明けましておめでとうございます。
新年にあたり、皆様のご健勝とご多幸を心より祈念申し上げます。
また、旧年中のご愛読を改めて感謝致します。ありがとうございました。
オミクロンなどという、パンデミックさえなければ生涯無縁で過ごしそうな横文字の新株が発生し、新型コロナウイルス禍も3年目になりました。3度目のワクチン接種も取り沙汰されていますが、話しは去年の春、コロナウイルスのワクチン接種が始まった頃のことです。知人から電話が架かってきました。
「例のワクチンですけどね、南さん、打ちます?」
「うん。打つよ」
「そうかあ・・・」
「どうしたの? 君は打たないの?」
「いや、いろいろ話があるでしょ、あれ、自分の知らないうちに遺伝子を書き換えちゃうとか」
「君、その話、真に受けてるの?!」
「え?」
この知人は、30代の会社員で、ごく常識的な人です。それなりの教養人でもあります。私は、彼のような人物からこの種のデマを聞くことになろうとは、夢にも思いませんでした。
「その話、どこから聞いたの?」
「友人からですけど」
「その友人のネタ元は?」
「よくわからないけど、ネットでしょう」
「それだけ?」
「そうだと思います」
「そのネットの情報、発信元を特定できるの?」
「それはわかりません」
「あのねえ、ぼくはね、ネットに出て来る匿名話はすべてエピソードとしてしか読まないし、聞かないの。つまり信じないの」
「えっ、そうなんですか!?」
彼はその時、心底驚いた様子でした。
「じゃ、あれ、嘘なんですか?」
「断定はしないが、その可能性が高いね。ぼくは、個人であれ法人であれ、発信元が特定できない匿名情報は信じない。つまり発言者の責任をすぐに問えない情報などは、ゴミ同然だと思うね。それと、ネットとは別のメディア(たとえば、新聞、テレビ、雑誌)に、複数の同じ情報が出てこなければ、無視するね」
「でも、マスコミが正しい情報を出すと信じるのも、危険ですよ」
「誠にそのとおりだが、ネットの匿名情報を信じる方が、はるかに危険だと思うぜ」
と、まあ、話はそういう次第だったのですが、考えてみれば、匿名ではなくて、発信者が特定できても、その人間が大嘘を吐いていないとは限りません。そこは確認しなければならないのでしょう。
すると、その確認は、自分で発信者に会って、情報をどこからどのように得たのかという1次情報を、本人に直接確かめることになります。さらに1次情報の真偽は、最終的には、文字通り「自分の目と耳で」直接確認するしかありません(そこで騙される可能性も絶無ではありませんが、最早これ以上の確認方法はありません)。
ということは、これからどれほどIT化が進みデジタル社会になろうとも、情報や知識のリアリティを最終的に保証するのは、我々のこの身体だということになります。
もちろん、今は我々の意識がこの肉体に根付いているにしても、この後、肉体の機能が次第に機械に代替され、その果てに、意識がチップに丸ごと転写されるようになるかもしれません。
しかし、たとえそうであろうとも、意識に物理的「依り代」が必要なことに変わりはありません(「依り代」とは別の「意識そのもの」を検出して実証した例は、未だ人類史上に無い)。ということは、「リアリティ」がいかに変容しようが、そのリアリティを保証するのは「依り代」、すなわち身体(将来は、ひょっとすると、チップ)です。
たとえ、その「意識」と「リアリティ」がどのようなものか、現在の我々に想像もつかなくても。
新年にあたり、皆様のご健勝とご多幸を心より祈念申し上げます。
また、旧年中のご愛読を改めて感謝致します。ありがとうございました。
オミクロンなどという、パンデミックさえなければ生涯無縁で過ごしそうな横文字の新株が発生し、新型コロナウイルス禍も3年目になりました。3度目のワクチン接種も取り沙汰されていますが、話しは去年の春、コロナウイルスのワクチン接種が始まった頃のことです。知人から電話が架かってきました。
「例のワクチンですけどね、南さん、打ちます?」
「うん。打つよ」
「そうかあ・・・」
「どうしたの? 君は打たないの?」
「いや、いろいろ話があるでしょ、あれ、自分の知らないうちに遺伝子を書き換えちゃうとか」
「君、その話、真に受けてるの?!」
「え?」
この知人は、30代の会社員で、ごく常識的な人です。それなりの教養人でもあります。私は、彼のような人物からこの種のデマを聞くことになろうとは、夢にも思いませんでした。
「その話、どこから聞いたの?」
「友人からですけど」
「その友人のネタ元は?」
「よくわからないけど、ネットでしょう」
「それだけ?」
「そうだと思います」
「そのネットの情報、発信元を特定できるの?」
「それはわかりません」
「あのねえ、ぼくはね、ネットに出て来る匿名話はすべてエピソードとしてしか読まないし、聞かないの。つまり信じないの」
「えっ、そうなんですか!?」
彼はその時、心底驚いた様子でした。
「じゃ、あれ、嘘なんですか?」
「断定はしないが、その可能性が高いね。ぼくは、個人であれ法人であれ、発信元が特定できない匿名情報は信じない。つまり発言者の責任をすぐに問えない情報などは、ゴミ同然だと思うね。それと、ネットとは別のメディア(たとえば、新聞、テレビ、雑誌)に、複数の同じ情報が出てこなければ、無視するね」
「でも、マスコミが正しい情報を出すと信じるのも、危険ですよ」
「誠にそのとおりだが、ネットの匿名情報を信じる方が、はるかに危険だと思うぜ」
と、まあ、話はそういう次第だったのですが、考えてみれば、匿名ではなくて、発信者が特定できても、その人間が大嘘を吐いていないとは限りません。そこは確認しなければならないのでしょう。
すると、その確認は、自分で発信者に会って、情報をどこからどのように得たのかという1次情報を、本人に直接確かめることになります。さらに1次情報の真偽は、最終的には、文字通り「自分の目と耳で」直接確認するしかありません(そこで騙される可能性も絶無ではありませんが、最早これ以上の確認方法はありません)。
ということは、これからどれほどIT化が進みデジタル社会になろうとも、情報や知識のリアリティを最終的に保証するのは、我々のこの身体だということになります。
もちろん、今は我々の意識がこの肉体に根付いているにしても、この後、肉体の機能が次第に機械に代替され、その果てに、意識がチップに丸ごと転写されるようになるかもしれません。
しかし、たとえそうであろうとも、意識に物理的「依り代」が必要なことに変わりはありません(「依り代」とは別の「意識そのもの」を検出して実証した例は、未だ人類史上に無い)。ということは、「リアリティ」がいかに変容しようが、そのリアリティを保証するのは「依り代」、すなわち身体(将来は、ひょっとすると、チップ)です。
たとえ、その「意識」と「リアリティ」がどのようなものか、現在の我々に想像もつかなくても。