恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

遅れる言葉

2021年11月01日 | 日記
 恐山の秋季祭が無事終了した直後、とあるメディアの企画で対談をしました。わざわざ関西からいらっしゃった対談相手は、藤田愛さんという訪問看護師の方でした。

 関西では、今年春の新型コロナウイス大流行が、入院できずに「自宅療養」(実際には自宅放置でしょう)状態のまま、大勢の患者さんが亡くなるという惨事を招きました。

 藤田さんは、その最中、若い看護師さんを率いて、感染症とのギリギリの戦いの最前線で苦闘された方です。

 お目にかかった最初から、私は「この対談、大変かもなあ」と思いました。法要の直後にご挨拶をいただいたので、そのまま本堂をご案内したのですが、ほとんど私の言葉が聞こえない様子でした。おそらく、胸に畳み込んで来た様々な感情や思いがあって、恐山に着いた途端に、その雰囲気に飲み込まれたのだと思います。

 感受性が強く、厳しい経験をした人の中には、恐山の雰囲気に強く感応する人が少なからずおられます。藤田さんも、まさにそういう人に見えました。

 食事が終わり、夜の対談になった時には、話し始めた最初から、大きく見開かれた目が潤んでいました。

 藤田さんは、修羅場とも言うべき状況の中、看護のリーダーとして奮闘してきた方です。春の流行が一段落した後は、その過酷な経験と、そこから得られた知見・提言を、様々な公の場で語って来られたそうです。そういう役目も十分に果たす、気丈な方なのだと拝察します。

 しかし、生きるか死ぬかの人を前にして、普段ならば対処し得るはずなのに、薬も器具も、受け容れてくれる病院も無い中で、彼女自身が経験した感情や思い、その悲しみと苦しさ、それらはまだあまりに切実で、語ろうとしても言葉が心に阻まれてしまうようでした。

 彼女の涙は、ただ自分の感情から流れるだけではなく、言葉が追いつかない切なさにも由来していたでしょう。

 訪問看護は、混乱の中とは言え、設備とスタッフが控える病院で、患者を看るのとはわけが違います。苦しむ人の家の中、家族の中に踏み込んで行くわけです。そこには、疾患とは別に、患者に絡みつく様々な困難さえあったでしょう。感染をきっかけに家族が激しく争うところで、看護したこともあったそうです。

 敢えて類型化して言い切れば、医師は基本的に病気を相手にすればよい立場でしょうが、看護師の相手は人間です。病気の治療が不可能になれば、医師の役割はそれまでです(緩和医療はまた別の話です)。しかし、看護師はその不可能の後、最早患者ではなく、人間に関わるわけです。ならば、病院でなく、さらにその患者の家にまで行けば、もはや彼だけの問題ではすみません。

 息子をなんとか入院させてくれと手を合わせて懇願する老母を前に、どうしても病院が見つからず、やっと見つけた病院に搬送できた翌日、母親に様子を尋ねる電話をしたら、息子はその朝に亡くなっていたこともあったそうです。

 前日に症状が軽かったので大丈夫だろうと、訪問の順番を後に回したら、部屋ですでに亡くなってしまっていた。その事実を言うだけで、藤田さんの声は震え、何度も何度も消えました。

 私は藤田さんに思わず「交通事故のような経験」と言ってしまいました。彼女にはこの「交通事故」という言葉が随分印象深かったようです。

 交通事故に遭うとわかっていて、事前に準備できるわけがありません。事故はいきなり起こり、驚愕と恐怖に襲われ、どうしたらよいかわからないまま、それでも何かをしなければなりません。

 交通事故なら、普通は警察と救急車を呼ぶことまではできるでしょう。しかし、藤田さんの経験したことは、警察はともかく、もう病院も保健所も頼れず、救急車を呼んでも来てくれない危機的状況だったのです。

 藤田さん同様、大きな災害、事故の被害者、理不尽な犯罪の被害者、そして遺族、この方たちの経験には、言葉が追いつきません。遅れてしまうのです。しかし、この遅れを耐え、言葉が追いつくまで悲しみと苦しみを抱え続けることが、私は必要だと思うのです。

 その過酷な経験を語ることで意味を与え、誰かがそれを聞くことで、ついには「私」という物語の一部として織り込まれていくことが、人が生きる上で必要なのだと、私は思います。
 
 この度の藤田さんとの対話は、人と言葉の関係について、感慨を新たに考える機会となりました。




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