くじら図書館 いつかの読書日記

本の中 ふしぎな世界待っている

「なぜ君は絶望と闘えたのか」門田隆将

2010-03-20 04:57:49 | 社会科学・教育
「僕にも、小さな娘がいます。母親のもとに必死で這っていく赤ん坊を床に叩きつけて殺すような人間を司法が罰せられないなら、司法はいらない。こんな判決は認めるわけにはいきません」
「このまま判決を認めたら、今度はこれが基準になってしまう。そんなことは許されない。たとえ上司が反対しても私は控訴する。百回負けても百一回目をやります。これはやらなければならない。本村さん、司法を変えるために一緒に闘っってくれませんか」
山口県光市母子殺害事件の公判で、犯人のFに「無期懲役」の判決が下されたあと、吉池検事が被害者家族にむけて語った言葉です。司法の無力さにうちひしがれる家族にとって、どれほど支えになったでしょうか。親として、検事として、吉池さんがどれほどの思いで裁判に臨んでいたか、そして、それを告げられた本村さんが控訴という形に踏み切る決意をしたことが、痛いほど伝わってきます。
門田隆将「なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日」(新潮社)を読みました。
重い。重苦しい。でも、目をそらすことができないのです。
この事件については公判のたびに話題になり、様々なメディアで取り上げられているのでわたしも大筋は知っていました。特に最終公判のわけのわからない理屈。母親と被害者の弥生さんを重ね合わせて、拒否されたためショックを受けたという弁護団の主張にはただ呆れ返るばかりでした。そして、少年法で匿名報道が一般的な風潮のなか、出版された「F君を殺して何になる」(一応仮名にしておきます)。
その辺の事情を門田さんが書いているということで、読もうと思ったわけです。
一瞬にして妻と子を失った本村さん。犯人への報復を誓いますが、十八歳の少年ということもあり、どのような事実があったのかすら裁判があるまで教えてもらえず、このような酷い事件をおこしながら「死刑」の求刑は難しいということを知ります。少年法という壁に守られた犯人。それに比べて被害者の立場はといえば、実名報道は当たり前。しかし、本当にそれでいいのか。疑問をもっていた人々とともに、本村さんは闘うことを決めるのです。
この闘いを通して、彼を支える人々がとてもいいのです。上司の日高さんは辞表を差し出す彼に、
「君は特別な体験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。でも、君は社会人として発言していってくれ。労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。君は社会人たりなさい」
といい、仕事を続けていくことをすすめる。これは、すごいことなんじゃないかな、と思うのです。自分が残業をしていたことが二人の死につながっているように感じていた本村さん。仕事を辞めずに司法の改革をアプローチしていくのはなかなか難しそうですが、社会人としての立場を大切にして責任のある発言をしていくことで、世の中にも何かしらの変化があるように思います。
それにしても、Fくんのお父さんは、新日鐵にそのまま勤めていたのかしら。気になる。