恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

震災9年

2020年03月10日 | 日記
 明日で東日本大震災から9年。本来なら行われるはずの政府主催の追悼式典は、新ウイルス禍で中止となりました。その式典も来年が最後だそうです。歳月とはそういうものかと思わざるを得ません。

 連日の疫病報道に接していると、災難の強度と規模は今のところ震災に及ばないとは言え、人心に不安と疑心暗鬼と、それに相応する恐怖が蔓延しつつあるように見えます。それは、はからずも9年前の自分の記憶を、それなりにリアルに思い起こさせるものです。

 あの日、私は住職をしている福井の寺にいました。二階の自分の部屋で何かの原稿を書いていたのです。ニュースを見ようかと、音を消したテレビをつけっ放しにしていた私が、ふと画面を見ると、そこに大きな黒い模様が広がっていました。

 故障かと思って近づくと、それが仙台平野を呑み込んでいく津波の映像だったのです。まったく揺れを感じなかった私は、そのとき初めて想像を絶する地震と津波の惨状を目の当たりにしました。

 腰が抜けたわけではありませんが、私はテレビの前に坐りこみ、自分にはほとんど幻想的としか言いようがない光景を見ていました。

 今も覚えているのは、走る白いトラックに津波が迫り、ついに海水と瓦礫の黒い塊に消えていく様でした。

「トラックが動いているんだから、中に人がいるだろう。それが津波に吞まれて、いま死んでいくんだな。それをオレは畳の上で見ている。なぜ、あそこで人が死んでるのに、オレはここでそれを見ているんだろう?」

 あとはほとんどものを考えられませんでした。「なぜ?」ばかりが頭に反響したまま、気がついたら夜中になっていました。

 原発が非常事態に陥ったことも、その坐った場所で見ました。翌日の爆発もそこで見ていましたから、ほとんど動かなかったのでしょう。何か食べた記憶もありませんし、一睡もしていないと思います。

 原発の爆発を見たときは、頭だけが勝手に先を考えていました。このまま原子炉が暴走して制御できなくなったら、最後はどのくらいの規模で放射能に汚染されるのだろう。東京一極集中状態で関東全体が壊滅したら・・・・、場合によったら地方疎開じゃすまない。国家が機能しなくなり、我々は難民になるかもしれない。

 そのときの心境を正確に思い出すことはできませんが、印象として残っているのは、子供の頃に強烈な喘息の発作に襲われたり、急に入院しなければならなくなったとき、頭の天辺から足の爪先まで染みわたった、「自分ではどうしようもないことは、所詮どうしようもない」という、ある種の麻痺的な感情です。

 これは、自分の感覚としては「諦め」とは違います。圧倒的な不安や恐怖を何とか受けとめ、やりすごす、子供の頃に身につけた処「生」術のような反応です。

 事態が時間の経過とともに悪化していくのを目の当たりにしながら、おそらく二日目の夜だったでしょうか、何かの拍子に、出家した日のことが浮かんできました。

「得度式が終わった夜、思ったじゃないか。これで野垂れ死にしたって恰好はつく、って」

 それを思い出したとき、私はなんとなく我に返ったんだと思います。丸一日ぶりに何か食べて、とりあえず寝る。テレビはそれから3,4日はつけたままにしていましたが、以後、私はちゃんと眠りました。

 テレビで様子を見ていただけの私でさえ、この程度のことは今でもかなり生々しく思い出します。これが被災者の方々ならば、9年経とうが10年経とうが、これからも長い歳月、過酷な経験の記憶と当時の悲痛な思いは、とても整理のつくものではありますまい。
 
 あらためて、犠牲になられた方々のご冥福を念じ、被災した皆様の今後のご安寧を切にお祈り申し上げます。

最新の画像もっと見る