永遠で普遍的で絶対的なものだと言うなら、それ自体は、永遠でなく普遍的でなく相対的な存在である我々の経験対象にならない。なるんだったら、絶対ではない。だから、わからない」
「それで?もう少し説明しないと」
「では、まず死について。自己は他者をコピーして構成されるから、死も他者からコピーされる」
「どういうことだ?」
「他者の身体の消滅を見て、それが『自分にも起こる』と確信することから、『死』の観念が発生する。この確信が可能なのは、最初から自己が他者のコピーで始まっているからだ」
「しかし、それが何であるかはわからない、というわけだな」
「そう。すると、自己の存在を決定的に変えてしまう、わけのわからない何事かがいつか起こると確信するなら、その時点で自己存在の根拠は失われるだろう。勝負の決まらないゲームはゲームではなく、ゴールが不明なのにレースをする意味はない」
「そういえば、逆に存在の始まりのほう、『自分がなぜ生まれてきたか』という問題にも絶対に答えは無いな」
「そう。我々が理由めいた話を聞かされるのは大概生まれてきた後だから、それが嘘か本当か判定する基準がない。嘘か本当かわからないことは、『根拠』とは言わない」
「そうか。自己の最初と最後が意味不明では、『存在理由』はハナから破綻していると言う他ないな」
「死についての言い分は、まあいい。神の話はどうなんだ?」
「けだし、神は死の影だ。自己存在の根拠を補填するアイデア、つまり、死があっての神なんだ」
「大胆な言い方だなあ」
「旧約聖書に、十戒で有名なモーセに神が自ら名乗る場面が出て来る。
『私はある。私はあるという者だ』
この言い方は、『死』の意味する自己の存在根拠の欠落を解消する。まさにあらゆるものが『ある』ことの最終保証だ。神自らが『ある』ことは、他によって創造されたものではなく、すなわち理由なく無根拠に、それ自体で『ある』。この『ある』こそ、神が創造したすべての『ある』ものの、根源的な『ある』なのだ。
別の訳だとこう言う。
『私はなる。私がなるものに』
この言い方は自分の存在は自己決定によるということだろう。それは同時に、他の何ものにも依存しない、自己責任を貫徹する存在の主張になる」
「なるほど。この神にコミットできれば、自己に『ある』根拠を引き込めるわけだ」
「面白いアイデアだと思わないか?」
「バチ当たりめ!」
「え、誰が当てるの? 神?死?」
「何のことだ?」
「どちらとも、それ自体が何なのか絶対にわからない。いかなる経験とも結びつかないという意味で、純粋観念だ」
「死は経験できないと、よく君は言うよな。神は?」
「神が永遠で普遍的で絶対的なものだと言うなら、それ自体は、永遠でなく普遍的でなく相対的な存在である我々の経験対象にならない。なるんだったら、絶対ではない。だから、わからない」
「それで?もう少し説明しないと」
「では、まず死について。自己は他者をコピーして構成されるから、死も他者からコピーされる」
「どういうことだ?」
「他者の身体の消滅を見て、それが『自分にも起こる』と確信することから、『死』の観念が発生する。この確信が可能なのは、最初から自己が他者のコピーで始まっているからだ」
「しかし、それが何であるかはわからない、というわけだな」
「そう。すると、自己の存在を決定的に変えてしまう、わけのわからない何事かがいつか起こると確信するなら、その時点で自己存在の根拠は失われるだろう。勝負の決まらないゲームはゲームではなく、ゴールが不明なのにレースをする意味はない」
「そういえば、逆に存在の始まりのほう、『自分がなぜ生まれてきたか』という問題にも絶対に答えは無いな」
「そう。我々が理由めいた話を聞かされるのは大概生まれてきた後だから、それが嘘か本当か判定する基準がない。嘘か本当かわからないことは、『根拠』とは言わない」
「そうか。自己の最初と最後が意味不明では、『存在理由』はハナから破綻していると言う他ないな」
「死についての言い分は、まあいい。神の話はどうなんだ?」
「けだし、神は死の影だ。自己存在の根拠を補填するアイデア、つまり、死があっての神なんだ」
「大胆な言い方だなあ」
「旧約聖書に、十戒で有名なモーセに神が自ら名乗る場面が出て来る。
『私はある。私はあるという者だ』
この言い方は、『死』の意味する自己の存在根拠の欠落を解消する。まさにあらゆるものが『ある』ことの最終保証だ。神自らが『ある』ことは、他によって創造されたものではなく、すなわち理由なく無根拠に、それ自体で『ある』。この『ある』こそ、神が創造したすべての『ある』ものの、根源的な『ある』なのだ。
別の訳だとこう言う。
『私はなる。私がなるものに』
この言い方は自分の存在は自己決定によるということだろう。それは同時に、他の何ものにも依存しない、自己責任を貫徹する存在の主張になる」
「なるほど。この神にコミットできれば、自己に『ある』根拠を引き込めるわけだ」
「面白いアイデアだと思わないか?」
「バチ当たりめ!」
「え、誰が当てるの? 神?死?」
すなわち情け溢れる有情なのだ。』
澤木興道老師は、いつも言っていました。
「坐禅は、なんの役にもならない」
求める心こそが問題なのです。
「日本教」に行けば良いのです。
「自分は「悪人だ」と深く自覚している人」のことです。
「自分は善人だと慢心している人」でさえ、
極楽浄土に往生できるのだから、
ましてや、
「悪人と深く心から自覚している人」は「まさに・正に」往生できる「人・機」である。
「悪人正機」
つまり、親鸞聖人においては、
逆説ではなく、まっとうな、筋の通った論理です。
それは「死」が「非情」だからです。
「死」の苦しみからの解放が「仏教」です。
だから、死体の隣で、一人坐禅の修行をするのです。
死体が腐敗して膨張し、流れ出し、
風雨にさらされて、白骨に変り果てるまで、凝視する訳です。
「諸行無常」は「非情」なのです。
道元和尚も
『われもし恩愛を「なげすてず」ば、恩愛かえりて「われをなげすつべき」云為(うんい)あるなり。
恩愛をあはれむべくは、恩愛をあはれむべし。
恩愛をあはれむといふは恩愛を「なげする」なり。』
中国に留学する時、師の明全和尚が
「恩愛を投げ捨てたこと」に満腔の賛意を示しています。
なお、明全和尚は、中国で志を遂げずに病死し、
道元和尚が「遺骨を」持ち帰って来ました。
「仏教」は「非情」なのです。
それは「死」が「非情」だから。
修行で破れる・・・位な事を言ってこそ仏教じゃあ無いんかな??
此の世での出来ごとだぜ。
此の世で仏に成れる見込みも無く
此の世では起こりえない善因善果・悪因悪果・自業自得を言いつらうなら、
悪人正機なんぞただのざれごと、
与太話でござりまするな!
イ君の仏教観はおかしくないかね?
君は輪廻論者か?
>「本人は気付いないが自業自得である」って・・・
気付かないままこの世を終えたら
死後輪廻で餓鬼に成るってか?
地獄へ行くってか?
仏教が非情だったら
仏教自身が困るだろ。
救いのない宗教なんて成り立たない。
仏教には情けが在るのか情けはないのか
ワケわからんな。
仏教は非情であり無情であるのか?
非情であるからね。
永平寺からの下山となった。
非情である!
非情であってもしかたがない!
此の世は非情で出来ている!
非情こそ諸行無常で諸法無我!
君の人生も決まるのだ!!
非情である!!
陳腐な死語と
われ言われたとしても
云わねば君には分かるまい
ああ、われ哀しわがつとめ!!
「猫に小判」と「猫に鰹節」と、二つある。
どちらにするか、どちらになってしまうか、
これは、本人の歩んできた人生によって決まる。非情である。
以下も、一つの反応である。
仏教は「自業自得」である。本人は気が付いていないが…
『「分かんない」ってわかってるなら
詰まらんこと考えてないで
働 け よ。
こういう態度は坊主がとるべき態度ではないと思います。還暦過ぎてこれは人間としても情けないですね。世の中の坊主の評判を下げないでほしいですねえ。』
行深「般若波羅蜜多」時 ぎょうじんはんにゃはらみったじ
照見「五蘊」皆空 しょうけん「ごうん」かいくう
「五蘊」とは、
「色⇒ 受⇒ 想⇒ 行⇒ 識」
『意識を「脳の物理的機構に還元する」
こともある意味正しいとは言えないでしょう。』
「仏教」とは「縁起の発見」であり、
「色⇒ 受⇒ 想⇒ 行⇒ 識」の教えである。
「釈尊の仏教」では、この「粗さ」で十分である!
「精緻な脳科学」は不要である。
ここで「理解すべきこと」は、
「我」「アートマン」「自己」という「もの」などは、存在しないという事である。
「膨大な数のニューロンの「壮大な連鎖反応」」が存在するだけである。
単純な生物から進化して来て、「今の自己」が形成されているのだから、
「当然の形態」である。
「生物進化」は「諸行無常」であり、
「脳細胞の連鎖反応」は「諸法無「我」」である。
意思決定の「主人公」など存在しない。
「仏教」とは「縁起の発見」であり、
「色⇒ 受⇒ 想⇒ 行⇒ 識」の教えである。
別名、陳腐!!
論ずるに値しない、とも言う。
その他、踊らず、
まったく踊らず、まったく無反応、まったく無共感。
これ即ち「死に言葉」の浪費と言うなり!
ああ、そうですか(無反応!)
I:
どうだこれだけ口を酸っぱくして言ってるんだぜ・・・
なぜ面白いアイデアだと思わないんだ?
その他:
だってちっとも面白くないんだもの!
いつもいつも繰り返しばっかりで・・・
I:
バチ当たりな奴らめ。
その他:
え、だれがバチを当てるの?
仏教様?、唯物様?、I様?
それが人の精神性を「向上させてる」という自負が根底にある。
本質が哲学者で職業が僧侶なら
自分では「考えても仕方が無い事」を考えるのが趣味で在り、かつ、止められないから、(それに対して)他人から文句を言われる筋合いが無いが、
僧侶であるから
他人には善人になって極楽浄土に行けと説く・・・それが住職の職務であるから。
両者に矛盾はない。
詰まらんこと考えてないで
働 け よ。
こういう態度は坊主がとるべき態度ではないと思います。還暦過ぎてこれは人間としても情けないですね。世の中の坊主の評判を下げないでほしいですねえ。
坊主なら「考えても仕方ないことは考えない」と説いてほしい。
そういう形而上的な問題意識は仏教には不要なはずだが在家出身の坊主は本当に独善的で度し難いですね。情けなくて情けなくて。
ありがとうございました
色蘊 - 認識の対象となる物質的存在の総称。
受蘊 - 感受作用。肉体的、生理的な感覚。
根(六根)と境(六境)と識(六識)の接触和合から生じる苦・楽・不苦不楽などの印象、感覚。
想蘊 - 表象作用。
概念的な事柄の認識。事物の形象を心の中に思い浮かべること。
行蘊 - 意識を生じる意志作用。意志形成力。心がある方向に働くこと。
識蘊(しきうん、巴: viññāṇa, 梵: vijñāna)
- 認識作用。対象を得て、区別して知るもの。
これは「禅定」における「自分の心理作用」を詳細に「観察して分析して」、纏め上げたものです。
「仏教」は「身心一如」です。
だから「唯物論」とは矛盾しません。
現在の生命科学者は、全ての人が、唯物論の人です。
「物質の探求」で、「生命の仕組み」を解明しようとしています。
唯物論は、決して「機械論」ではありません。
「頭脳」「こころ」というのは、「膨大な個数のモジュール」の「ネットワーク・階層構造」でできている。
そこに外部から情報を入力し、「頭脳内を伝播し、情報処理して、判断して、取るべき行動を決定して」、体の筋肉に指令として情報を出力する。
このサイクルの繰り返しなのです。
頭脳の内部では、脳細胞ニューロンの活性・非活性のやり取りで、多数決で決定するのです。
これは、「非常に膨大な連鎖反応」であり、「主催者」「指導者」「意思決定者」などは存在しない。
また、「並列処理」「直列処理」「フィードバック処理」「フォワード処理」複雑に情報処理している。
「その最終結果の結論」だけを、時系列で「モニター画面」表示しているのが、
「意識」である。
だから、無意識の世界で「意思決定して」から、「モニター画面」である「意思」に表示され、それをあたかも「意思が決定した」として認識している。
これは、実験で証明検証されている。
「指を動かすと決断した瞬間」に、
既に、その前に、運動野から指の筋肉に、「指を動かすように電気信号が出されている。
ニューロンの電気信号が遅いので「実際に指が動く瞬間」は、「意識」より後になっている。
つまり「意識が指を動かすと決心」した後に「実際に指が動く」となり、整合性がつくのである。
要は「無意識の情報処理」の方が「主人公」であり「意識」は「それの傀儡・操り人形」なのです。
「膨大な無意識の情報処理」の結果を「意識」の「時系列の流れ」で、近似値の形に纏めるのは、「過去として記憶する」必要から起こったと考える。
ここで「自分」が形成されていく。
「過去の記憶」が「自分」なのです。
自分の消滅「死」への恐怖、「死苦」もここに原因がある。
釈尊は、「浅い禅定」と「深い禅定」との間を何度も往復しながら、大脳皮質の「進化の進んだモジュール」の働きを非活性化・停止させ、呼吸や血流や「原始的な最低限のモジュール」の働きにまで低下させて、
「自己」を消し去る経験をする。
すると「雀がチュンチュン鳴く」「カラスがカアカア鳴く」の世界が、
ただ「チュンチュンの音波」「カアカアの音波」の世界に、変質する。
ベトナム僧のナット師の「気づきの禅」「マインド・フルネス瞑想」となる。
釈尊の「正念」であり、
臨済宗の「正念持続」の修行である。
さらに、再び、
「自己」が不活性、機能停止、消滅した状態から、
徐々に「自己形成機能モジュール」が「自己」を形成し認識する世界へと、戻って来る。
「諸法無我」
は、この体験での発見である。
なお、以上は、みな「他人の思想」である。
ただ、私が共感して、選び取っただけである。
オリジナリティはない。
脳科学や生化学ですべて説明しつくされるならば仏教など不要でしょう
イエスちゃんの思考はただの唯物論です。
仏教じゃない。
イエス君の、この説明方式を
哲学者のデイヴィッド・チャーマーズの提唱した「意識のハード プロブレム」に対比される、
安易な「意識のイージー プロブレム」って言うんじゃありませんか。
「要は生物進化の大枠の田舎」の出来事・・・
「言葉の定義」ですね。
貴方は「言葉」に騙されているだけです。
「人類が滅亡したら、「地球」が存在しなくなる」と主張する。
そして…
「自分が死んだら、「宇宙」が存在しなくなる」と主張する。
「仏教」とは無縁な無駄話ですね。
「諸行無常」
は、「それっきり」です。
これが「安心・アンジン」の「基盤そのもの」なのです。
「常がない」のに「常」を求めるのが、「衆生の無明」なのです。
「言葉の私」が原因です。
「その他の生き方の全般」に、そのまま適用した、
だけです。
だから「釈尊」は「全知全能の神」ではありません。
それ以外は、コツコツ、勉強するしかない。
「超能力」は何もなし。
中国の、或る居士は、それを次のように言う。神通力とは…
「神通ならびに妙用とは、
水を運び、また柴を搬(はこ)ぶ」
「日用の事は別無し
ただ吾れ自ら偶諧(ぐうかい)するのみ
頭頭(ずず)、取捨に非ず
処処、張乖(ちょうかい。相反すること)するなし
朱紫(しゅし。朱とか紫とか)、誰か号を為す
丘山、点埃(てんあい。塵)を絶す
神通ならびに妙用
水を運びまた柴を搬(はこ)ぶ」
ほう居士(ほうこじ。?~八〇八年。ほう:广の中に龍)
「頭脳が破損して、機能停止している」
脳出血で、頭脳が部分的に破損しているのと同じです。
交通事故でも、頭脳が、部分的に破損されます。
戦争でも、頭脳が、部分的に破損されます。
・・・
「自己意識機能」が「破損され」で、回復が不可能と診断されている状態です。
人工的に、心臓や肺蔵を稼働させて、体を生き続け「させて」いる状態です。
『主観的な意識体験(クオリア)とは何なのか?
とかでは茂木氏の出番でしょうか?』
問題がないところに「問題を捏造している」だけです。
こちらの脳と、あちらの脳と、配線で繋げば、「赤色」の情報は「赤色」のまま伝わるのです。
「頭脳の活動」そのものを機械的に検知して、「運動野」「筋肉を使わず」に、林檎を持ち上げる。
義手の開発をしています。
「言葉を使わず」に「他者」に伝わるのです。
所詮「ニューロン細胞の状態」なのです。
つまりこれも「別の情報」なのです。
頭脳内部が、電気信号の、情報の、やり取りそのものなのですよ。
「大脳皮質」は、「モジュール構造」であり、
モジュールそっくりが、進化で増幅し、
「余分な、余計な、増幅側」が「新しい機能」を受け持っていく。
元の方は、生体の維持のために、そのまま機能していく。
これらは、全て、「他人の思想」です。
長くなるので、一旦、ここまで。
継ぎはぎ言葉では無くて論理的な説明を
よく遺伝子だけが永遠に生きると誤解されているが、
「その遺伝子を読み取り」発火させる「細胞」の方も「永遠に」生きるのである。
それが「卵細胞」である。
これに対しても「変化の累積」が残り、次の世代に伝わる。
そして破綻する。つまり、生体サイクルを維持できなくなる。
癌細胞が、まさにその例の一つです。
癌細胞は「自分」なのです。
「体細胞」を「何度か」コピーし続け、その間の遺伝子に傷が付き、増幅し、破綻が生じる。
そこで、生体サイクルが維持できなくなり、崩壊する。
「体細胞」の「破綻」が「個体」の「死」です。
「生殖細胞」が、「まっさらな遺伝子」によって「再起動」するのです。
だから「生殖細胞」の方は「永遠に」生き続けるのです。
…「祖父」「父」「自分」「子」「孫」「曾孫」…で生き続ける。
「有性生物」に進化した「人類」はこれに乗っているのです。
「有性生物」だから「死」があるのです。
「単細胞」の「アメーバ」には「死」がありません。
「永遠に」「細胞分裂」があるのです。
つまり「原初の細胞」が「死なないで」「連続して」生き続けているのです。
「死」とは、この事なのです。
「諸行無常」「諸法無我」なのですよ。
主観的な意識体験(クオリア)とは何なのか?とかでは茂木氏の出番でしょうか?
その前に、
この世の生物界に「意識」がどの様に発生したかを知っていそうなイエス君のご説明が待たれます。
偶然、ユーチューブで関連トピックが出てたけど、曰く、
「人間の本質は『意識』という強力な神のエネルギー」だと・・・
道元固有の経歴君の議論・・・
おおいにPositively entertaining して呉れてありがとう。
ここで明らかにされた疑問点は、
物質の化学反応として自動増殖し始めた生命体がどの様にして、意識を持ち、自分自身を観察できる能力を持つようになるかの疑問が残る・・・
という事なんでしょうかね。
つまりどんな化学変化を辿れば、自分が自分の観察者と成れるのか・・・みたいな。
「だってそうじゃないか。
現法涅槃なんていう完全・完璧な寂静状態に到達したなんていえば、
エベレスト山の山頂に到達したって事で、
もう終着点に来たって言う意味じゃあないか・・・
じゃあそこで、もはや諸行無常でなくなるじゃないか。
だから僕は、現法涅槃なんて昔の人の妄想に過ぎないって考えるんだね。」
「面白いアイデアと思わないか?」
「バチ当たりめ!」
「え、誰がバチを当てるの?、釈迦?、曹洞宗貫主?」
「まあ、なあ~、無余涅槃だけに留めて置けば、死後の後など誰にも分からないんだから、涅槃寂静だろうと、涅槃撹乱だろうと何とも言えるがね」
「おおお、お前は底知れぬバチ当たりだな!」
「え、誰がバチを当てるの?、龍樹さん?、道元さん?、空(くう)さん?」
タンパク質だろうがアミノ酸だろうが分子だろうが素粒子だろうが、それだけでは存在できないでしょう。
それがそれとして存在するためには、それを観察する「観察者」がなければならないでしょう。
当たり前の話しです。
「観るもの」がなくて、どうして「観られるもの」だけがありえますか?
その「観察者」とは端的に、観察する「私」という「自己」でしょう。
あなたはこの「自己」は言葉による錯覚と繰り返しコメントしてきたのではないのですか?
形而上学を「みえるものをみえないもので規定すること」とするなら、
錯覚に過ぎない「自己」(みえない)によって知覚世界(みえる)を規定するという形而上学ではないですか。
あと、「完全な物質」ってなんですか?
賢者の石のことですか?
イエスちゃんは錬金術師ですか?
これまで誰も「物質」を見たことのある人はいません。見えるものはアレやコレであって、「物質」は抽象的な概念です。そんなもん見えません。
まさか抽象的な概念が見えるのですか?
すごいですね。
さすがにぶっ飛んでますね。
まったく愚かですね。
「近代の形而上学」ですよ?
「しらないん」ですか?』
「生物科学」「脳科学」が
「形而上学」であると主張する「貴方の」根拠を具体的に示して下さい。
『「科学的世界観」も、
「近代の形而上学」ですよ?
「しらないん」ですか?』
まったく愚かですね。
「科学的世界観」は、実験で、事実か検証されます。
「重力波」などもそうです。
ですから、ドンドン、修正されて行きます。
「形而上学」は、「脳内の思考の世界」ですから、「外部の実験は不要」です。
だから、『旧約聖書』の「創世記」は実験で証明する必要はありません。
生物科学の「新発見」は、
人間の傲慢さを粉砕します。これからも。
生物現象は、階層としては「分子の世界」であり、生物「化学反応」で、ほとんど説明できる世界なのです。
ここでは「素粒子論」は不要です。
言葉という悪魔の手先となっている
著作者・講演者の全てを捕えて
寒村に送り込んで
強制労働をさせて、
奴らの脳を徹底的に再教育せよ!!
言葉は神とともにあった。
言葉は神であった。』byキリスト教。
『初めに真理があった。
言葉は真理を遮断した。
言葉は悪魔であった』by仏教。
「嘘ばかり!!」って事だね。
言葉は悪の根源です。
言葉の無い世界にこそ永遠の真理があるのです・・・
って言う意味ですか?
ホントに悪の根源ですね。
言葉よ、
お前は心底根性の悪い奴じゃな・・・
お前は悪魔かァ~~(喝!!)
「ワタシは成る」というものだと宣言してるだけでなく、
凡人のワタクシでさえ、
この世に「生」を受けて以来、
ワタクシはこの世界に「在って、何かに成る為に」しごく自然に生命活動を営んでいる。
至極当然の事としてそれを前提に生きて居る。
・・・って言う事は、
「ワタクシと神とは似ている」っていう事でいいのかな??
ねえ、イエス君。
「いいえ、違います。それは無明です。言葉に騙されているのですよ」…とか言わないでね。
なのに、よくそんな短絡的に生化学の説明を平気で持ち出すことができますね。
科学的世界観も、近代の形而上学ですよ?
しらないんですか?
言葉は言葉です。騙す力はありません。言葉はただ言葉それ自身を表現するだけです。
騙すものも騙されるものもありません。
「騙す」という語り口は、
では一体なんのためにだますのですか?
一体なにを騙すのですか?
言葉は騙さなければならない目的でもあるのですか?
言葉はそれ自身、意志があるのですか?
イエスちゃんは私の疑問に思っていることを理解できないのなら黙っていてください。
「それでも「私」は「私」だ」ということの「不思議さ」です。』
「それでも「私」は「私」だ」
・・・これを、どうしていえるのですか?
『仮に私がイエスちゃんと肉体も記憶も「なにもかも」入れ替わってしまって』
・・・これは「イエスちゃんのクローン」でしかない。
「生命というのは物質の絶妙な配置・装置」なのですよ。
或る原始的な生物を瞬間に凍結する。
すると「タンパク質とアミノ酸の微妙な配置=装置」
となるのです。
これは「完全な物質」です。
そして、「非常に徐々に」この凍結を解除していく。
すると、
「タンパク質とアミノ酸の間で化学反応し合って」、生物として、再び、生き始めるのですよ。
この「タンパク質とアミノ酸」を、「人工合成したもの」に置換しても、同じ働きをする。
物質だから、当然なのですよ。
「生物」「生命」というのは「物質の配置」なのですよ。
「生物」と「非生物」の区別は、「言語の世界の中での区別」でしかない。
『私が言いたいことは、例え記憶がなくなっても、仮に私がイエスちゃんと肉体も記憶もなにもかも入れ替わってしまっても、
「それでも「私」は「私」だ」ということの「不思議さ」です。』
貴方は「私」という「言語」に騙されているのですよ。
あなたの論理では、次々と本を著される作家としての南さんは言葉に騙されていることでしょう。
しかし、あなたは南さんに対しては「あなたは言葉に騙されている」とはいわない。
その矛盾した卑猥な性格はそのままその当人を表現していることでしょう
「流れる水は腐らず」という言葉ご存知ですか?
あなたは自分の気に入らない意見に対しては「解らない人には解らない」とか「言葉に騙されている」などといって突き放します。
言葉は、「沈黙」するのか、「語り続ける」のか、どちらかしかありません。なにがしかを語りはじめたなら、それを途中で遮断することなどありえません。
そのようなことができてしまうのはイエスちゃんがやはり、なにがしかの絶対的真理を無自覚にも信じているからです。
イエスちゃんのように、なにかを語りながら、途中でそれを断ち切るような行いは、対話という場においての、言葉という水の流れを堰き止めてしまうことと同じことです。
それは腐ってしまうか、堰き止められたことによって氾濫してしまうかどちらかでしょう
イエスちゃんは「仏教は現実を観察する」とコメントしながら、あなた自身は現実を観察しないようですね。
「それでも「私」は「私」だ」ということの「不思議さ」です。』
貴方は、「言葉」に騙されているだけ。
「私が歩く」
「私」と「歩く」との、二つに分ける。
これが「言葉」です。
「言語認識機能」で、世界を認識するからこうなってしまう。
「歩く」と分離した「私」など存在しないのです。
貴方は「言語」に騙されているだけです。
サンユッタニカーヤ(阿含経相応部)を読み取るならば、
釈尊が35歳で涅槃寂静(=現法涅槃)に達した事、少なくとも周りの人々がそれを事実と認めた事(仏教的事実)が繰り返し繰り返し語られている。
これを事実だとして単純に信じて受け容れる事を宗教と呼び、
疑い・疑問を持って、
考え続けて余りを残し、
その言葉の背後にある物事の本質はなんなのか探ろうとする事を、
哲学だと呼ぶ、
という事であろうか。
>「機能」が線路を走っている
なんですか?この変な日本語
イエスちゃんは私が言いたいことを全く理解していない
「私」が関係概念としての「機能」に過ぎないとして、それをそうと考えていることも「有時」として「現成」している。そうしてまたそれを考えていることも…と、無限に後退してく。
私が言いたいことは、例え記憶がなくなっても、仮に私がイエスちゃんと肉体も記憶もなにもかも入れ替わってしまっても、それでも「私」は「私」だということの不思議さです。
だからイエスちゃんの批判は私の疑問に思っていることに全く届いていない。私もイエスちゃんが批判されるようなことは理解しています。
私ははじめから「なぜ道元は過去の出来事を、道元固有の過去の出来事として語ることができるのか?」とコメントしています。
コメントを理解できもしないのに批判するのはやめてください。
中身のないそれっぽいこと言いっ放しで結局「解らない人には解らない」って言えばいいんだから楽でいいですね
「イエス御自身の信仰」と
「キリストの使徒であるパウロの信仰」とはまったく異なる。
「イエス御自身の信仰」はマルコがガリラヤ湖畔などの民衆・生存者を巡って聞き取り調査して、ドキュメンタリーとしてレポート報告として『マルコの福音書』として記録に残した。
だから、洗礼者ヨハネから、30歳でヨルダン川で「浸水礼・洗礼」を受けてから、34歳で十字架刑で殺される場面まで終わる。
死後「キリストが復活する事件」は、「弟子たちの体験」であり、「イエス自身の伝記」とは「別の物語」である。
著者のマルコはこの事を明確に区別している。
端的に言えば、
パウロの信仰は「信じれば救われる」という「条件付き救済」である。
イエスの信仰は、「無条件の救済」である。
人間は何もしなくていい。
ただ、この「神の救済」を「受け入れる」だけでいい。
神からの一方的な恩寵である。
ユダヤ教は「神からの十戒を守り切る行為」で救われるである。
だから、イエスはユダヤ教の裁判で死刑が下された。神を冒涜した罪で。
使徒パウロで、キリスト教が世界に広まり、
「イエス御自身の信仰」が偶然に残った。
使徒パウロに感謝を!
これは曹洞宗と同じ構造である。
縁なき衆生は度し難し。
三祖は、道元和尚直々の指導の下だが、結局のところ、解らなかった。
道元和尚は、三祖に印可状を許さなかった。
徹通義介(1219年2月18日ー1309年10月18日)
13歳の時1232年に地元の波著寺にて「日本達磨宗の懐鑑」に就いて出家、「義鑑」の法名を受ける。19歳の時に比叡山に登って授戒した。
22歳まで日本達磨宗で修行した。9年間も。
1241年に「懐鑑」と共に山城国深草興聖寺の道元の下に参じた。12年間も。
(ただし、結局は、旧師の「懐鑑」は道元の下を去る)
1253年の道元の没後は孤雲懐奘に師事し、
途中、1259年に入宋し、諸寺院にて「各種の祈祷」や清規を学んだ。
所謂「葬式仏教」の儀式になる。民衆への布教へ。
道元和尚は、心血を注ぎ、それまでの著作を、旧草『正法眼蔵』全75巻として集大成した。
そして、新たな『正法眼蔵』の執筆を開始した。第12巻までで亡くなった。
『正法眼蔵』
解らない人には解らない。
縁なき衆生は度し難し。
そして、
三祖・徹通義介禅師が、いらしたので、
『正法眼蔵』が現在まで伝わった。
いくら感謝しても余りある。
自分で考えなよ、そのくらい。
全部一から十まで他人に考えてもらうの?
君、一体いくつなの?
まともな反論もない、言い訳じみたコメントにまともに応えるわけないよ
べつにカッコつけてないよ。
「こんな感じ、こんな感じ〜」としかいえないコメントはクソダサいと思うけどね
いっとくけど、このやり取りは君から始めたんだからね
時間があるときにここでなんやかんややってんのはそれはそれ、だよね。
ここでどうだろうが、まあ、なんてこたーない。
恥じたりしないよ。私にとってはふつーだもん、これ。
>肉体自身がそれ自身を最も表現しうるように思考し、感情し、行為する
私は日常的にこういう言葉では思考しない。
私は日常的には
>肉体の機能の維持は肉体がしてる。
「私」は、その肉体がどうやって機能を維持してるのかほとんど知らない。
こんな感じで考えてる。
こんな感じで考えてるから、おたくの言い方は、よそ行き?とか、格調高くいってみてんの?とか、ポエム?とか思う。
当たり前のことをかっこつけて言ってるだけに見えるっていうか。そういう意味で「格調高く?」ってちゃんと「?」つけてるでしょ?
で、おたくの
>肉体自身がそれ自身を最も表現しうるように思考し、感情し、行為する
と、私の
>肉体の機能の維持は肉体がしてる。
「私」は、その肉体がどうやって機能を維持してるのかほとんど知らない。
は、全くちがうものなのか、恥ずべき低レベルの認識なのか、そんなようなもんなのか、そこらへんはどうなってんの?
だとしたら、それはそうみる人が「低すぎる」んだな
難しい言葉なんて使ってないからね
ケチをつけるまえに、みずからの程度の「低さ」を恥じるべきだな
こんなことすら理解できないのに一体なにが理解できるのか?
知ったふうなことをもっともらしく、理解してもいない言葉を多用し
そして、コメントはただ表面を上滑りするだけ
「信じる」という行為は「疑う」ということがなければ成立しない
「疑う」ことがないのなら、そもそも「信じる」必要がない
どちらもあくまでも「人間的」なものだ
というのは、どちらも不可思議不可測なるものを対象化し、相対する「自己」の行為だからだ
そもそも本来的な意味での「信」はどこまでも徹底的な「疑」がなければならない
それは、「人間的」な所為ではない
「思考」は徹底的にどこまでもあらゆるものを「疑う」ということを本義とする。
「思考」はみずからによってみずからを乗り越えようとする。
「思考」は徹底的な懐疑によって、「思考」それ自身を「疑い」、「思考」はみずからによってみずからを乗り越えることはできないことに帰結する
「思考」それ自身が、みずからを乗り越えることの不可能を自覚するとき、「疑う」ことと「信じる」こととは同一のものの二つの過程的側面として観られる
「自己」そのものが「信」だ
なんの説明にもなっていません。
だから、あなたのコメントは中身がないといっているのです。
その透脱といふは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。
このゆゑに、出・生死あり、入・生死あり。
ともに究尽の大道なり。
捨・生死あり、度・生死あり。
ともに究尽の大道なり。
現成これ生なり、生これ現成なり。
その現成のとき、
生の全現成にあらずといふことなし、
死の全現成にあらずといふことなし。
「機能」が線路を走っている。
「装置」が線路を走っている。』
つまり、
「走っている「蒸気機関車」を…
「機能」と観る・見方と、
「装置」と観る・見方と、の2つである。
今度は、理解できましたか?
「同じもの」を、2つに観ているのです。
そして、これは、人間の思考の「癖」なのです。
『阿含経』相応部を読みなさい!
1000もの「短い」お経群であり、
「諸行無常」「諸法無我」を
何度も、繰り返して教えている。
釈尊は、「死苦」の呪縛から解放された。
「涅槃寂静」
である。
釈尊自身は「仏陀」「覚者」「目覚めた人」と自覚した。
5人のかつての修行仲間も、
「初転法輪」で、
「仏陀」になった。
これで、「ブッダ」が6人になった。
と「お経」で記録されている。
『阿含経』相応部を読みなさい!
だって君のコメントはただの劣等感の塊だから
ただケチをつけるためだけの批判だろうから
そうでなければ、それなりの説明ができるだろうけどね
君は「考える」こともできなければ「信じる」こともできない。
君はふざけていることしかできない。
真剣になれない人は鬱陶しい蝿のようだ。
「哲学する」ことも「信じる」ことも同じことだ。
というのは、どちらも「無限」を巡って、かたやあらゆるものを「疑い」もう一方はそれを「信じる」から
「疑う」ことと「信じる」ことは相対的なものだ
「信じる」ことができるのは「疑い」があるからだ
「疑う」ことができるのは「信じる」ことがあるからだ
クザーヌスの言葉ように「反対するものは一致する」
君のコメントは劣等感の塊でしかない
バカの一つ覚えのように「哲学することは信じることに劣る」などというべきじゃない
そもそも「信じる」人は、ただ「信じる」
なにも言わない。
君のコメントが無能ではないと思うなら、君の思う「信じる」とはどういうことか教えてください。
私見ではありますがワタクシが考えるに、
「信じる」という信仰が無くても、偉大な哲学者には成れるけど、
信じるという事が出来ない人はケチな宗教家にさえ「成れ」ない。
さて
現法涅槃は寝物語りで無意味であると言い放ったイエス君は、
釈尊が35歳で涅槃寂静に達したと信じているのですか???
凡人でも寿命が延びて
人口も爆発的に増えて
私有地が大いに増えて・・・
公益法人の「死に神」様も
遠くへ疎開せねばならず、
「死に人」様の集う霊山も
さいはての地に
追いやられてしまいましたが、
我、凡人は
60、70でも鼻たれ小僧に留まって
屁理屈言いいい惑っているのも
おかしくない時代となりました。
まことにめでたい事でありまする。
それに比べて
昔むか~しの時代には、
寿命はそこぞこ30代までで、
唯々早めの生殖に励み
子孫を残すのに
汲々とした時代でありました。
その当時の聖職にしても
釈迦なり、プラトンなりソクラテスなり、
この世に現れた哲人は、
早熟しており
20代、30代に既に、
輝かしい業績を成し遂げたのでありまする。
釈迦が80歳まで生きたのは
ただただ
人々に彼の業績を指し示して
我に続けよと、
凡人たちを励まし勇気ずける為でありました。
師と後ろ髪
詩と紙
四と過密
似てるような、何やそれのような。
さあ者ども、我に続けと・・・
普通人の君は
だから60、70になってもいいんだよと・・・
修行を続けていさえすれば
君もいつしかそうなれるよと・・・
全ての会話が、ただ屁理屈言ってダダをこねてる餓鬼同士の痴話喧嘩みたいに見えます。
唯一無二の純正真実としての仏教の結論としては・・・
釈迦は35歳で涅槃寂静を達成した。
それで釈迦は、彼が生きる目的・意味・意義を実現した。
修行した甲斐があった。
修行が実りをもたらした。
これを信じられない仏教者は
仏教を求めているかも知れないけれど、
それを信じられないのなら
永遠のアホである。
本心から仏教を求めているかどうかさえ疑問である。
さて、ここで最も重要なことは、
凡人の誰もがそう願って修行すれば、
それなりの、自分なりの「涅槃寂静」を
人が生きてる間に到達出来る・・・
という希望を釈迦が与えて呉れた事なのである。
難しい理屈なんか一切不要である。
・・・以上失礼仕りました。
要するに中身がないんですよね。
これだけでもお里が知れますね。
イエスちゃんの言い分だと、ほとんど哲学的な言い回しをされる南さんは言葉に騙されてるんですな
まあ、「禁欲」が生物としての人間を否定するから=「仏教はヒューマニズムではない」と断言する程度のイエスちゃんの理解ではそれが限界ですよね
具体的にどういうこと?
説明してくださいよ
いつもいつも断言するだけで役立たずのコメントですねえ
しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。
前後ありといへども、「前後際斷」せり。
灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、
人の「し(死)ぬる」のち、さらに生とならず。
しかあるを、
生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。
このゆゑに不生といふ。
死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。
このゆゑに不滅といふ。
生も「一時のくらゐ」なり、死も「一時のくらゐ」なり。
(つまり「ある時」「有時」である)
たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
正法眼蔵有時第20
1240年 旧暦十月一日 興聖宝林寺で書いた。
1243年 夏期の安居に際し、これを書写した。
懐奘
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou20/index.html
古佛言、
有時 高高峰頂立、
有時 深深海底行。
有時 三頭八臂、
有時 丈六八尺。
有時 錫杖拂子、
有時 露柱燈籠。
有時 張三李四、
有時 大地虚空。
蒸気機関車を観よ!
「機能」が線路を走っている。
「装置」が線路を走っている。
「機能」と「装置」とは、一体であり、分離できない。
「思考」と「大脳皮質の活動」とは、「同じもの」を「二つの観方」で表現しているだけである。
「言葉」に騙されてはならない!
また、
「赤色」
「波長がxxxの光の波」
これも、同じものを「二つの観方」で表現しているだけ。
何も不思議は存在しない。
「言葉」に騙される「哲学者」だけが存在する。
「全知全能の神ご自身」が保証して下さる。
不幸があっても「人生の帳尻」をきっちりと保証して下さる、筈だ。
「本証・妙修」も、
たとえ「どんなに迷走にあって」も、「本証」の中にいる。
「安心して、迷えば」よいのだ。
つまり、「そのまんま教」
「現状を、無批判で、肯定する宗教」に変質する。
これが、日本古来の「日本教」である。
しかし、本物の
「仏教」は、現実を「観察」する。
「常楽我浄」
「常と楽と我と浄と」は、存在しない。
「諸行無常」「諸法無我」
人間は「無明」だから、
「常と楽と我と浄と」を求める。
「求める心」が止めば(やめば)、
「涅槃寂静」である。
それを「仏陀」「覚者」「目覚めた人」と呼ぶ。
なんか、格調高く?書いてあるのかな?
でも、まあ、結構ふつーな感じっていうか。
だって、肉体の機能の維持は肉体がしてる。
「私」は、その肉体がどうやって機能を維持してるのかほとんど知らない。
でしょ?
やっぱり格調高くないといけない気がしてるとすれば、そりゃあ「私」が上にいないとダメな気がするからなんじゃん?みたいなー。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
っていうのがあるじゃん。
で、その絵が出てくるテレビドラマがあるんだ。
「熱海の捜査官」ていうの。10年前のなんだけど、見てみて
どこまでも「それを疑うものは何か?」という「問い」に無限に後退していく。
憶測だけれども、デカルトはこの無限に遡求しうる「問い」に対し、絶対的定点として、神の似姿としての「私」を措定したのではないか
万物が流動変化するなかにあって、唯一変化しない絶対的観察者としての「自己」
あらゆるものが始まり、そして終わるなかにあって、唯一の始まりも終わりもしない「自己」
アルファでありオメガである神の如き自己
あらゆるもののうちに内在しつつ、つまりあらゆるものとしてそれ自身を経験しつつ、それ自身を観察する隔絶された「自己」
しかし、南さんの考える仏教は、この「問い」に対して「諦める」もしくは「解答しない」、「沈黙する」という仕方で応える、と思う
というのは、この「問い」に対し、「解答する」ということそのものが「自己」の欲望であるとみるから
この「問い」はそのままに「わからないこと」として置かれる
仏教は、全体を俯瞰するような観察者を立てない。ひたすら現れつつあるものごとに内在し表現する、と思う
ということは、肉体は意識の乗り物のようなものではない
肉体自身がそれ自身を最も表現しうるように思考し、感情し、行為する
「生かされている」と手を合わせれば宗教であり、
「生かされている」と呟き首をかしげれば、
やがて事態に抗う意志が生まれてこよう。
「ない」意味を知るためには
全く別の思考形式が必要とされるであろう。
肉体は意識の乗り物のようなものだ。
古くなり壊れたならば、彷徨うのか
生きているとは、
死を知らないから生きているということである。
キリスト教は、
自殺を禁じることでやがて権力と化した。
自殺には「完璧な無」は到来し得るのだろうか。
宗教は、いつも何かを隠蔽する。
神なき時代の西洋は、
二千年の迷妄から覚め神無き存在論へと立ち還る。
さるうら若き女性バイオリニストが、
或る時避妊ピルを飲んだら、
其の薬の粒が脳の細い血管に詰まって仕舞って、突然バイオリンが弾けなくなった。
バイオリンをどう持つかも分からなくなってしまった。
バイオリニストとしての自分の過去の出来事が
自分固有の過去の出来事として認識出来なくなった、という例だよね。
無料のネット図書室の
「青空文庫」で西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一性』という文章が掲載されてたね。
気になったら読んで見て下さい。
何のことを言ってるのかワタシにはどうもよく分からないけど、
ヒョットして此処のコメント欄でもたまに登場するお坊哲さんの専門の「絶対矛盾的自己同一」の事を言ってるのかな??
ワタシ的には
自分の過去の出来事をワタシ固有の出来事と何故分かるかと言えば、
ワタシという事象がワタシの脳内で記憶として継続しているから
それが私固有の過去の出来事と分かるのだと答えたい。
もし私が事故で記憶喪失になるとか、
認知症で過去の記憶が途切れてしまうなら、
ワタシ固有の過去の出来事と認識出来なくなるんだろうね。
まあ道元さんの頭の中では有時の経歴がずっと彼の記憶の中で途切れずに継続していたんだろうね。
前後裁断とは今現在それらの記憶が一緒くたになって而今として現成してる・・・って言う事なんじゃあないかな。
そういうのが良いの?
私の感情、私の記憶、私のナントカ、私の私、とかなんとか、「無常」なんでしょ?
まあ、道元が道元の過去をどう語ってるのか知らないけどさ。親の因果が子に報い、私は出家に身を窶したのでしたとかなんとか?
そりゃ道元の記憶を私が書いてたらへんだろうけど。
ま、そういう問題じゃないね。
確かにそうだと思う。
「記憶」は「機能」であってそれ以上でもそれ以下でもない
ただその「機能」の仕組みがわからない
例えれば、「ブラックボックス」みたいなものかと思う
でも「ブラックボックス」といってしまうと、「機能」に過ぎないものが、機能を持った装置であるかのような実体概念のように間違えてしまう
仮に、散歩をしていて、ふと「意図せず」に「何気なく」昨日コンビニに寄って飲み物を買ったことが思い出されるとする。
その記憶は「私」が「意図」したものじゃない。突然やってきたものだ。
この「私」は、「現在」の知覚と、突然に去来する観念とを取り結ぶ「機能」に過ぎないのであれば、
「考えること」や「喜怒哀楽の情を感じること」や、「思い出されること」はそれ自体ではまだ「私」の「所有」ではない。それは「本来の面目」である「有時」にとどまる。
しかし、「有時」が対象化され、「現在」として認識されたとき、それらのものは「現在」の知覚と、「過去」の「記憶」を相補的に取り結ぶものとしての「私(自己)」を構成する。
そしてそれは、一挙に、言い換えれば、「私(自己)」が成立するのと同時的に「私(自己)」の対象としての「思考」や「感情」や「記憶」が成立するのではないか
「自己を忘れる」とか「万法に証せらるる」ということの意味はこのようなことではないか、と思う。
でもなんで道元が過去の出来事を、道元固有の過去の出来事として語ることができるのかわからない。
結局わからない
にわか仕込みの解釈で申し訳ないけど・・・
道元師の「有時の経歴」というのは、
彼一流の時間概念で、
有時=或る時、
とは即ち、ある時点での空間的認識を指し、
経歴とはそれが、今、頭の中をよぎっている想い出として認識しているという意味らしい。
従ってそういう構成された認識主体が経験する道元流時間認識論・・・だそうな。
自分の過去経験が今自分の心の中で現実の如く想い出されている・・・ということなんだろうかね。
とすると「前後裁断」をどう解釈するかが問題だけど、
道元録研究者の石井清純氏解説では、
「前後裁断」とは現在の時間を絶対視し、過去と未来を切り取る(遮断する、捨て去る?)という刹那的生滅的現状把握の意味では無くて、
事象を認識するという事(人間の能力)の限界を理解しつつ、
その認識に基ずいて
継続的な実践を行っている期間、
すなわち事象が其の事象としての属性を維持している期間(即ち有時の経歴として繋がっている時間軸?)を
意味するモノである・・・
と解説してるよね。
まったく「前後裁断」とかという言葉を使ってカッコを付けると何だかワケワカメになっちゃう感じだけどね。
間違っていたらごめんなさい・・・そのうち「違います!!」っていう本命が御出馬なさるでしょう。期待いたしましょう。
読んでないのにわるいけど、前後裁断という言葉が出てくる世界?次元?時制?だから自分の過去を語ってるんじゃないの?
すまんな、当てずっぽうで思い付きだ。
前後裁断したからって人間の機能が消滅するわけじゃないんじゃないの?
眼横鼻直(だっけ?)だっていうんだから、機能としてそういうもんだっていうことでいいんじゃないの?だめ?
「現在」の認識は、言語として「〜はもうない」という否定を持ち込むことで成立する。
つまり「現在」は「過去」という想起された否定によってはじめて「過去」ではない「現在」として位置づけられる。
そして「私」は「現在」において、「過去」が想起され、「現在」と「過去」とが相互に関係する関係概念として登場する
何かに熱中している時、寝ながら夢を見ている時、その他、様々な行為や思考や感情の最中には「私」はない。
「後から」振り返って「〜していた」「怖かった」「考えていた」と過去を想起する時、はじめて、「現在」と「過去」を取り結ぶ「関係」として同時的に「私」は登場する
つまり、「有時」を対象化して「現在」として認識することのうちにはすでに否定としての「過去」が混入している
そこまではわかる。
なんで道元が道元固有の「私の過去」を語ることができるのかわからない。
「有時経歴」とか「前後裁断」というからには、「過去」というもの、「記憶」というものは滅消されなければならないんじゃないのか?
わからないよー
我、人として生まれて来れて有り難い!!
人だけが輪廻で六道(六界、六趣)の上級段階を登れるから・・・、
とかと説明する親鸞会の面々と同じ思念に類するけどね。
今君が此処に生きている事だって全くすごい事なんだよね。
だって君も現法涅槃を達成する可能性が残っているって言う事になるからね。
屁理屈ばかり言って時間を無駄にせず、
修行修行まず修行!!
と書き込んで見て自ら合点が行く事がある。
もし釈迦が無余涅槃(死んだ後の涅槃、涅槃寂静)でもいいと「観念」していたのなら、
彼は有神論者(超越論者)だったという事に成ってしまう。
うん、コレで決まりだ。。。。
どうかね、面白いアイデアとは思わんかね・・・
「真理、または仏を【観】察思【念】する」という意味である。
思念という脳内作業を意図した言葉で在って、
「見て」「観察した結果」・・・>「知る」(即ち『証』する)事は原理的に出来ないので
「(真理、または仏を)思念」するのである。
仏教はあの世の事は議論しないが、
形而上学は思念している事になる。
もっとも現法涅槃(有余涅槃)一筋を目指した「釈迦の仏教」はその限りではない。
大胆に、面白く自説を披露してみるくらいがちょうどよい。
(他者・媒体を通しての)間接経験も、
人の脳内に記憶として記され、
時を経て、その記憶も自分の都合のいいように書き替えられていく。
経験しなかったことまで、あたかも経験したかのように脳は思い込みを始める。
左様にして観念は作られる。
俗人が俗語をしゃべるのは当たり前。
俗人でない人は
聞く耳など一切持たずに
独り静かに坐禅三昧。
天上天下唯我独尊!!
けち臭い自分の脳内で、
幾ら、これこそは事実であると、
一生懸命「修」して思い込んでも、
それは単なる自分の想定に過ぎない。
なぜなら原理的に
それは「証」する事が出来ないのだ。
「見て」「観察して」「知る」何ていうイエス君的言い訳は形而下学の範囲でしか「証」せられないのだから、
人はそれですべてを「知った」などと大口をたたくべきではない。
つつましく、謙遜に自説を披露してみるくらいがちょうどよい。
実のところ、イエス君の主張する言い方での
諸行無常・諸法無我も形而下学範囲内での認識に過ぎないわけだ。
それは「観念」という思い込みで成立している事象であろう。
有神論はそうだと信じる観念で在るならば、
無神論もまさに観念に過ぎないという意味だ。
無神論は仏教的事実だっていくら叫んでも、幾ら修しても証する事の出来ない
頭の体操に過ぎない・・・
という事を思考の出発点にするべきであろう。
要するに、
自分こそが絶対正しいなどとうぬぼれるな。
他者の異なった思考を排除するな。
他者は他者、自分は自分。
自分に似合った、自分に生きる意味を与えて呉れる言葉で生きよ。
・・・等々が有るに過ぎない。
滅却して去れ
道元が、自分の過去の出来事をエピソードとして語るとき、それが「自分」の、言い換えて道元の固有の過去の出来事のエピソードとして語ることができるのはなぜだろう?
「昔こんなことがあった」と語る想起された観念が、それが「私(道元)」の固有の観念であるという必然性はない。
道元は、想起された観念が、すなわち「私(道元)」の観念であることの一致をどう理解したのか?
有時経歴だけでは理解できない気がする。
さほど大胆でも面白くもないけれど、これは、支持していないことに、背後から攻めてるんですよね?
「大胆な言い方」「面白いアイディア」
・・・・・・・・うーん。そういう感じなんだ・・・・・・・・
なんで「大胆」とか「面白い」とか思えるの?
なんか、ふつーじゃない?って思うんだけど。
南さん的には、南さん以外の人間(例えば今記事で聞き役になってる誰か)は死や神をどう思ってると思ってるの?
「死があっての神」なんて、神(っていっても私にはなんとなくでも思い浮かべられるのはキリスト教の神ぐらいだけど)の役割的にそうじゃん。
最後の審判で「ふっかーつ!」って言ってくれるかどうか握ってるんでしょ?
「神の『ある』が自分の『ある』を担保してくれる」なんて、神が人間をつくったことを信じるなら、まんまじゃない?
そういうことと、南さんの言ってることはどう違うの?
そいで、
『私はある。私はあるという者だ』
『私はなる。私がなるものに』
っていうのは、私には「神による自性の宣言」というよりも、「ぜーんぶを合わせたものってことで」って言ってるように思える。
旧約聖書を使う宗教の中の人たち的にはどう解釈してるのか知らない。
だって私、始まりってのが神によるものだとか、神ってのはそもそもの最初からあった存在だとか、思ったというか思いついたというか、そういう記憶がない気がする。
南さん的に、今記事で言ってることが大胆で面白いことだと思えるのは、逆にそれだけ「神」の絶対性を取り込んじゃってるってことじゃないの?って思う。
神の属性についての論理的辻褄合わせをする為に、次のような説明を神から啓示されたと主張する或るキリスト教宗派の人たちがいるようです
ーーーーーーーーー
天国では大勢の天使たちが神に使えているが、
神は天使たちが各自の自由意志で自分につかえ欲しいと思ったので、
天使たちに自由意志を与えたのであった。
或る時、天使長のルシファーが
自分が神に取って替わりたいと考えて神に対して謀反を起こした。
ルシファーのクレイムは、
神は独裁者で在って、自分たちを奴隷扱いしてるという言いがかりであった。
その後、地上に降り立ったルシファーはサタン(悪魔)となったので在るが、
善天使たちは悪魔(と仲間の悪天使達)が人間の心を惑わす悪行を、つぶさに、
「見て」、「観察して」、「知った」のである。
即ち、悪魔こそが間違っていると・・・。
神はその様なシナリオはあらかじめ考慮してあったので、キリストによる人類の救済案を用意して置いたのである。
自由意志で其の救済案を信じる人間は救われて天国に迎え入れられるのでR
<著書『教皇フランシスコ』がある森一弘名誉司教は「彼がアルゼンチン時代に培ったのは『あわれみの神』という、神の捉え方です」と語る。いのちを与えた人間が痛ましい状態になっていることに、神自身が痛みを感じている――。それが彼の行動を支える根拠という。聖書で「あわれみ」と訳される言葉のもとはギリシャ語の「スプランクニゾマイ」で、はらわたが打ち震えるといった意味。神はいわば断腸の思いでいるというのだ。>
神が責任を感じる「者」なら、人間と変わらなくない?
普通は一年中「遊行」していた。
「衣」と「鉢」と、二つだけ。
「衣」は夜は夜具となった。
「衣鉢」を継ぐとは、このことをいいます。
雨期だけ、歩けないので、留まった。
修行に専念した。
これが「雨安居」である。
これでは、「いろいろな儀式の道具」を運び回る訳がない。
インド中央部デカン高原の都市「ボパール」の近くの
世界遺産「サンチーの仏教遺跡」をお参りしましたが…
素晴らしいものでした。
8人で行きました。
それは「仏舎利・佛陀の遺骨」信仰です。
巨大な「半円級の石造物」のてっぺんに「遺骨」を収める。
「周りの鳥居」は、本当に素晴らしいレリーフで、当時の人々の信仰と生活とを表現していました。
そしてその中で、釈尊自体は「彫刻は畏れ多い」として、
釈尊が坐っている位置に「菩提樹」でシンボリックに表現されていました。
つまり、「仏像」は一つもない。
大分後から、
「人物での仏像」はギリシャ彫刻から来ました。
ギリシャ神話の「神々」を数多く彫刻しているので、
「釈尊」も「神」のように、平気で彫刻してしまったのでは?
サンガを構成する為に仮の建築物を使用したとしても、そこには
一切の飾りつけも無く華麗な儀式なども無く、マントラも無く、垂れ幕も無く、仏像も無く、ゴマを焚くなんかも無かったんでしょうね、きっと。
神秘性何て趣のモノは一切なかった???
丁度今、日本の曹洞宗本山永平寺の装飾・儀式などもかなりその雰囲気が神秘化されているなァ~って思ったとこでした。
人間は何か神秘的な雰囲気に触れると信仰心が増すみたいですね。
古代のグノーシス主義思想に影響を与え、中世のキリスト教神学にも影響を与えたとされる。
概要.
完全なる一者(ト・ヘン)から段階を経て世界が流出して生み出されたとする思想。
つまり釈迦を我がロールモデルとして
幾つになってでもいいから
修行によって現世涅槃を目指しましょう!!
って言う意味ですね??
曹洞宗で跋扈する「本証妙修」は、
「本証から、妙修が流れ出す」
という「観」である。
これは、哲学者プロティウス?の
「第一者」から、「すべてが流れ出す」。
とまったく同じ「世界観」である。
この「密教」へのすり替えが「本証妙修」である。
なぜ起こるのか?
「言語」に騙されているから!
「無明」だから(「仏教」的に表現すると)。
後はそれを楽しんで寂静の心で生きた。
その後の釈迦の座禅スタイルは自らが成長する為では無くて三昧の境地だという事。また弟子たちとへの教育モデルとなる為だった。
修行しつつ、齢を重ねるごとに円熟性がますと期待される我ら凡人と同じだと思ってはいけません…という事ですね。
釈尊は、35歳から一貫している、円熟していない。
釈尊の「仏教」とは、そういうものである。
「在る」ことの不可解
誰もそれを必要としたことはない
根拠を問い始めれば
「在らせた何者か」と
だが、世界に意味など
もともとない
ただそこに在るだけ
相談を受けてから
生まれてきた者は
ひとりとしていない
いずこからかふっと
到来し浮遊し
またいずこかへ去ってゆく
意識に依拠する
恣意的なもののようだ
釈尊はそれまで課題だった「死苦」の呪縛から解放されたことです。
しっかりと自覚された。
その結果が
「諸行無常」
「諸法無我」
なのです。
そして、その生き方は、「正定」「坐禅」の生活です。
「ブッダ」とは「正定」「坐禅」で生きる人です。
道元和尚は、
「修証一等」と教え、
中国臨済禅の「見性成仏」は誤りだと教える。
『法華経』も
釈尊は、まだ菩薩であり、修行している最中である、
と教える。
「仏向上事」
「ブッダの、その上の事」
つまり、永久修行論なのです。
終わりがないことなのです。
だから「見性して成仏する」という見解は間違いなのです。
釈尊は「ブッダ」になってからも「坐禅」を中心とした生き方です。
つまり
「修・修行と証・さとりとは、一等ひとつ」なのです。
道元和尚が
「只管打坐」と教えるのです。
それのガイドブックが『正法眼蔵』なのです。
道を間違えないようにと。
「日本達磨宗」が目の前にあるのです。
日々、修行に切磋琢磨していれば
老人の精神性はドンドン円熟していく。
100歳の南さんが何を言うか見ものである。
老人は
肉体は衰えていくが
精神は円熟して行くそうな・・・
100歳時代を迎えつつある今、
60、70は洟(はな)たれ小僧なんだとか・・・
イエス君さあ、
だったら君は鈴木大拙師の
見性成仏説に宗旨替えしたって理解していいですかね??
ホスピスでの死の床にある末期患者が
如何に「死の受容」を成して行ったかを克明に記した、かの有名なキューポラロス女史でさえ、
自分の臨終間際では死の受容が出来ず悶えに悶えたそうであるんだとか・・・
イザ自分の死となると話は別だという事ですかね。
これが「死の受容」には修行のプロセスが必要だという事に成るんでしょうかね。
普通の場合には「生きたい」という本能(=自然発生的生命力)があるが、
人は全て死ぬべき存在だから、
「生」への未練を断ち切るために
通常の人は、生を諦めて死の受容に至る事が必要となるからだ。
〇・・生を諦めて死を受け容れる覚悟が出来る
う~む、これこそ修行っぽい感じが出そうだ!!
それはそれなりに有るらしい(たぶん??)。
修行するというプロセスを通して得られる、
「死の受容」(=死を諦めて受け容れる覚悟が出来る)こそが私の救いなんだ・・・というタイプの「救い」の定義なようだ。
「死の受容」とは、死を恐ろしいものと怖がることからの卒業だから、
此れもまた立派な信仰であろう!!
まあ意味がなく、答えが無く、わからないとしても、
死の受容さえ出来れば、人生虚しくはなさそうだ。
北風がふいても南風になっても、
人生のポイントは「死の受容」・・・なのだ!!
難しそうなことを簡単にいう北さん
と
簡単そうなことを難しくいう南さん
さて、
どちらがハゲ、もとい仏教者でしょうか?
>だから、この世で「仏陀に成る」のである。
これって「現法涅槃に成るのである」
って事だよね。
君の言う
此の世で「仏陀に成る」とは、
修行によってこの世で涅槃を完成させた人という意味になるからね・・・
ご当人(イエス君)がたったの昨日、まだ舌が乾く前に、
「現法涅槃」の議論は寝言の議論、無価値であると言っておきながら、
今日はサラッとこんなことを言うのかなァ~、
あ~あ、ワケわからない!!
この世に生きたままで涅槃寂静が得られるなら、乃至は死んだ後に超越世界に這入れるのなら、
その他を獲得するために僻地迄行くのに意味が在る。
死んだ後に涅槃寂静に這入れるぞと神とか死が保証して呉れてるなら、
此れもまた、僻地迄行く価値がある。
でも南教では、
超越・輪廻ご法度で、
生きてるときには悟り(=現法涅槃)も無いという政策だと
救いの道は完全に閉ざされる。
それだと僻地迄行く必要が無い。
意味はない、答えが無い、分からない・・・即ち、むなしい。。。。
>「無常」はこの目で「見て」、「観察して」、「知る」のである・・・
えええ、おかしな論理。
見て、観察して、知った事が(形而上学的にも)絶対『正しい』と誰が保証してくれるのですか?
>「え、誰が保証するの? 神?死?」
結局自分の「知る」が正しいと「信じ」ているに過ぎない。
答えはない
わからない
それが南少年の出した探究の答えだとしたらむなしい。
本、読みました。
アドバイタとか非二元論とか?
先生が書くと勢いがあって、少し違う感じがします。
「形而上学」というものを、「現前するもの(みえるもの)を、現前しない(みえないもの)枠組みで規定するもの」と考えるならば
「客観的世界」という考えは「形而上学」
個々人には「客観的世界」というような全体を俯瞰する視点は与えられていない
「客観的世界」という考えは「他者」の存在を前提としたうえで、「私」と「他者」の視点を総合するような便宜的な視点に過ぎない
となれば、「言語」も「形而上学」ではないか、と思う
例えば、「犬」という言葉
「イヌ」という音と「犬」の意味は別のもの
「犬」と発音した時に、発話した当人とそれを聞いた他者が同じ「意味」を理解しているとどうしていえるのか
「同じ意味」を理解していると考えることがすでに「形而上学」ではないか?
なぜなら、「イヌ」という単なる音に過ぎないものが、共通の「意味」というみえないものに規定されているから
キリスト教徒は22億人、
仏教徒は4億人。
世界人口が70億、とあらば、その他が圧倒的に多いような。
その他を獲得する為に、僻地にまで行く必要はあるのだろうか?
「諸行無常」に反応した。
道元和尚「と」同じ。
道元和尚は、「母親の死」つまり「無常」を観て、
出家した。
道元和尚も「観・無常の仏教」として把握する。
竜樹菩薩と同じである。
スタートの「釈尊の仏教」も
「諸行無常」である。
「超越」などの「観念論」は、捨て去るべきである。
「無常」は「観察」するだけでいい。
「無常」は「信じるの」ではない。
「無常」は「観察して」「自分の目で見て」
「知る」のである。
「仏教」は「この世」しか相手にしない。
だから「この世」で「仏陀に成る」のである。
「初転法輪」では、「真剣な、何日もの討論」で、
「コンダーニャ」が最初に「知った」「解った」。
この目覚めた瞬間に「ブッダとなった」のである。
お経は、これで「仏陀」は「6人になった」と記録する。
仏教教団「サンガ」が出現した。
教会の日曜礼拝は満員で熱気がある。
・・・
なお、上海では、「大きな教会」は、
「地下鉄の地図案内板」上でも「記載されて」いる。』
「地下鉄の地図案内板」は「共産党・国家」のものである。
つまり、国家公認だけで、3000万人のクリスチャンが存在する。
日本の30倍である。
そして、若い男女も多い。
「老人から」一家で来るケースも多い。
(文化大革命で弾圧された信者が復活し、現役)
「南京市のプロテスタントの教会」を訪問した時は、「近郊の農民一家」という感じの人が多かった。日に焼けててかてか、服装が農民ぽい。
(毎週の礼拝出席が「2000人」である。なんと、これが「一教会」である。
土曜日曜と分散して礼拝していた。
土曜は2回。日曜は3回、午前2回と夕1回。
このため、郊外に大きな教会を建設中だった。
「莫愁路」教会であり、「莫愁湖」の東に位置する。南京は長江の岸辺の都市で、河からの沼が多かった。今は埋め立てが多いが。)
そして、「教会が若いから」小さな子供達も多く、日曜学校・教会学校も開いて、小さい時からキリスト教信仰を教えている。
日本は、高齢化して、もはや教会学校は成立できなくなっている。
これが「政府公認のクリスチャン」である。
この外に「非公認のクリスチャン」が大勢いる。
「家の教会」「地下の教会」と呼ばれているクリスチャンのグループである。
「膨大な数」だが、統計として上がって来ない。
洪秀全の「太平天国の乱」も「キリスト教・もどきの宗教」である。
それが、貧困が原因で、農民一揆で、暴動で「清朝の政府」をひっくり返した。
まあ、中国共産党が、経済成長を続けている間は、暴動は起きない。
日蓮宗の創価学会一つで800万世帯あるといって
仏教はキリスト教に勝っていると例証しているが、
創価学会(乃至、日蓮宗)は南式「仏教・非仏教」のカテゴリーにおいて、
仏教に分類されるという事ですね??
外は雨、かなり冷え込みが厳しくなってきました。
ちょうど恐山が死者の霊を感じる様に・・・
意図的にその様にデザインされたとさえ思える。
でも南さんによると超越は一切ご法度なんですよねェ~。
君が、仏教はキリスト教に負けていないとする強弁ですね。
昔から続いた数少ない仏教国では仏教徒が大勢を占めるのはしごく当然だけど、全世界的な布教勢力図では負けている。
しかしそれはやむを得ない事なのだ。
なぜなら釈迦の教えというものはヒューマニストではないだ・・・っていうのが南さんの趣旨なんじゃあ無いんでしょうか??
死ぬ事によってのみ涅槃寂静に這入れるという事とした場合、
それと輪廻(超越)は無いという定義を重ね合わせると、
生きて居る時一生懸命修行しても無意味だという事に成りませんか。
つまり論理的には
涅槃寂静とは現法涅槃による寂静しか成り立たないと考えられる事に成りますよね?????
釈迦は修行で「此岸から彼岸」に渡るとかいう表現を使っていると仏教典では言っていて、
お寺の葬式・法事もその言葉を字義通りと見做しているけれど、
それって釈迦は超越支持の気持ちもあったとみていいんでしょうか???
これでも死後の事は無記であったと言えるのでしょうか?
涅槃寂静が死んだら心穏やかになる状態という言意味なら
霊魂(超越)を認めちゃうことになるし、
輪廻は無いとすれば
人は自死OKの、
兎に角、死ぬ事にしか救いがないという事に成るし・・・
どうにもよく分からないイエス君の論理ですね??
仏教では死とは寂静であると定義した訳で、
仏教は死後を議論しないというルールに矛盾するばかりでは無く、
釈迦が「八正道」実行で
この世に生きながら「苦を滅する道」を説いた意図にも矛盾する事に成りますよね。
苦の滅失こそが涅槃寂静という事なのでしょうから・・・
此処で言う涅槃とは有余涅槃(現法涅槃、即ち、釈迦が生きて居る時に達した涅槃寂静状態)って言う意味ですよね。
仏教は死後の世界の事を議論しないというルールであれば、
死んだ後(無余)に涅槃【寂静】という「心安らかな平穏な世界」に這入ったと言及する事は出来ない筈だし(=ルール違反となる)、
死後、永遠の自己滅失が達成されたかどうかも分からない訳だし・・・
よって、涅槃寂静とは生きてる時にのみ観察される、或る人間の「心的状態」しかありえない事になりますよね??
人類は、ある時点で分かれた。
一方は、「猿」への道を進んだ。
他方は。「人間」への道に進んだ。
人間は、経験を、文化・文明として、次世代に伝えた。
これで、「猿」とは、決定的に異なった。
そして、ここで「言葉」が出てくる。
これは「歴史的な事実」である。
著者たちは、創作であることを知っていた。
当然である。
この「物語」を用いて「伝えたい信仰内容」があった。
だから、現在においては、
「伝えたい信仰内容」を信じればよい。
勿論「歴史的な事実」として「創世記」を受け取っても良い。
その理由は
「伝えたい信仰内容」を信じればよいのだから。
いいえ「キリスト教」は負けている。
日本で、150年間、必死で布教しても、1%にも達していない!
1945年、米国に負けてから、
米国から、どっと宣教師が来て、
戦後に、一大キリスト教ブームが起こったが、
結局は、1%に達しない。
キリスト教徒は、100万人未満である。
(中国は、現在3000万人以上である。
教会の日曜礼拝は満員で熱気がある。
しかし、外部での布教は禁止されている。口コミだけ許されている。
なお、上海では、大きな教会は、
「地下鉄の地図案内板」上でも記載されている。
1ケ月いたので、土日を使って、13以上の「大きな教会の礼拝」に参加した。)
他方、
日蓮宗の創価学会一つで「800万世帯」である。
一家全員が創価学会員の場合も多い。
キリスト教は負けている。
キリスト教ブームの信者は高齢化でドンドン亡くなっている。
だから、もっと少なくなる。
だから、釈尊が、
「自分は仏陀に成った」と話した人々には、
その「言葉の意味」は理解できた。
そして、釈尊自身が「ブッダになった」と「自覚した」。
だから、5人のかつての修行仲間に、
「初めての説法」を行った。
「初転法輪」
「無記」。
だから、
『釈尊の現法涅槃(有余涅槃)を現実の事実と・・・』
の議論は、寝言の議論、無価値である。
「涅槃寂静」であり、
「涅槃」は「一つしかない」のだから。
「成仏」には、膨大な時間、何億年を、何億倍した修行が必要であると、教えるように「変質した」。
しかし、『法華経』の著者は、「それは違う」と主張した。
「全ての人は菩薩である。釈尊だけが菩薩は、間違いだ。」
「全ての人がブッダに成れる。たとえ小乗仏教の人でも。」
「(神学上の)釈尊は、現在も菩薩であり、仏陀に成る「修行の途中」である」
これをお経全体が壮大な比喩である『法華経』という「物語」で教えた。
『法華経』が「作り話」であることは、
『法華経』の中で、釈尊が「まさにその『法華経』」を説いているという構造からも明確である。
無限に「入れ子構造」にしている。
「物語」の中で、わざと矛盾が起こる様にして『法華経』を「神格化」出来ないようにした。
「釈尊」が成仏しないで、現在も「菩薩の位にいて」修行の最中だ。
と、仏陀と成った・成仏した「釈尊」自身が話しているのである。
「仏教」は「神格化」を拒否する。
「仏教」には「世界の創造神」は存在し得ない。
その理由は
「諸行無常」
だから。
当然である。
それは事実であった(と信じた人たちがいた)が故に仏教が誕生したのだというしかない。
基督教の奇跡の吟味よりかずっとわかりやすいが
本質的には同じ命題であろうか?
とすると、現法涅槃と奇跡とは似ている…という事に成る。
何だかどっちにしろ同じ事みたいに見える。
なぜだろか??
どちらも単なる『仮説』に過ぎないからだろうか??
キリスト教徒は22億人、
仏教徒は4億人。
超越否定の仏教徒は4億人の中の何%になるのやら、心淋しい限りです・・・
『我笛吹けども、汝踊らず』・・・にならないように
南さん、出番です!!
他力本願でやりやすい。
信じてるフリをすれば損は無い。
斯くて簡単に自分の心を欺ける。
純正仏教無神論者は
自力で全てを成さねばならぬ。
少数派であるのはしょうがない。
なにせ仏教はヒューマニズムじゃあ無いんだとかだし・・・
仏教は初めからキリスト教には負けるのだ。
少しのお金=肉体性(少なる身体必需性)。
現代人は此れをサカサマに考えて
お金の力を過信しすぎて、
少しのお金では満足を得られなくなり、
更に欲望を募らせ、守銭奴となっていく。
しかし、お金だけでは安心・安全は得られない。
さあ!!
ここに仏教の出番がある。
真のヒューマニズムに向かって・・・
「人生は恐れなければ、とても素晴らしいものなんだよ。
人生に必要なモノ。
それは勇気と想像力、そして少しのお金だ・・・」
(ヒューマン=)「人」主義という事だから、
人が人である特殊性を強調した言葉だろう。
人の特殊性は、人は肉体だけの存在ではないという事である。
(人はパンのみに生きるに非ず!!)。
即ち精神性(心)こそが人を人として成り立たせているという事実の事だ。
人の生きる意味が安心・安全を得る事だ・・・という解釈にはそれなりの真理があるから、
それは精神(心)が安心感・安全観を得る事と同意となり、
これ即ち、釈迦の目指した「苦の滅失」、即ち現法涅槃(有余涅槃)と同意という事となる。
つまり釈迦の目指したものとは、
心の自由、即ち(真の)ヒューマニズムで在って、
それに達する為に(肉体的)非ヒューマニズムを課したとするなら、
ヒューマニズムと非ヒューマニズムは酷似しているという事だろう。
目的が全く同じなのだから・・・
また「ヒューマニズム」を「人道主義」と訳するなら、
釈迦は精神性を大切にしろと言う
「人の道」そのものを教えたのだから釈迦はヒューマニストと言ってもいい訳だ。
どうよ!!、面白くないですか?
カトリック信者は何と、世界で12億もいるとか!?
仏教も負けていられませんね!
彼が悟った「人生の意味」とは、
人生は何故存在するかという命題で、
答えは「安心と安全を得る為だ」というそうな・・・
「似ていようと似ていまいと
どっちだとしても関係ねえよ!!」っていうカテゴリーが有るかも知れない
(似ている様だが似ていない)。
ひょっとしたら死と神ってそんな関係かも知れない???
さて、釈迦と道元さんは似ているのか?
似ていないのか?
①.人と神は似ている・・・
道元さん曰く「人は不生不滅である」
神様さん曰く「我は不生不滅である」
②.無神論者と有神論者は似ている・・・
釈迦は心の安心・安全を目標とした。
親鸞会も心の安心・安全を説く。
③.生と死は似ている・・・
生きてる人は「生」を生きる、
死者も「生」として立ち上がる(per南流)
④.色と空は似ている・・・
そう般若心経は言う。
⑤.男と女は似ている・・・
⑥.ピーマンとパプリカは似ている・・・
⑥.人力車と自動車は似ている・・・
⑦.一輪の花と宇宙は似ている・・・
⑧.「楽」と「苦」は似ている・・・
⑨.下手な考えと休むは似ている・・・
等々・・・
身も蓋もないことを言うようで恐縮ですが、サンタクロースの正体は不明だし、クリスマスはキリストの誕生日ですらないのです。
仏教以外、のことだからでしょうか?
「事物それ自体に語らせること」
死と神とは裏と表
それは空と縁起の関係に近似している
原因という概念から必然的に結果という概念が導かれるように
神(無限の潜在性)という観念から、あらゆるものごと、すなわち顕現の無限の可能性が導かれる
「正法眼蔵」それ自体が語る
正法眼蔵という書物それ自身が、みずからを語るために「南直哉」を創作し、「南直哉」という場においてみずからを表現する
「仏教」は飽く迄も「諸「行」は無「常」である」!
この世には「常」等というものはない!
「信じる」のではなく、自分の目で見て「知る」。
「自己」は「生命現象」であり、「仮の存在」であり、
「自己」には「存在根拠」が一切ないことを、如実に知る。
これを「本当に知れ」ば、「神」などの存在根拠を動員する必要はなくなる。
所謂、「本当の自己」を求める欲望は、根拠がないと感じる不安から起こり、
「確実な自己」つまり「根拠」を探すことになってしまう。
「人間」は「根拠」を求める。
「ブッダ」「目覚めた人」「覚者」「仏」は「根拠」など存在しないことを「如実に知って」寂静に落ち着く。
「仏教」が「無神論」なのは当然である。
さもなければ「死の受容」なんて言葉は言わない筈だよね。
死と神は似てるって言う事なら
「死を受容」するなら「神も受容」しないとね???
神も信じていないけど
死も信じていないって事なんだろうかね??
神にとって永劫なる「生と不死」が対であり不可分である。
>「なぜなら、神は生きた事がないからです。はい、おしまい。」・・・とはいえない。
あくまでも観念上の命題である。
アインシュタイン世界で言うならば、神なる4次元の存在を、3次元に生きる人間にはもともと理解不能なのである。
従って、「神は生きた事が無い」かどうか判断を下す事は論理的(原理的)に矛盾を起こしてしまう訳だ。
その後のホトケの実存は分からない。
そこで釈迦が智慧を出して言ったわけです・・・「死後の事を考えたってしょうがないから、君はタダ有余涅槃だけに集中したらいいよね」って!!
南さんだって余有を持って、有余涅槃が出来ますよ…その内にね!!
釈迦の死後、この世にホトケが不在となって、人々が情緒不安に陥ったので、
発明家の僧侶が永劫普遍の阿弥陀如来とか大日如来とかの神を創造した。有神論的「ホトケ」による仏教化であった。
釈迦という「ホトケ」は生きた人。
現法涅槃(ニルバーナ、有余涅槃)を人は見て知っている(・・・ことになっている)。
釈迦が死んだ時のニルバーナ(無余涅槃)は原理的にはわからない。
生きてる時のホトケしか分からない。
死がバッチを当てに来るみたいだから、
バッチなんぞ怖くないぞとばかりに、
一生懸命修行して「死の受容」で対抗しようとしているみたいな・・・・
であるなら、ホトケも、わかるまい。
なぜなら、神は生きたことがないからです。
はい、おしまい。
人は聖書に記載された奇跡を通して神を悟る。
しかし死とは何か、神とは何かは原理的に分からない。
注、仏が何かは原理的にわかっている。
当然無神論から発生しているのだから・・・
人(他者)がコピーすべきモノ(=ロールモデル)。
なぜ神であって仏で無いかというと
仏は神では無くて人が上等な存在に格上げされたものだからである。
神は原理上「自性」だけれど、仏は原理上「自性」ではないのである。
まあ非超越論がその根拠だけど・・・
よって、仏と死は似ていない。
人は他者の死体を通して死を悟る。
人は聖書に記載された奇跡を通して神を悟る。
神作ってホトケ入れず、ですかね。
「バッチを当てる!」
「えっ、何の?誰が当てるの?」
「南ってゆう坊さんの坐禅姿をコピーしたやつ。俺が当てるに決まってんだろ!」
そうかもしれませんね。
この前のコメントで、どなたか、大阪か名古屋で講演をお願いしますと書いてありましたが、
12月2日の朝日カルチャーセンターの名古屋の講演はご存知ですよね?当方、連れ合いがすっかり南さんのお話にハマってしまって、行く事になりました。
朝日での話はユーモアたっぷりの漫談みたいですが、今日のブログをより分かりやすくした様なお話ですよね!楽しみです。