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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■マリアの信仰/羽鳥頼和

2015年12月19日 | Weblog
2015/12/19放送


 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イザヤ書 9章6節

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
今週はクリスマス・スペシャルとしてお送りしています。今日は有名な受胎告知の場面から、マリヤの信仰についてお話します。

 御使いガブリエルがナザレという町のマリヤの所に来ました。御使いはマリヤに言いました。
 「おめでとう、恵まれた方。」(ルカ 1章28節)

 マリヤがひどく戸惑っていると御使いは言いました。
 「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。・・・あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」(ルカ 1章30節、31節) 

 マリヤは言いました。
 「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ 1章34節)

 御使いは言いました。
 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方(神)の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、・・・神の子と呼ばれます。・・・神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ 1章35節、37節)

 御使いのことばを聞いてマリヤは言いました。
 「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ 1章38節)

 驚くべきことばです。その通りになればマリヤは世間の厳しい目にさらされることになります。ふしだらな女のレッテルを張られ、村八分になるかもしれません。しかしマリヤは「私は主のはしためです。おことば通りこの身になりますように。」と言いました。どうしてこう言えたのでしょう。それはマリアが神を絶対的に信頼していたからです。それがマリヤの信仰だったのです。普通の出産でも大変で不安を感じるのに、神の子を宿すなど人知をはるかに超えたことで、不安どころか恐ろしくて受け入れがたいことです。しかしマリヤは受け入れました。それは神を信頼したからです。このようなすごい信仰をなぜマリヤは持つことができたのでしょう。それはマリヤが自分をはしため、つまり召使いと認める謙虚な人だったからではないかと私は思います。謙虚にへりくだるマリヤに神が信仰を与えてくださったのです。

 神はあなたにも信仰を与えてくださいます。明日は日曜日です。キリスト教会ではクリスマスの礼拝を行います。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.12.19放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■平和の君である方/岩井基雄

2015年12月18日 | Weblog
2015/12/18放送

 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イザヤ書 9章6節

 世の光の時間です。クリスマスおめでとうございます。岩井基雄です。
今年一年は今まで以上に平和が問われ祈られた一年でしたね。戦後70年という節目を迎え、政治の面でもまことの平和が求められた年でした。しかし今もなお世界各地に多くの悲しみがありますね。

 旧約聖書の預言者イザヤの時代も、神の民イスラエルを取り囲む環境は厳しく、北王国イスラエルは大国アッシリヤにすでに滅ぼされ、南王国ユダにもその脅威が及ぼうとしていました。闇の中で人々が救いや平和を求め祈る中、神様は救い主の誕生の預言をイザヤを通して人々に与えられたのです。

 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」旧約聖書イザヤ書 9章6節  

 そしてこの預言の通りに救い主イエス・キリストはダビデの町ベツレヘムに誕生しました。「力ある神」ご自身であり、「平和の君」である方が、王宮にではなく小さな町の片隅の家畜小屋でお生まれになったのです。しかしそれこそ平和の君にふさわしいことでした。「不思議な助言者」はワンダフル・カウンセラーと英訳されます。この救い主は人々の苦しみや悲しみに寄り添い、一緒に人々の苦しみを味わい、慰めてくださる方です。そればかりではなく、私たち人類の罪の裁きをすべて身代わりに受けてくださるためにこの方は生れてくださったのです。それこそ「平和の君」にふさわしく真の平和をこの地にもたらす歩みでした。また「不思議な助言者」は「驚くべき指導者」とも訳すことができます。キリストは真の平和といのちへと私たちを導いてくださるまことのリーダーなのです。この方は命がけであなたを愛し、まことの平和と本当のいのちをあなたに与えてくださいます。あなたも本物の平和といのちをこの方イエス・キリストを通して豊かに受け取っていきませんか?

(PBA制作「世の光」2015.12.18放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■みどりごが生まれる/福井 誠

2015年12月17日 | Weblog
2015/12/17放送

  「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イザヤ書 9章6節

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「みどりごが生れる」です。

 今日はクリスマス特番ということですが、これまで私の担当のメッセージではイザヤ書を連続して取り上げてきましたので、今日もこのままイザヤ書からイエス様のご降誕の恵みについて共に覚えて参りたいと思います。

 先程読んでいただいた箇所は有名なイエス・キリストの降誕の預言として知られているところですねえ。「ひとりのみどりご(※嬰児)が生まれる。」 お近くに聖書のある人はぜひ聖書を手に取って読んでみていただきたいと思いますが、イザヤはこの預言のすぐ前に、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。」(イザヤ書 9章2節)と述べていますねえ。このみどりごは闇の中を歩んでいる民には大きな光を与える希望の的となる、というのです。

 この預言が語られた時、実際どんな闇があったのかと思わされるところですが、それはアッシリヤという強大国にイスラエルが存続を脅かされた時代です。戦争の社会不安によって人々が落ち着かない気持ちにさせられていた時のことですねえ。もはや70年も平和を維持し、平和の真っ只中に生まれた人々には、そんな闇も不安もあまりピンと来ないかもしれません。けれどもそのような大きな事柄でなくても、私たちには、本当に闇の中を歩んでいる、この闇を抜けきれない、全く希望がない、と思いながら生きている人もいるのではないでしょうか。そういう中でイザヤの預言は、人生を決して諦めてはいけない、2000年前にお生まれになった一人のみどりご、つまりイエス・キリストは今の私たちにも希望を与えてくださるお方なのだと語りかけているのです。このイエス・キリストは確かにあなたの救い主であることを知っていただくために、ぜひこのクリスマスの時期にお近くの教会へ行って、聖書の話に耳を傾けていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2015.12.17放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■その名は不思議/板倉邦雄

2015年12月16日 | Weblog
2015/12/16放送

  「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イザヤ書 9章6節

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 「名は体を表す」と言われます。名前はその者の本質を表しています。イエス様の名前は、四つありました。「その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」 そこで今日は一番めの名前、「不思議な助言者」、英語ではワンダフル・カウンセラーと訳されているその名前を紹介しましょう。

 イエス様の言動は不思議であり、驚かされることばかりでした。いくつかの不思議な言動を紹介しましょう。

 まず第一、「丈夫な人には医者は要らない。要るのは病人である。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためにきた。」(参照マルコ 2章17節) 
 罪人である私たちをあたかも病人と同じように見ていてくださるということです。不思議なカウンセラーですよねえ。 

 第二、「わたしについてきたいと思うなら自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしについてきなさい。自分のいのちを救う者はそのいのちを失い、わたしのためにいのちを捨てる者はそれを得る。」(参照マルコ 8章34-35節)
 このイエス様のことばは、この世界には自分のいのちよりも大事で価値があるものがあるよ、とおっしゃっているのです。不思議な人生の助言者ではありませんか?

 第三、「先の者は後になり、後の者は先になる。」(参照マタイ 19章30節、マタイ 20章16節、マルコ 10章31節 )
 これは私たちの人生レースにはいつも逆転のチャンスが誰にでもあります、とイエス様は不思議な助言をしてくださいました。私たちへのイエス様からの応援歌のように私は聞こえるのです。

 以上、三つの助言のことばを紹介しました。
 イエス様は四つの福音書の中で、沢山の不思議で素晴らしい助言、カウンセリングをしてくださっています。このクリスマスの時、このラジオを聴いていますお一人おひとりの心と生活の中に、不思議な助言者、ワンダフル・カウンセラーでありますイエス様のことばが生まれますように、心から願っています。

 (PBA制作「世の光」2015.12.16放送でのお話より )

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■ヨセフを変えた神の夢 3 /大嶋重徳

2015年12月15日 | Weblog

2015/12/15放送


 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イザヤ書 9章6節

 世の光の時間です。クリスマスおめでとうございます。大嶋重徳です。

 聖書には婚約者マリヤの妊娠に思い悩み、婚約を破棄しようとするヨセフに夢の中で現れた主の使いの物語が出てきます。主の使いはヨセフに語ります。
 「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスと名付けなさい。」 イエスとはギリシャ語で「神はわが救い」という意味です。主の使いはヨセフに、マリヤのお腹の中にいる子どもに、ここに神の救いがある、と名付けなさいと語ったのです。まさにお腹の中の子どもこそヨセフの抱えている恐れの中心でした。主の使いは、あなたが今恐れているこの出来事の真っ只中に神の救いがあるのだ、「神はわが救い」と名付けることのできる神様の救いがあるのだと語ったのです。

 この出来事をさらに聖書はこう語ります。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 「神様が私たちとともにおられる」とは、私たちが順調で信仰的に恵まれて感謝ができる時にだけ神がともにおられるのではありません。むしろ私たちが孤独で一人で悩み、自分と子供たちの将来の不安の真っ只中にこそイエス様が確かにいてくださるのです。だからこそ、どこに神様がおられるのだろうかとしか思えない状況に陥ったとしても、私たちは恐れの中心にいてくださるイエス様に出会うことができるのです。そして不安の只中でも、「イエス様」と口にしながら、今まで見えていなかった、でも確かにすでに私たちともにいてくださるイエス様を見いだしていくことができるのです。

 ヨセフはその後、「イエス、朝ご飯だよ」と声をかけ、「イエス、お父さん仕事に行くよ」「イエス、もう寝なさい」と日常のありとあらゆるところで「神はわが救い」と口にすることとなったのです。

 ヨセフは日常の至る所に、神の救いはある、と叫び続けました。私たちは今日、どこに「イエス」「神はわが救い」と名付けることのできる一日を過ごせるでしょうか。悲しみ迷い戸惑いの中に、確かにともにいてくださるイエス様を見いだしていけるクリスマスを過ごしていきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2015.12.15放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■光り溢れて/関根弘興

2015年12月14日 | Weblog
2015/12/14放送


 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イザヤ書 9章6節

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
 
 瞬(まばたき)の詩人と言われた水野源三さんという方がいらっしゃいます。彼は九歳の時、赤痢による高熱のために脳性麻痺になってしまいました。体中が麻痺し、コミュニケーションの手段は瞬きするだけです。五十音の表を指さしてもらい、瞬きで合図しながら一語一語話していくのです。そんな彼は十二歳の時に聖書と出会い、クリスチャンになりました。そしてたくさんの詩を書いていきました。

 彼は手記の中でこんなことばを書いています。
 「三十三年前、脳性麻痺になった私は神様を恨みました。でもそれがキリストの愛に触れるためと知り、感謝と喜びに変わりました。」

 そして彼はこんな詩も書いています。
 「ありがとう。物が言えない私はありがとうの代わりに微笑む。朝から何回も微笑む。苦しい時も悲しい時も心から微笑む。」

 人は誰もが悲しみを知り、痛みを経験します。時には絶望の涙を流し、先が全く見えなくなってしまうような時もあります。微笑みがどこか失われていく、もう生きていくこそさえ嫌になってしまう、そんなこともありますよね。先ほど紹介した水野さんもそんな中を通られたようでした。でもこの方の詩を読むと、神を恨み、人を恨んで生きる姿ではなく、微笑みが与えられていく姿がそこにあるのです。

 新約聖書マタイの福音書4章16節に、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」とあります。これは救い主イエスキリストが暗闇に覆われている所に、その真っ只中に来てくださる、という約束の言葉なんです。

 クリスマスは悲しみや弱さ、恐れや絶望に囲まれている真っ暗な真っ只中に光が差し込み、生きる勇気と希望が与えられる時なんです。救い主をあなたの人生にお迎えするときに、あなたの中に光がともるのです。それは必ず微笑みに繋がっていきます。

 (PBA制作「世の光」2015.12.14放送でのお話しより)

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■荒野のぶどう、いちじくの初なりの実/羽鳥頼和

2015年12月12日 | Weblog
2015/12/12放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

 先週と今週の土曜日は旧約聖書のホセア書からお話しています。預言者ホセアが活動した時代、人々の信仰も道徳もどん底まで堕落していました。神はそんな彼らを怒(いか)り、罰すると宣言されます。しかし神は初めから怒っておられた訳ではありません。ホセア書9章10節にはこのような神のことばが記されています。
 「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた。

 「荒野のぶどうのように見た」というのは荒野で喉が渇いている人が甘いぶどうを見つけて心から喜ぶように、イスラエルが荒野の旅をしていた頃、神は喜びをもって人々を見ていたことを教えています。

 「いちじくの木の初なりのように見ていた」というのは二つの喜びがあります。まず、おいしい無花果の初物を見つけた特別な喜び。もう一つの喜びは、初物を見てこれから無花果がたくさん取れるだろうという期待です。神は人々を特別なものとして喜びと期待をもって見ておられたことを教えています。

 ところが神にこんなに愛されていた人々は、その神を裏切り、他の神々を慕ったのです。神が怒られるのは当然ではないでしょうか。神は罪を見逃すことなく、厳しく罰するお方です。しかし神はただ怒るわけではありませんでした。神は怒るのに遅く、恵み豊かな方です(参照 出エジプト記 34章6節)。人が神のことばを聞き、もし自分の罪を認めて神に救いを求めるなら、神は救いを与えられます。

 イエス・キリストも言われています。
 「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(参照マルコ 1章15節)と。

 どんなにひどい罪を犯しても、その人がその罪を悲しんで後悔し、もう罪を犯したくないと思い、神に救いを求めるなら、神は救いを与えてくださいます。自分の罪を悔い改めることが人に救いをもたらします。

 旧約聖書のイザヤ書55章7節に、悔い改めることのすばらしさが教えるています。
 「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

 明日は日曜日です。神のもとに帰りましょう。お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.12.12放送でのお話より )
 
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■神は覚えていてくださる/岩井基雄

2015年12月11日 | Weblog
2015/12/11放送


 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。月の第2週の金曜日は旧約聖書に登場するヤコブの人生について学んでいます。ヤコブとその家族は様々な苦難を通して神様に取り扱われていきましたね。私たちの人生の中にも、さまざまな苦難や葛藤があります。自分の誕生や命を喜ぶことができない人もいらっしゃれば、深刻な不妊の悩みや痛みを抱えるご夫婦もいらっしゃるでしょう。

 ヤコブには二人の妻レアとラケルがおり、この二人は姉妹同士でしたが、二人の間には様々な争いがありました。姉のレアには次々に子どもが与えられましたが、夫ヤコブの愛情を受けることはできなかったのです。それに対して、妹のラケル美しく、夫の愛を受けていましたが、自分の子どもは与えられなかったのです。

 現代でもこの赴任という悲しみは小さくありませんね。でも当時のイスラエルではこの不妊の悩みはまるで神様に見捨てられたのではないかと思うような深刻な事態だったのです。しかし聖書はこう語っています。
 「神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。」   旧約聖書 創世記30章22節

 姉のレアが次々に6人の子どもを与えられる中にあって、ラケルはどれほどの心の痛みや焦りを覚えていたことでしょう。神様に自分は見捨ててしまったのではないかと思うような現実でしたが、命と愛の主権者でいらっしゃる神様は、ラケルを覚えていらっしゃり、また彼女を憐れんでくださったです。女奴隷を通してあるいは恋なすびなどの様々な人間的な方法によらず、ただ神様の憐みと恵みによってラケルは子どもを授かったのです。
 ラケルは長く待つ必要がありました。待つということ自体困難なことですが、その中で神様は私たちの心を整えてくださいます。問題の根っこは神様にではなく、私の心にあることが多いのです。思い煩わずに神様に委ね、困難な状況の中でこそ静まり、心から主権者なる神様のみわざと憐みを待ち望む者とさせていただきまませんか? 神様はあなたを覚えていらっしゃいます。

 聖書のことば
 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 新約聖書 ペテロ第一の手紙 5章7節



(PBA制作「世の光」2015.12.11放送でのお話しより)

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■主は、私を助ける / 福井 誠

2015年12月10日 | Weblog
2015/12/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主は私を助ける」です。それではイザヤ書50章7節から読んでみましょう。
 「しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。

 イザヤは神のことばを伝えています。
 「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。」(イザヤ書50章1節)
 母親というのはエルサレムの喩えですね。つまり神がエルサレムに対して突きつけた離婚状はどこにあるのか、そういうものはない、と言うのです。

 当時戦争に破れ、他国の捕虜となったイスラエルの民は、自分たちがもはや離縁され見捨てられたように感じていた訳ですねえ。しかし神は、「そんなことはない。あなたがたが国を失い、どんなに惨めな状況にあろうとも、離縁され見捨てられた訳ではない。」と。

 またイザヤはもう一つの神の喩え、奴隷の喩えを伝えています。

 「わたしがあなたを売ったというのなら、その債権者は誰なのか。」(参照 イザヤ書50章1節)と。

 当時のイスラムの民は惨めな自分たちの状況を、奴隷に売られたように感じていました。確かにそのような状況があったとしても、神はそうではない、行くあてのない人間を神が見放すだろうか、と言うわけですね。

 人は人を見放すことがあります。野垂れ死にしようが構わない、と見捨てられることがあるものですねえ。自業自得、自分で不運を掴んだのだろう、と滅び行く人々には冷たいものであったりします。

 しかし、神は神であって人間ではないのです。神は今まさに滅びようとしている人々、悩みの中にある人々を見捨てられることはない、と言います。ですからむしろ、うなだれた顔を上げて神を呼び求めるように、自分の元に戻って来るように招いておられるのです。神を固く締め出す心の性質を認めて、むしろ心の扉を開けて、神を求めることが大事ですね。

 イザヤも自分の確信を語っています。
 「しかし、神である主は、私を助ける。」と。「だからいつまでも恥いっていてはいけない。」と。 (参照 イザヤ書50章7節)

 望み得ない時にこそ、私たちの人生に介入し私たちの歩みを救い出してくださる神に心を向けていきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2015.12.10放送でのお話より )

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■神を試みる/板倉邦雄

2015年12月09日 | Weblog
2015/12/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。 今日は「神を試みる」という題でお話ししましょう。

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「神を試みる」という題でお話ししましょう。

 神を試みるとはどういうことなのでしょうか。今日はその事を一緒に考えてみましょう。出エジプト記17章に入ります。
 
 さて、イスラエルの人々は主なる神様の命令に従ってシンの荒野を出発し、旅路を重ねてレピデムに宿営しました。ところが着いてみると、また飲み水がありません。またもや人々の不満が爆発しました。人々は指導者モーセに食ってかかったのです。
 「水はどこですか、水をくれ。」

 モーセは答えて言います。
 「いい加減にしなさい。一体どこまで神様が忍耐してくださると思ってるんだ。なぜ神様を試みるのか。」

 しかし喉の渇きに苦しむ人々には一向に効き目がありません。
 「何だと、お前こそ、なぜ俺たちをエジプトから連れ出したんだ。こんな所まで連れてきて。渇きで死なせようなんて、ひどいじゃないか。」

 この時モーセは主なる神様に叫んで祈りました。
 「神様。私はどうしたらいいのでしょうか。人々は今にも私を石で打ち殺そうといきり立っているのです。」

 すると主なる神様はモーセの切なる祈りに応えてくださいました。
 「あなたは人々の前に進みゆくのだ。イスラエルの長老たちを伴って。あなたがナイル川を打った杖を手に取っていきなさい。わたしはホレブの山・シナイ山の岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水が裂けた岩から出て、人々はその水を飲むことができる。」
 
 モーセはイスラエルの長老たちの目の前でそのように行なったのです。

 さて主なる神様を試みるということはどういうことでしたか?
 「神様が私たちと共にいるんだったら飲み水を出せるだろう。もし水を出せないんだったら神様なんかいやしない。」

 悪魔はイエス様をエルサレムの都に連れて行って神殿の頂上に立たせたことがあります。そしてこう言ったのです。
 「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりられるでしょう。」

 イエス様は静かに悪魔に言われました。
 「『主なるあなたの神を試みてはならない』(とまた書いてある)」 マタイの福音書4章の5節から7節

 (PBA制作「世の光」2015.12.9放送でのお話より )

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