これ、何の写真だと思いますか? 全部手ぬぐいやタオルなのです。恐山へのお参りが増える時期、「賽の河原」と称される岩場の参道の一角に、枝という枝、幹という幹にビッシリ、手ぬぐいやタオルが結び付けられたところが現れるのです。
私が初めて、これを遠めに見たときは、白樺の林にしか見えませんでした。ちょっとくたびれた白樺だな、とは思いましたが、まさか手ぬぐいやタオルだとは想像もしませんでした。これはいったい、何のおまじないでしょう?
実は、これはおまじないでもなんでもありません。供養なのです。恐山も夏は暑い。30度くらいにはなるわけです。すると、あの世へ旅する、あるいはあの世からやってくる祖先の霊、懐かしい人の霊も暑かろう。暑ければ汗もかくだろう、というわけで、その汗を拭ってもらおうと、手ぬぐいやタオルを供養する、というわけなのです。
この白い林は、一番長いときには、30メートル近くになります。無数の白い布の帯。私は最初に見たとき、つくづくと感じたものです。
「死者」はけっして「死体」ではない。同時にあるのかないのかも曖昧な「霊魂」でも「幽霊」でもない。「死者」が現れるのは、こういうところなのだ。この枝や幹に手ぬぐいを結びつけるとき、そこには「死者」がリアルに現前する。それが「死」において生きる「者」のあり方なのだろう。
だとすると、「成仏」とは、こういう供養がまさに尽きるところ、その思いが遂げられ、消え果てたときに起こるのではないか。それが供養される者と供養する者との、「死者」からの解脱でもあるのだろう。
・・・・こんなことをとりとめもなく考えながら、私は長いこと白い林を眺めていたことでした。
いつも読み逃げしている者です(^^ゞ
今年のお盆に5年ぶりに実家のあるむつ市に帰りました。その時 恐山にも出かけました。
恐山は中学の遠足でも歩いていったり 家族と出かけたりと懐かしいところでもあります。
でも今回の話に出ている「手ぬぐい」をこの夏に見て、びっくり&薄気味悪さを感じていたのです。「何のために?草履はわかるけど手ぬぐい?」と不思議に思っていたのですが そういう理由だったんですね。
確かに暑かったから自分たちはタオル持っていたのに、気がつきませんでした。
謎が解けてすっきりです(笑)
恐山は「霊山」なんだなぁ…と あの荒涼した雰囲気 そして亡くなった子供や家族を思って建ててある小さなお墓(?)を見て実感しました。
今度むつ市に帰れるのはいつになるか解りませんが また必ず行きたいと思っています。
ただ、、あの大きな「おさいせん」箱は何とかならないもんでしょうかね?(‥;)