小沢・デニー氏は呉屋氏に選対委員長を再度依頼して断られたのではないか

小沢・デニー氏は呉屋氏に選対委員長を再度依頼して断られたのではないか
 自由党の小沢一郎代表は24日、玉城デニー衆院議員とともに、那覇市内の県内建設大手・金秀本社を訪問して、金秀グループの呉屋守将会長に会った。産経新聞は、小沢氏が知事選に向けた支援を要請したとみられると書いてあるが、呉屋氏はデニー氏を応援することはすでに話している。わざわざ東京の小沢氏が沖縄まできてやるほどのものではない。小沢氏が急遽沖縄に来て呉屋氏に会い支援を頼みにきたというのは変である。そんなことは選挙が始まってから、沖縄の有力者にデニー氏支援を頼んで回る時にやればいい。
 なぜ、小沢氏がデニー氏と一緒に呉屋氏にあったのか。
 考えられるのは、呉屋氏が選対委員長になってくれるように説得することをデニー氏が小沢氏に頼んだので、急遽小沢氏は沖縄にやって来て呉屋氏と説得したのではないかということである。それ以外に小沢氏が呉屋会長に会った理由は考えられない。
 デニー氏としては政界の大御所である小沢氏が頼めば呉屋氏が選対委員長を引き受けてくれるかも知れないと考えたのだろう。わずかな望みを小沢氏に託したのである。
 しかし、小沢氏の説得でも呉屋氏は引き受けなかった。

 4年前翁長知事が立候補した時の選対委員長が呉屋氏であった。4年前の翁長候補の選挙運動は奇妙なものであった。保守と左翼の選挙運動は別々に展開した。保守と左翼が一緒になって選挙運動をすることはなかった。
保守の選挙運動を卒戦したのが選対委員長の呉屋氏であった。呉屋氏は事業家を選挙に協力させて多くの保守票を確保した。
9月の30日の知事選でも保守票の確保が当落を大きく左右させるとデニー氏はン考えているだろう。保守票を確保するには保守派の大物が選挙委員長にならなければならないが、その人物は呉屋氏だけである。デニー氏はどうしても呉屋氏に選対委員長になってほしかった。だから、小沢氏に呉屋氏説得を依頼したのである。
 しかし、小沢氏の説得でも呉屋氏は首を縦に振らなかった。
どうしても保守系の大物が選対委員長にならなければ知事選には勝てない。保守系の大物といえばかりゆしグループの平良朝敬氏と呉屋氏である。平良氏はすでに自由投票することを宣言している。選対委員長になってくれる可能性がある保守系大物は呉屋氏のみである。その呉屋氏が小沢氏の説得でも選対委員長になることを断った。

 小沢氏とデニー氏は呉屋氏と話し合うことで初めてオール沖縄の分裂状態が修復不可能なくらいに深刻な状態であることを知ったのではないだろうか。

 知事選で勝つのは非常に困難である現実を呉屋氏との会話で初めてしった小沢氏とデニー氏だっただろう。

 当選する可能性が五分五分であったらデニー氏は出馬するだろう。四分六分でも必死に頑張れば当選するという気持ちで出馬するかも知れない。しかし、三分七分だったら出馬するかしないか非常に迷うだろう。
 呉屋氏との話し合いでデニー氏は知事選勝利の確率が三分七分くらいであることを認識したのではないだろうか。

 落選する可能性が高くても出馬するか否か・・・。

26日に出馬する記者会見を行う方向で調整していたデニー氏であったが、小沢氏と一緒に呉屋氏と話し合った24日のその日に沖縄市で記者団に「27日に上京し、小沢一郎代表と(出馬の)最終確認をし、28日に各党にあいさつに行きたい」と話した。26日の県知事選出馬の記者会見はなくなったのである。その場に沖縄に来たはずの小沢氏は同席していなかつた。小沢氏は呉屋氏と会った後にすぐに東京に帰ったのだろう。そのことからも小沢氏が呉屋氏に会ったのは選対委員長を引き受けてくれるように説得するのが目的であったことが予想できる。

 落選覚悟で県知事選に出馬するか否か。呉屋氏に代わる保守系の大物を選対委員長にすることができるか否か。落選してもデニー氏や自由党にどれほどのメリットがあるか否か。落選した時に衆議院に復帰することができるか否か。出馬することを匂わせたのに出馬しないと言えるか否か。
 デニー氏は悩んでいるだろう。

翁長知事がデニー氏に後継を期待したという左翼県政与党によって流された噂に感動して、知事選に出馬する方向に心が動いていたデニー氏であるが、選挙の厳しい現実に直面し迷っているだろう。

異常をブログに掲載した後に琉球新報の次の報道を見た。

県政与党の候補者選考を進めてきた「調整会議」から出馬要請を受けた玉城氏は、所属する自由党の小沢一郎代表が24日、情勢把握のため急きょ沖縄入りした。小沢氏は呉屋守将金秀グループ会長、調整会議の正副議長と新里米吉県議会議長、大城紀夫連合沖縄会長らと面談し、沖縄の政治情勢や選挙戦の取り組み方について意見を交わした。
小沢氏は記者団に「非常に熱心に誠意を持ってデニー君を推していることは確認できた。国政の政治上の問題が懸かった選挙であり、中央の政党にもきちんとした決定をしてもらわないといけない」と述べ、選挙支援の態勢を判断した上で玉城氏の出馬について党の結論を出すとした。
        琉球新報
小沢氏が呉屋氏とだけあったというのは私の間違いであった。ただ。呉屋氏に選対委員長になってくれるように説得したこと、呉屋氏との話でオール沖縄の分裂が厳しい状況であることは感じたと思う。


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翁長知事が健康で出馬しても落選する運命にある



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翁長知事が健康で出馬しても落選する運命にある
 9月30日の県知事選挙に玉城デニー氏は立候補する予定であるが、彼が当選する可能性を検討する前に、翁長知事が健在であり翁長知事が出馬したとして当選するかどうかを検討してみよう。
 
 ずっと県外移設を主張していた翁長知事は4年前に知事選に勝つために普天飛行場の閉鎖・撤去を主張していた共産党・社民党、社大党と共闘して辺野古移設反対を選挙公約にして知事選挙に勝利した。
4年前の知事選挙で仲井眞氏に10万票の大差をつけて翁長氏は大勝したとよく報道されるが、本当は大勝したとは言えない。10万票差の計算の仕方には裏がある。4年前の知事選は仲井眞氏と翁長氏の一対一の対戦ではなかった。一対一の対戦だったら10万票差は正確な計算と言えるが。4年前の知事選立候補したのは2人ではなく4人居た。翁長雄志氏、仲井眞弘多前知事、下地幹郎氏、喜納昌吉氏の4人である。

選挙結果
翁長雄志 360,820票
仲井眞弘多 261,076票
下地幹郎   69,447票
喜納昌吉   7,821票

 翁長氏と仲井眞氏の差は確かに10万票に近いが今年の知事選では下地氏は自民党の佐喜真候補を支持する。とすれば4年前の知事選で獲得した下地氏の票は仲井眞氏の票に加えることができる。そうすると翁長氏と仲井眞氏の差は3万票差になる。4年前の知事選を翁長氏との仲井眞氏との票差の10万票として計算するのではなく、仲井眞氏+下地氏の差の3万票として計算するべきである。

 「イデオロギーを腹八分六分にして沖縄アイデンティティで共闘する」と過去になかった新鮮なキャッチフレーズで自民党のリーダーでありながら共産党、社民党の左翼党政党と共闘した翁長立候補の人気は一気に盛り上がった。沖縄アイデンティティは一大ブームになった。だから、仲井眞前知事に10万票差で大勝したとの報道は当然であるように沖縄・本土に広まった。しかし、あれだけの大ブームを起こしながらも本当はたった3万票差だったのである。
 4年間の翁長知事の県政は3万票差を維持しているから、それとも差を広げたのか、逆に逆転されたのか。この検証が必要である。

 当選した翁長知事は徹底して辺野古移設工事を阻止するのに狂奔した。承認取り消しは最高裁で違法行為であると判決が下った。それでも翁長知事は「阻止にあらゆる方法を駆使する」と宣言して辺野古飛行場建設の阻止に固執した。翁長知事の4年間は辺野古飛行場建設阻止に狂奔した4年間であった。県知事でありながら辺野古以外の問題に取り組んだというイメージは県民にはないだろう。
 翁長知事を支持していた県民は4年前と同じように翁長知事を支持しているだろうか。辺野古飛行場建設阻止に固執し続けた翁長知事に愛想を尽かした県民は多いだろう。

 大田知事の後、稲嶺知事8年、仲井眞知事8年と保守自民党が16年間知事の座に居た。共産党、社民党、社大党の左翼政党が県政失って16年経っていた。4年前の知事選では左翼政党単独の立候補では自民党に勝てないことははっきりしていた。左翼政党は県民の支持を失っていたのである。
県民の支持を失った原因は米軍基地反対、自民党政権反対に徹していたからである。米軍基地反対、自民党政権反対の知識人、文化人は多いし、左翼政党を支持する県民も多かったが、時代の流れは変わり、平和で経済が豊かである社会が続いている近年は左翼政党を支持しない県民のほうが増えていった。次第に左翼政党支持率は落ちていった。それが沖縄の時代の流れである。

 翁長知事がこの4年間でやったことは辺野古移設阻止がほとんどであった。沖縄アイデンティティは見る影もなくなっていった。過去の左翼知事でさえ翁長知事のように反基地運動に埋没していった知事はいなかった。
 翁長知事であっても、
「あらゆる方法を駆使して辺野古基地建設を阻止する」
の選挙公約だけでは知事選に勝てなかったはずであねる。4年前の翁長候補が強調したのは「イデオロギーよりアイデンティティ」であった。イテオロギーの塊である共産党ともアイデンティティの力でイデオロギーを解きほぐし、仲良くやっていくというイメージを県民に与えたから翁長候補当選したのである。
辺野古基地建設阻止に固執した翁長知事の4年間はアイデンティティではなくイデオロギーの塊になっていた。亡くなる寸前の承認撤回宣言はイデオロギーそのものであった。翁長知事の沖縄アイデンティティの精神はすでに消えていたのである。

 保守の面影は消え、共産党、社民党、社大党などの左翼政党の化身になってしまったのが翁長知事であった。そんな翁長知事を県民が4年前と同じように支持していたとは考えられない。

 時代の流れの中で左翼政党は支持を失ってきた。それは米軍基地反対に固執し、自民党政権とは一方的な対立をしてきたからである。そして、米軍基地がなくなると沖縄は平和で豊かになるをひたすら繰り返すだけで、県民の生活を豊かにする経済政策を提案することはなかった。それが左翼政党が県民支持を失っていった大きな原因である。左翼政党の化身となった翁長知事は左翼政党と同じように支持を失っていただろう。

翁長知事が健康で知事選に出馬したとしても落選するというのが私の見解である。翁長知事のように辺野古基地建設阻止だけに異常に固執するような県知事は過去に居なかった。左翼政党が擁立した大田知事であったが、沖縄観光を発展させるための経済政策をやっていた。米軍基地以外の問題にも取りかかっていたのが翁長知事であった。翁長知事のように辺野古基地建設阻止だけに固執するような県知事は過去に居なかった。

 玉城デニー氏は県知事選出馬するについて、
「翁長氏のあらゆる遺志を引き継ぎたい」
と語った。玉城デニー氏は翁長知事のあらゆる遺志を引き継ぐことを強調としている。確かに亡き前知事の遺志を引き継ぐというのは美しいイメージではあるが、政治は美しさが通用する世界ではない。翁長知事のあらゆる遺志といっても、翁長知事が固執したのは辺野古基地建設阻止だけであり、翁長知事の遺志を継ぐということは辺野古基地建設阻止だけに固執するということになる。
 翁長知事の遺志を引き継ぐだけでは確実に落選する。デニー氏が立候補する前から落選すると書くのは横暴だと思われてしまうだろうが、復帰後45年間の左翼政党の支持率の後退と4年間の翁長知事の行動を重ね合わせるとデニー氏の落選は確実であると思わざるを得ない。

 名護市長選で左翼の稲嶺前市長が大敗したことも県知事選の参考になる。稲嶺前市長は辺野古基地建設反対を選挙公約にしていた。同じ選挙公約で4年前の市長選では大勝したのに今年は大敗した。辺野古基地建設反対の選挙公約では大敗するのが今年の選挙である。
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