世の光の時間です。 お元気でしょうか? 村上宣道です。
えー、私は田園風景が残ってるような所に住んでるものですから、この時期になってもたくさん実をつけた柿の木を見るんですね。 柿の木のある風景というのは日本の秋そのものという感じで失いたくないものの一つではないかなあと思ったりするんですけれどもねえ。
柿と言えばこんな言い方がありますねえ。 「桃栗三年、柿八年」ということばですねえ。 桃や栗は植えてから三年で実がなって食べられる。 ですけど柿は八年かかるっていうんですね。 で、桃や栗の三倍近くかかったんで、やっと実がなったというので食べると渋いって訳ですねえ。 おかしいなあ、甘柿の種を植えたはずなのに何で渋いんだろう、っていうふうに思って。 ですけどこういう句があるそうですけれども、「渋柿や丸八年の恩知らず」というね、八年もかかっておいてせっかくなったと思ったら渋柿じゃないか、というようなことですねえ。 そういう言い方があるそうですけれども、ははあ、きっとこれは手入れが悪かったんだ、日当たりが悪かったかもしれない、って言って植え換えたり、そして水が足りなかったかなあって水をたくさんやったり、肥料をたくさんやれば甘くなるかなあって肥料をたくさんやったら甘くなるか、というとならないっていう訳ですね。 甘柿の種は植えてもそこから生えてきた木は、そしてその木になる実は絶対に渋柿でしかない。 その渋柿に甘い実を実らせるためには接ぎ木するほかないというふうに言われている訳ですね。 何かその「渋柿や丸八年の恩知らず」ってのは人間にもあてはまるような気がしてですねえ。
私は牧師の家庭に育ちました。 甘柿の種と言えば言えるんじゃないかと思うんですけれども、大きくなってみたら自分の中にあるのは本当につぶやきとか不平とかですね、悪いことをするようなそういう「このガキャー」って言われるようなそういう者であったことを思うんですね。 でも聖書の中で、だれでもキリストに接がれるならば、キリストに結ばれるならば、その人は新しく造られた者になるっていうふうに書いてあるんですね(2コリント人への手紙5章17節参照)。 で、私たちは自分でたとえば教育とか環境を変えたりしたとかいうようなことで人間は本質は変わらない、新しくはならない。 でもキリストに接ぎ木してもらうならばキリストの愛といのちによって内側からその人の人生が変えられていくという、これは素晴しい福音だと思いますねえ。
( PBA制作「世の光」2009.11.2放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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