田中美知太郎は「わたしは中共独裁政権下のシナの出来事について、ほとんどイリュージョンを持たなかった」(『直言、そして考察—今日の政治的関心』)と書いた。昭和42年当時の中共の文化大革命の報道に触れて「シナ趣味とか、シナとの同類感というものは、今日のシナを見るのには、むしろ有害無用である」と喝破したのである▼今の習近平は、第二の毛沢東を目指して、死ぬまで権力を手放すつもりはないらしい。その根拠となっているのが毛沢東思想である。それがマルクス主義と呼べる代物かどうか疑問ではあるが、毛沢東思想の復活を目論む中共指導部は、それでもって民衆への弾圧を正当化しようとしているのだ▼我が国の知識人の多くは、つい最近まで、中共を擁護するにあたって「スコラ主義的思考」に陥っていた。マルクスやレーニンと同じように、毛沢東の文章を金科玉条として、訓詁解釈をほどこし、それで権威付けしていた。いうまでもなく「シナ趣味」のせいであり、その教育を受けた者たちが未だにマスコミ関係者には多い。共産軍閥の軍事的な勝利でしかないにもかかわらず、人民中国の誕生と位置付けたことが間違いなのである▼中国共産党によって殺害された人の数は何千万ともいわれている。米中貿易戦争で中共の経済はガタガタである。外国に出かけて自由の空気を吸った民衆が決起して、いつ天下大動乱になっても不思議ではない。「シナ趣味」で現在の中共を論じるべきではないのである。
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以前、2015年7月には、中国・人権派弁護士の一斉連行に対して、抗議声明を出している。
「一斉連行の前の7月1日には、国家分裂、政権転覆扇動、海外勢力の浸透などに対する懲罰を定めた国家安全法が施行されました。中国は人権弾圧や言論統制をますます強化しているという、国内外から上がっている批判に対し、中国政府は十分な説明責任を果たすべきです。」と言った。
ふつうの学者・研究者は、「前衛党」のメンタリティを理解することができない。彼らは、自称「前衛党」が批判者たちに持つ怒りと憎しみを理解できない(但し、教義は違うけれども、理解の助けになる集団がある。オウム真理教である)。
いわんや、破滅寸前の危機から銃口で権力を勝ち取った中国共産党である。今や、かつての皇帝や貴族たち以上の権力と富を握っているノーメンクラトゥーラ・赤い貴族たちが、その権力を失うことへの恐怖心(チャウシェスクやムッソリーニの最後)は、さらに理解の外であろう。
中国共産党が干犯することを決して許さないことは、軍統帥権と言論統制の二つである。
時には言論統制の“手綱を緩める”ことはあっても、言論統制の“手綱を手放す”ことは掘っても無いのである。なぜなら、彼らの支配もゲッペルスと同じ“大きなウソ”の上に成立しているので、ウソがばれることにつながる“言論の自由”は断じて許せないのである。
中国共産党は、必要だと思えば一瞬の躊躇もしないだろう(勝手に“思い込む”癖もある)。
海外の支援者・知人に連絡する中国人は外国勢力との内通者と疑い、中国国内の改革派・人権派に連絡したり応援する外国人はスパイ工作者とみなされて、中国“公安”の特別な監視下に置かれ、突然、逮捕されるようになるだろう。
危険な匂いがプンプンする。
阿古智子たちが係われば、ギリシア神話の“ミダース王”ように、すべてが金に変わってしまうのではないか?
彼女たちが接触した者すべてが、中国共産党から“スパイ”“敵”とみなされるのではないだろうか?
「奴は敵だ。敵を殺せ」という世界があるのだ。