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Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

これが「水源地」!

2007-08-25 00:53:53 | 日記・エッセイ・コラム

コナサン、ミンバンワ!約2週間ぶりの拙ブログです。今年2007=平成19年8月ももう終盤、処暑の時期にも関わらず、厳しすぎる残暑ではある。お互い何とか健康留意の上、次の9月に繋げたいものであります。

さて表日記にても綴っている様にこの盆期間中、岐阜の悪友と共に長野県下へ避暑に参ったのだが、その折に岡谷市の天竜川水源地を訪ねた。長野の名湖「諏訪湖」西岸に位置するこの場所は治水施設「釜口水門」と言う所でもある。湖が水源と言うのは小学生時分より知ってはいたが、まさかこんな街中とは夢想だにしなかった。

釜口水門自体は昭和初期からあるそうで、当時の発想と技術からすれば防災上止むを得なかったのだろう。現在の水門は1988=昭和63年に竣工した2代目で、魚道なども備えてはいるが、過剰設備ではないかと勘ぐりたくなるものがあったのは事実である。高度成長の頃は、諏訪湖も湖沼汚濁の問題に苦しんだ様だ。改善への取り組みは認めるべきだろうが、それでも生活廃水とかは流入している模様で、水面よりはメタンガスの発生している気配も感じられた。

諏訪湖の標高は約760m、同湖に流れ込む川もある事を考えると、ここを厳密に天竜川の水源と呼ぶには向かない面もあるのかも知れないが、それにしても正直やや落胆を禁じえなかった遺憾な光景であった事は認めざるを得ない。次回は天竜川河口の事に少し触れる予定です。最後に、釜口水門の模様をお目にかけます。

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仲間~夏の行路

2007-08-25 00:23:00 | インポート
コナサン、ミンバンワ!

今年2007=平成19年8月ももう下旬、処暑の時期にも関わらず、相変わらずの猛暑が続いています。晩夏の定番、ツクツクホウシや秋の虫の発声練習が聞えては参りますが、涼しい時期はまだ先の様ですね。
当Cafeの知友各位も、暑さにやられて体調を損ねている方もある様です。残暑も後少し、お互い健康留意と言う事で。

さて今夏の拙特集日記、10回目の今夜はローカル鉄道飯田線にて活躍中、もとくは過去に功労のあった電車などの車両の思い出に少し触れようかと思います。

明治年間の19世紀末、生計を求めていた士族の方々により興されたと言われるローカル鉄道飯田線。初期は勿論、蒸気機関車による動力だった様です。20世紀に入り後に名古屋鉄道へと飛躍する当時の愛知電気鉄道との相互乗り入れに際し、同鉄道の強い希望にて電化、電車による運転が本格化した後も、所謂SL、蒸気機関車は貨物列車牽引の使命を果すべく、終戦直後まで残った様です。

電車の方は長野の辰野町にて中央線と接続する当時の伊那電気鉄道にて走ったのが最初で、当初は道路と路盤を共有する路面電車だった模様。
その後北部は飯田方面へ、南部は新城(しんしろ)や湯谷温泉、東栄や佐久間方面へと伸び、昭和に入って200kmに近い当時は我国最長の電気鉄道の出現に至るのであります。

戦前の国有化までは、電力方式が北と南で異なり、飯田近くの天竜峡にて南側は直流1500V、北側は直流1200Vの時代がかなりの期間続いた由。この為全線を直通できるのは、電車でも動力のない所謂付随車に限られ、動力のある電動車は天竜峡の駅にて、あたかも電気機関車よろしく交代をしていた様です。戦中の国有化以降は直流1500Vに統一された為、こうした光景には終止符が打たれる事になりますが。

私鉄だった頃の飯田線は、4社に分かれたそれぞれの会社が独自の車両を新造して運転していた様ですが、直通用の付随車は伊那電気鉄道の車両だった様です。この時代最後の新車は1942=昭和17年に竣成した豊川鉄道の運転台付制御付随車が2両で、当時の名古屋鉄道の車両に近い仕様だった模様。
戦後も暫くは飯田線にて活躍の後、四国高松の私鉄に移り、今世紀の初めまで元気だった話を聞きました。

戦後は旧国鉄の大柄な電車の活躍舞台となります。とりあえずは中間サイズの全長17mの車両から入り始め、続いて1955=昭和30年前後から、首都圏や関西などの大都市圏にて走っていた全長20mの大型車両が続々と姿を現します。
主に大都市の雰囲気を感じさせる片側3箇所の出入戸を持つ車両が多かったですが、一部に今の都市間快速列車を受け持った片側2箇所の出入戸の車両も見られ、その中には関西にて戦前から大人気だった流線型車両の姿もありました。この車両は正面窓が、他とは異なる4枚組だった為に遠目にも良く分り、強い印象がありましたね。
走行性能も、戦前製としては卓抜したものがあった様です。又、戦前勢独特の木部の多い車内は、乗っていて何か心安らぐものを感じもしたものです。又、一部の豊橋向きの先頭車にては、乗客と一緒に沿線住民向けの荷物や郵便物を運ぶ様も良く見られ、こちらも強く記憶に残っています。

私が成人する1970年代の終盤、昭和53頃まで飯田線の各停列車は戦前型の天下だった訳ですが、日に3往復の急行「伊那号」だけは特別料金を徴収する関係からそうも行かず、戦後製の長距離用、湘南電車が受け持っていました。山陽新幹線が初開通した1972=昭和47年からは後継の電車にバトン・タッチされ、その後空調も完備されてようやく急行らしくなりますが、1975=同50年の中央道路開通に伴う名古屋~飯田間直通バスの開業により、伊那号の利用実績は低迷してしまい、数年後には消滅してしまいます。

その後1982=昭和57年の東北&上越新幹線の開通が、飯田線の電車のあり様にも大きな影響を及ぼします。
まずこの年の秋、上記新幹線の開業に伴って転進した長距離電車165型が飯田線各停のサービス改善用に運転を開始、明けて1983=同58年は飯田線の国有化40周年の節目の年。この記念事業の一環として、国有化後初の新車が導入されました。今も主戦の地位にある119型であります。
これら新興車両の登場により、戦前製旧国鉄型は全量が引退、その後飯田駅より全線の施設を制御できる列車集中制御システムCTCも整備され、無人駅も大きく増えて今の飯田線の表情に近づきます。
新顔の119型電車には、JR移行の前後に空調が追加されて夏場の居住性も向上し、又南部の豊橋近郊では列車の短編成化に伴って増便が行われ、利便性も向上しています。

1996=平成8年には10年余運転が途絶えていた優等列車が特急「伊那路号」として復活、現状豊橋~飯田間を2往復しています。
又、昨年辺りから東海道線の快速仕様の新車が同線にも時折姿を見せ、一部の列車で運転されてもいる様です。
戦前製のレトロ電車と同じ窓・座席配置と全自動とは参らない乗降戸を有し、又基本的に最低1ヵ所の手洗室を備えるのも特徴的な119型ではありますが、時代の流れは意外に早く、もしかすると後数年で後継の新車が姿を現す事態も有り得るかも知れません。*(山)*

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