草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

マスコミの言葉狩りの行き着く先は自由な言論の弾圧だ!

2014年06月24日 | マスコミ評

 ヤジ程度でどうのこうの言いたくはないが、マスコミが騒いだことで、これからの日本の言論空間はゆがんだものになるだろう。流通する言葉は吟味され、反社会的とレッテルを張られれば、そこで沈黙を余儀なくされるのである。そうした言論の弾圧をしてきたのは、保守ではなくてサヨクであった。彼らは教育現場で、自衛隊をこけにして、平和憲法なるのもを絶対化して、それに反することを許さなかった。それは中共や朝鮮半島へ媚びることでもあった。それに反する生徒や児童がいたらば、徹底的にさらしものにした。その延長線上で今の言葉狩りが行なわれている。行動する保守が在日を槍玉に挙げただけで、「ヘイトスピーチ」といわれ、徹底的なキャンペーンが繰り広げられた。しかし、現実を直視しないそのキャンペーンは、すぐに馬脚を現した。「反ヘイト」を叫ぶ者たちの方が暴力的であり、入れ墨ですごんだりしたからだ。取材したニューズウィークの記者に、真実を暴露されたのである。言葉を自由に使いこなすことができず、奥歯に物が挟まったような言い方しかできないのであれば、文化は活性化しない。小説や劇では様々な登場人物が出てくる。それぞれの個性がぶつかり合う世界なのである。将来的にはそこの言葉にまで干渉してくるのではないだろうか。「老人」を「高齢者」といい、「看護婦」が「看護師」になった。言葉が改変されているのである。女性を「看護婦」、男性を「看護師」と呼べがいいのに、そうではないのだ。人間は言葉を通して自己を表現する動物だ。制約が次から次へと出てくると、想像力の芽は摘まれてしまう。画一化と全体化に抗せなければ、日本の文化は維持できないし、発展することも難しい。生半可な人権意識ほど迷惑なものはないのである。

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「セクハラ」ヤジ都議の犯人探しに血眼になったマスコミを嗤う!

2014年06月24日 | マスコミ評

 日本のジャーナリズムのレベルの低さを印象付けたのが、東京都議会におけるヤジである。ヤジった都議はさっさと名乗り出て謝罪すればよかったのだ。後は有権者が判断するのである。結果的にはそうなることが分かっていながら、新聞もテレビもそれしか話題がないような騒ぎ方である。クリントン大統領の不倫疑惑のときですら、アメリカのマスコミはそればかり論じていたわけではない。しかし、日本ではそれが大ごととなり、ヤジって謝罪した自民党都議の事務所に生卵がぶつけられる騒ぎになったのである。そして、これ幸いにと安倍政権批判に結び付けるのである。日本を護っている自衛隊は、日々緊張の連続であるのに、そんなことにはまったくおかまいなしである。そして、日本がどれだけ男尊女卑の国であるかを、世界中に宣伝するのである。まさしく病的な現象ではないだろうか。それもこれも、戦後レジームを維持しようとする勢力の、はかない抵抗でしかないのである。国連憲章によって世界の国々が認められている集団的自衛権の行使容認について、いかにいちゃもんを付けても論破はできない。そうなれば感情に訴えるしかないのである。「若者を戦場に送るのか」といった決まり文句がスローガンにされると同時に、そうしたヤジにもいきりたって責め立てるのである。中共が明日にでも日本を侵略しようとしているのに、おめでたいにもほどがある。品位のないヤジを正当化するつもりはさらさらないが、差し迫った危機的状況を直視しないで、それで本当に良いのだろうか。ヤジった本人が名乗り出たわけだから、これで一件落着したことになる。辞めるか辞めないかは本人の問題だろう。安倍首相に子供ができないことを、サヨクの人間は公然と口にしているが、ヤジでなければそれは許されるのだろうか。レベル低い政治にしたのには、マスコミの責任が大きいのである。

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