♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■期待と心配は紙一重 / 大井 満

2021年10月19日 | Weblog

2021/5/4放送

 世の光の時間です。今週のメッセージを担当しています、東京にある板橋教会の牧師、大井満です。

 もう三十数年前になりますが、私は妻と幼い二人の娘とともに牧師としての学びを深めるためアメリカに留学しました。ある程度アメリカの生活に慣れて、もうすぐ神学校が始まるという時期に、お世話になってる先生方と話す機会がありました。

 その時、「もうすぐ授業が始まるね。」 「アーユー アンビシャス フォー スクール?」Are you ambitious for School? と尋ねられた私は、確信をもって 「ノー!」No!と答えました。すると先生方は 「ノー?」No? と驚いたような表情で聞き返して来られたのです。

 何が起こったのか私には分からなかったのですが、横にいた妻が 「アンビシャス フォー」ambitious for は「切望する」って意味だよと教えてくれたので、私はあわてて「イエス!」Yes! と言い直しました。アンビシャス ambitious  という単語の意味は、「心配する」だけだと信じ込んでいたのでした。

 「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」という聖書のことばがあります。旧約聖書イザヤ書40章31節です。実は、この直前の30節に、「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。」とあるのです。

 私たちも疲れてどうしようもない時や、希望が見えない状況の中で力を失っていくことがあります。主である神様がいらっしゃる、助けて下さる、と信じ期待する者に神様が新しい力を与えてくださいます。しかもその力は一所懸命に羽ばたかなくても、高く昇っていくことのできる力です。自分で振り絞っていく力ではありません。ただ受けとめるだけでよいのです。

 心配と期待はまさに紙一重です。同じ「アンビシャス」 ambitious なのに、その後にたった三文字、エフ・オー・アール 「フォー」for とつくだけで「心配」が「期待」に変わるのです。

 あなたも神様を期待し待ち望みませんか? 私の留学は諸事情でごく短期間になりましたが、私にとって神様の恵みを体験する良い機会となり、その後の牧師としての歩みに大きな力を与えてくれました。「心配」を「期待」に変えてくださる神様を待ち望んで生きていきましょう。

    ( PBA制作「世の光」 2021.5.4放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■失敗してもいいんです / 大井 満

2021年10月18日 | Weblog

2021/5/3放送

 世の光の時間です。今週のメッセージを担当します、東京にある板橋教会の牧師、大井満です。

 私は小学校三年生からカブスカウト、六年生からはボーイスカウトに入っていました。教会が地域からボーイスカウトをやって欲しいと依頼されて始めた働きでしたので、日曜日の礼拝に出られなくなるということもなく、楽しい日々でした。

 中学一年生の時だったと思いますが、梅雨の時期の土曜日の夕方からすぐ近くにテント生活の練習に出かけました。小学校六年生の新人隊員にとっては初めてのキャンプでしたけれど、二年目の私は班の次長という役割をいただいていました。テントを張り、飯盒(はんごう)でご飯を炊き、順調なキャンプに思えました。寝袋に入って休みましたが、夜中に雨の音で目を覚ましてからが大変でした。当然やっておかなければならなかったテントの周りに溝を掘るという作業を私たちの班はやっていなかったのです。雨水がテントの中を流れていました。

 イエス・キリストの弟子の一人ペテロは、ある時イエス様に向かってこう言いました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
 するとイエスがペテロに対しておっしゃいました。「下がれ、サタン。」
     マタイの福音書16章22節と23節に書かれています。

 実はペテロはこの時、有頂天だったと思うのです。イエス様が弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ16章15節) と尋ねられ、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ16章16節)と模範解答をし、イエスに褒められたばかりだったのです。そのイエス様が、ご自分が殺されることを予告されたので、ペテロは「とんでもないことです。」と言ったのでした。

 人間は調子にのると失敗をします。そしてしっぺ返しを食らうのです。私は惨めなキャンプを味わい、50年以上たってもあの時のことは忘れません。ペテロは厳しい叱責を受けました。彼もこの経験を忘れず、後に生涯イエス・キリストの弟子・使徒として歩むようになりました。

 失敗してもいいんです。その経験をしっかり心に刻んでおけばいいのです。神様はそんな私たちを赦し、受け入れ、神様の御用のために使ってくださいます。

    ( PBA制作「世の光」 2021.5.3放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■完了した! / 関根弘興

2021年10月16日 | Weblog

2021.5.1放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今週は、イエス・キリストが十字架上で発したことばからイエス・キリストがどのような方かを紹介しています。

 十字架は壮絶な苦しみを伴う処刑でした。イエス様は「わたしは渇く」(ヨハネの福音書19章28節 )と言われました。それは肉体的な壮絶な渇きでもありました。そして人々の罪の身代わりとなって十字架につけられるということは、父なる神様との交わりが途絶えてしまうという霊的な渇きでもあったのです。そしてイエス様は十字架上で「完了した」(ヨハネの福音書19章30節 )と言われました。

 考えてみてください。もし十字架が失敗ならイエス様は「失敗した」というでしょう。また自分の意に反して十字架につけられたのなら「やり残したことがまだある。不当な仕打ちだ!」と叫ぶでしょう。しかしイエス様は「完了した」と言われたのです。

 それではイエス様は十字架によって何を完了したのでしょう。何を成し遂げて下さったのでしょう。それは救いを成し遂げて下さったのです。

 イエス・キリストが来られるまでは人は神様の律法を自分の力で守ることによって救いを得ようとしてきました。でもそうした数々の戒めを完全に守ることのできる人などいるでしょうか。いえ、誰もいません。旧約聖書の戒めは、私たちが神様の基準に達することの出来ない罪人であるということを徹底的に教え、救い主のもとに導く養育係のようなものだ(参照 ガラテヤ人への手紙3章24節 )、と聖書は教えているのです。

 しかしイエス様は十字架を通して救いの道を成し遂げてくださいました。それはイエス・キリストが私たちの罪と罰を十字架で身代わりとなって受けて下さったことによって、イエス様の十字架に免じて、信じる者は誰も神のみ前に罪のない者として認められるという素晴らしい救いの道が開かれたのです。

 ですから私たちは救われるために細かい戒めを完全に守らなくても、必死に努力する必要も、また守れない自分に絶望する必要もありません。自分の弱さを認め、そんな自分に代わって十字架についてくださったイエス・キリストを救い主として信じ、赦しと救いを感謝して受け取り、神様の愛と恵みの中で喜んで生きていくことができるのです。

 つまり、イエス様が「完了した」と言われたのは、私たちに与えられる救いの御業が完了したということなのですね。なんと嬉しいことでしょう。

      (PBA制作「世の光」2021.5.1放送でのお話しより)
 ***

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■イエスの壮絶な叫び / 関根弘興

2021年10月15日 | Weblog

2021.4.30放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今週はイエス・キリストが十字架で発したことばからイエス様がどのような方かを紹介しています。

 イエス様は当時最も極悪な犯罪人を処刑する道具であった十字架につけられました。イエス様の十字架刑は午前9時ごろから始まりました。そして12時ごろになった時、突然、「全地が暗くなり、午後三時まで続いた。」と福音書に記されています。

 昼間なのに暗闇が覆うその時に、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と大声で叫ばれたのです。

 このことばだけを読むと、神の子イエスも父なる神に見捨てられたのかあ、イエスの十字架は失敗だったのではないか? と考えてしまう人もいるでしょう。しかしそう考えるのは聖書もイエス様の十字架の意味も知らないからです。

 イエス様は神なる方であるのに人として来てくださいました。それは罪のないイエス様が人々の罪を身代わりに背負い、すべての罰と呪いをご自分で受けるためでした。イエス様の十字架は、私たちを何とかして救おうとする神様の深い愛と、罪を決して見逃すことのない神様の正しさを同時に表すものでした。

 イエス様は私たちの代わりに十字架にかかり、正しく義なる神様に断罪されました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、イエス様が審判者である父なる神様の前で、私たちの罪人の代表として罪の罰と呪いを一身に背負われた苦しみの叫びだったのです。

 また、愛と恵みに満ちた神様との関係が完全に絶たれてしまうという絶望の叫びでもありました。ですからこの叫びこそイエス様が私たちの罪を完全に背負って下さったということの確かな証拠なのです。またこの叫びは詩篇22篇の1節「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。」と同じ言葉です。

 この詩篇22篇はキリストの受難の詩篇と呼ばれ、将来、救い主が味わう苦しみを預言したものでした。つまり、この叫びの中にイエス・キリストこそ旧約聖書で預言されていた救い主であるということが明らかにされているのです。

      (PBA制作「世の光」2021.4.30放送でのお話しより)
 ***

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■十字架のもとにいた女性たち / 関根弘興

2021年10月14日 | Weblog

2021.4.29放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今週はイエス・キリストが十字架で発したことばからイエス様がどのような方かを紹介しています。

 イエス様は当時最も極悪な犯罪人を処刑する道具であった十字架につけられました。その十字架のもとには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた、とヨハネの福音書に記されています。

 聖書を読むと、十字架のもとにはこの四人の女性と「愛する弟子」と言われたヨハネが悲しみにたたずんでいた、と記されています。するとイエス様は十字架の上から母マリアに向かってこう語り出しました。

 「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」(ヨハネの福音書19章26節)と言われ、また愛する弟子と言われたヨハネに向かって、「ご覧なさい。あなたの母です」(ヨハネの福音書19章27節)と言われたのです。

 考えてみてください。イエス様の母マリアは十字架上で苦しむわが子を見てどれほど嘆き悲しんでいたことでしょう。代われるものなら代わってやりたい、そう思っても何もすることができない。そうしたことに大きな痛みを持ったことでしょう。

 しかしイエス様はそんな母マリアを思いやり、「女の方」と呼びかけていますが、これは婦人に対する丁寧な呼びかけのことばです。イエス様は、「わたしがいなくなった後は、このヨハネを息子として頼り世話になってください。」と優しく言われたのです。またそばにいたヨハネに、「これからは、わたしの母をあなたの母のように思って面倒見て欲しい。」と言われたのです。

 イエス様はご自分が激しいそれこそ壮絶な痛みと苦しみの中にあっても、人を思いやることを忘れることのないお方でした。聖書には「その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。」(ヨハネの福音書19章27節)と記されています。

 実はこの出来事は教会の姿を象徴的に表しているものと考えることができるのです。 私たちはイエス・キリストの十字架によって罪が赦され神の子とをされることによって、互いに神の家族の一員となるのだということなのです。

 新約聖書の後半の手紙をたくさん書いたパウロもエペソ人への手紙2章19節でこう言っています。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」

      (PBA制作「世の光」2021.4.29放送でのお話しより)
 ***

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御国の位に着くお方 / 関根弘興

2021年10月13日 | Weblog

2021.4.28放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストが十字架上で最初に発したことばは「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」という執り成しの祈りでした。

 さて、イエス・キリストの十字架の両側には二人の犯罪人が十字架につけられていました。その一人はイエス様に向かって、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と、わめき散らしていました。

 しかしもう一人は、イエス様に向かって「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と告白したのです。

 するとイエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と語られたのです。

 イエス様の両側で十字架についた二人の犯人の姿はとても対照的でした。一人は、自分の罪を認めず人を呪い、イエス様に向かって「自分を救っておれも救えー!」と叫び散らしていました。

 しかしもう一人は、「自分は本当に罪人だ。十字架につけられて当然だ。」と自分の罪を悔いていました。自分で自分を救うことなど出来ない。だからイエス様にすべての希望を託して、「あなたは御国に入られる方です。私を救ってください。」と告白したのです。

 しかしどうしてこの犯罪人はイエス様が御国に入られるお方だと分かったのでしょう。十字架は呪いの場所です。それなのに彼はイエス様の姿を傍(かたわ)らで見ながら、この方こそ御国に入り王座につくお方、つまり救い主であると告白したのです。

 彼はそれまで立派な生活をしてきたわけではありません。礼拝を捧げ熱心に奉仕することなどなかったでしょう。自分で犯したことの罪の償いの機会もなかったでしょう。しかし彼がただイエス様を見た時、「ああ、このイエス様こそ永遠の救いを与えて下さるお方だ。」と告白したのです。

 実は、聖書が教える救いの原点というものがここにはあります。それは、信じる者は誰でも救われる、という単純な真理です。この犯罪人は、自分の犯罪のためにローマ法に従って十字架刑で死にました。しかしイエス様の十字架のゆえに罪赦され、正しい神様との関係を回復し、天の御国へ入ることが約束されたのです。聖書の教える救いは、ただイエス・キリストを救い主として告白するときに与えられるものなのです。

      (PBA制作「世の光」2021.4.28放送でのお話しより)
 ***

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ある牧師の思い出 / 関根弘興

2021年10月12日 | Weblog

2021.4.27放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか、関根弘興です。イエス・キリストが十字架上で最初に発したことばは、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」という、とりなしの言葉でした。

 私はこのイエス・キリストの祈りの言葉を読む度に、ある牧師のことを思い出します。もう三十年も前のことですけれども、国立駿河療養所の中にある神山教会の工藤清牧師と出会ったことでした。工藤牧師は若くして両親を亡くし、それに加えて十代の後半からハンセン病を病み、当時は隔離政策でしたので隔離された療養生活が始まりました。

 ある時、施設に入っていた小学生が工藤さんにこう質問したそうです。「俺たちは、生きている意味があるの? ここで勉強したって何の意味もないじゃないか。」

 工藤さんは、その質問に何も答えることができなかったそうです。そして自暴自棄になり、何度も自殺未遂を重ねていったそうです。しかし死にきれずにいた時に聖書に出会いました。彼は、愛などということはただの絵空事だと考えていたそうです。自分がハンセン病を患った後、友だちも親戚も、手紙一通くれなかったそうです。愛などこの世界にあるはずがない、と考えていたのです。

 しかし聖書を開いてイエス・キリストの十字架の出来事を初めて読んだ時のことでした。「キリストは、何も悪いことをしていないのに十字架につけられた。それなのに、ローマ兵たちに『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか、自分では分からないのです。』と語った。この人こそ、まことの愛の持ち主だ。救い主でなければ、こんな愛はもちえない。」そう思ったそうです。
 そして、聖書を読み進めていくうちに、イエス・キリストのあの十字架のことばは十字架の周りにいた人たちだけに語られたのではなく自分自身にも語られているのだということが分かったというのです。こんな罪深い者のためにキリストが身代わりに十字架についてくださった。そして私の罪を赦し、この体が朽ちても変わることのない永遠のいのちを与えて下さるお方がいる。そのことを知った工藤さんの人生は、180度変えられ、後に牧師となっていきました。

 皆さん、十字架はイエス様の赦しの祈りから始まります。そしてイエス様は、あなたに対しても「わたしはあなたの罪を背負ったのだ。赦しの道を開くために」と語っておられるのです。

      (PBA制作「世の光」2021.4.27放送でのお話しより)
 ***

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■父よ彼らを赦したまえ / 関根弘興

2021年10月11日 | Weblog

2021.4.26放送

「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。

 キリスト教会のシンボルマークは十字架です。今週は、イエス・キリストが十字架につけられ発せられた十字架上のことばを紹介しながら、十字架の意味を深く探っていきましょう。

 十字架刑は、両手両足に釘が打ち付けられ、死ぬまで苦しみもだえなければならない残酷な処刑でした。イエス様がその十字架につけられると何と兵士たちはくじを引いてイエス様の着物を分はじめました。十字架の周りには当時の指導者たち、兵士たち、そうした人たちが容赦なくイエス様に罵声を浴びせかけていました。

 壮絶な痛みと苦しみの中でイエス様が最初に発したことばはどのようなものだったのでしょう。何とイエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と、とりなしの祈りのことばを語られたのです。

 人は死が迫っているときにはその人の心の内側が見えてくるものです。イエス様がただ口だけですばらしいことばを語るだけの人なら、死と苦しみの前で彼らを呪うことはしても、とりなしの祈りをすることなどなかったでしょう。

 ところで日本語で「ゆるす」という漢字は二つありますね。許可するの「許」の部分、そしてもう一つは恩赦ということばがありますが、その「赦」の部分ですね。許可するということばに使われる「許す」というのは、条件さえそろえば許されるということです。一方、恩赦の「赦」は、許してはいけないものを特別に赦すという時に使われます。

 罪は本来、許されることがないものです。例えば、おまわりさんが「泥棒しても許しましょう。人を殺しても許しましょう。」と言ったらどうなりますか? 無法地帯になります。神様は正義の神様ですから、どんな小さな罪も許すことはなさいません。本来、人は自らの罪のために神様の前に有罪判決を受けても文句を言えない存在なんです。

 しかし神様は私たちを愛しておられるので御子イエス様を送ってくださいました。そして罪のないイエス様が私たちの身代わりとなって十字架にかかり、罪の罰をすべて受けて下さったのです。だからここに私たちの罪が赦されるという道が開かれていったのです。
      (PBA制作「世の光」2021.4.26放送でのお話しより)
 ***

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■使徒16章 自害してはいけない / 福井 誠

2021年10月09日 | Weblog

2021/4/24放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日は、使徒の働き16章28節から「自害してはいけない」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「パウロは大声で『自害してはいけない。私たちはみなここにいる』と叫んだ。」

 昨日、キリスト教会初めての公会議エルサレム会議のお話しをしました。その後パウロはこの成果をアンティオキアの教会に伝えるために出発し、さらにその足で二回目の伝道旅行へと出かけています。およそ距離として1700km、東京を起点にすると九州桜島まで出かけ、折り返して福岡あたりまで戻ってきたような感じでしょうかねえ。

 昔は徒歩の旅で約44日間かかったとされています。しかしそのように靴底をすり減らして福音を語り続けるパウロのような人がいたからこそ今日のキリスト教もあったというわけですねえ。

 この箇所を読みながら感謝の思いが湧き上がるのは私ばかりではないでしょう。ともあれ、その旅は気楽なものではありませんでした。反対にあうのみならず牢獄に入れられ、鞭を打たれることもある、そんなエピソードの一つが記録されています。

 牢獄の中で真夜中に神を賛美するパウロ、鞭打ちの後が病んで眠れなかったのかもしれませんね。賛美しながら神と心を通じ合おうとし、この苦難を乗り越えようとするパウロの心を感じる所です。その時突然、大地震が起こり、牢獄の扉が全部開いてしまう大事件が起こりました。

 看守は責任を感じ自害しようとします。神を仰ぎ苦難を乗り越えようとするパウロと、神を知らず地上の出来事で自分の運命を決定しようとする看守が対象的ですね。パウロの大声が響きました。「自害してはいけない。」

 人は、お先が真っ暗という事態が生じた時にしばしば死を選ぶことがあります。しかしどんなに絶望的な崖っ縁に追い詰められたとしても、いのちある限り可能性はあると考えたいものですねえ。

 パウロにとって鞭打ちの傷が病む現実も、神が生きておられる現実も、同じように確かでした。ぜひ聖書通読を続け、神のことばに力を受けて人生を進みたいものです。

 では今日も良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.4.24放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■使徒15章 主イエスの恵みによって救われる / 福井 誠

2021年10月08日 | Weblog

2021/4/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日は使徒の働き15章11節から「主イエスの恵みによって救われる」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」

 15章はキリスト教会にとっては初めての会議の記録です。それはガラテヤ書にあるテーマ「信仰によって人は神に義と認められる」という基本的な教理についての議論であり、キリスト教会が公に原則を確認しあった歴史的に大変重要な出来事でした。

 そもそもの発端は、ユダヤ教的な背景で生まれ育ったユダヤ人のキリスト者がそのような背景のない異邦人のキリスト者の救いについて、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と異議を唱えたことによるものでした。しかしそれは聖書的な考え方というよりも、聖書の教えに自分たちの文化を付け加え、異邦人に押し付けようとする行為でした。

 こうして救いの本質の理解をめぐって教会に議論が持ち上がったのです。そしてこの問題に決着をつけるために教会は会議を開きました。激しい論争の後、ペテロが自らの経験と現実に教会に起こっている出来事に訴えて、異邦人がユダヤ人の文化に倣わずとも救われている事実を示します。そしてバルナバとパウロが、ペテロの話を裏付ける主の異邦人に対するみわざを語っています。

 最後に、エルサレム教会の指導的な立場にあった主の兄弟ヤコブがまとめています。神の与える救いにどんな民族的、人種的、文化的な要件も加えないこと、ただそれらに配慮すべきことが語られていますねえ。

 確かにキリストの十字架にある罪の赦しは完全なものであり、何一つこれに付け加えるべきものはありません。神はただ恵みによって、つまりイエスの十字架のわざのみによって私たちを受け入れて下さったのです。私たちの育ちや家柄、行い、熱心さ、何一つ関係がありません。そうであるからこそ救いは大きな喜びでもあるのですね。

 では今日も良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.4.23放送でのお話しより )


******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
******  
 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする