Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

終章~Oの愛した光景

2014-08-31 21:45:00 | 日記・エッセイ・コラム

2014=平成26年の夏も終わりました。この8月は、特に盆の頃よりの、後半の天候不順が際立ちました。あの遺憾な広島水害を初め、各地で大雨による悪影響が多発、同時に、出水と日照不足による農産物高騰も、庶民の暮らしを苦しめる所となっています。この異常気象は国境を超えた世界的な傾向の様で、これが、衛生面の低下による疫病の大規模発生や、世界的な食糧危機に繋がらない事を祈るばかりであります。

我国にあっては、この様になった一因が、戦後の我国の、都市化を進め過ぎた政策の誤りと、戦後処理の決して適切とは言えない根拠とされる、戦勝国による一方的な戦後日本への政治的主導圧力、YPことヤルタ・ポツダム体制への被占領的屈従を続けた結果であるとの指摘も聞きました。それらをどう見直し、今後、そして将来へと繋げて参るかが、今の国民的課題である気もします。

必ずしも一致する見解ではないかも知れませんが、今日付の地元紙 C新聞に、哲学者 内山 節さんの綴られた記事が載りましたので、引用しながら見て参りたく思います。

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「人と森を生かす経済」

今年の上野村の山の木々は、8月中旬になると、早々と秋の準備をはじめていた。もちろん紅葉にはまだほど遠いけれど、盛夏の葉の色から秋の葉の色へと趣を変え始めたのである。山の木々は、今年は秋が早いと読んでいるようだ。上野村は、私が暮らす群馬県の山村である。たして確かに、8月下旬に入ると北関東の気候は秋の様相を見せはじめた。

もっとも、この山の木々の予想が、必ず当たるとは限らない。3年ほど前には見事に外している。山の木々も予想できないような気候変動が起こっているのである。

本年度中に上野村では、木質系ペレットを使った発電機が動きだす。森を手入れしたときに出てくる、材木としては使えない木をチップ状にし、それを固めてつくるのが木質系ペレットである。すでにこの村では、暖房用などではペレットが浸透しているが、それを発電用にも使おうという計画である。時に森の木々に季節の変化を教えてもらい、同時に森を手入れしながら地域のエネルギーとして活用させてもらう。

それは循環可能な地域をつくる試みであり、社会づくりと結んだ地域経済をつくる過程でもある。上野村は人口が1400人弱の村であるが、森の手入れや製材、木工品の生産、ペレットの製造、発電、一部の木のおがくず化とそれを利用したキノコ生産、さらには何にも使えない不文を利用した堆肥の生産などで、広い意味で森とともに働く人々が150人ほど存在している。そうやって、森とともに村人が働く経済を少しずつつくりだしてきた。みんなが生きることのできる経済をつくってこそ、誰も傷つけない社会が形成できると考えてきたのである。

日本に山村振興法が制定されたのは、1965=昭和40年のことだった。1950年代終盤から、山村は急速に過疎化している。この動きは多少の時間差はあっても、山村だけに生じたことではなかった。高度成長期を経て日本の地域は、山村、農村、地方都市の衰退が進み、人口を集積させた東京のような大都市でも、地域の衰退はすすんでいった。大都市では企業の集積や、一見はなやかな消費経済が展開する陰で、人が安心して生涯を暮らす場所としての地域は空洞化していった。

大都市はうまくいっているが、地方都市や農山村は問題を抱えているという一般的な認識は、今日の状況を言い当ててはいない。東京では孤立した高齢者の存在や孤独死が当たり前の現象になってしまった。東京の合計特殊出生率は1.1程度で全国最低だが、それは都市の自由さというより、子どものいる家庭をもてない東京の現実を映し出しているといった方がよい。

これまでの市場経済の発展は、一方では農山村や地方都市を衰退させ、他方では大都市から人間的に暮らすことのできる地域を瓦解させてしまったのである。

とするなら地方の活性化は、これまでと同じような経済を発展させようという発想では、うまくいかないはずだ。社会づくりと経済づくりを一体的にとらえていく新しい発想が必要なのである。これまでにもさまざまな地域振興策がおこなわれながら、それが成功しなかった理由もここにある。

いま私たちが必要としているのは、経済の「量」ではない。社会の「質」と経済の「質」を一体的に問いなおすことなのである。

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些か理想論の域もないではありませんが、内山さんがお住まいの、群馬・上野村だけの問題ではないと思います。深い森林地域は、勿論当地愛知や岐阜、長野、Oさんが生前お住まいだった首都圏でも西部地域が該当し、又、我々の思い出の地、新潟磐越も立派な当該地域でしょう。上野村のこうした取り組みが、細部などを見直した上で全国に広まれば、それは我国の郡部の活性化に繋がり、僅かながら増え始めた林業人口を少しでも援護する材料ともなり得ましょう。そしてそれらの事が、ひいては我国内での夢や希望の作興と、出生率の回復、そして、安倍現政権の掲げる「日本を取り戻す」事にも繋がって行く事と心得ます。

繰り返しになりますが、叶う事なら、Oさんがお元気な内に、少しでも語り合いたかった事共です。まあ引きずるのは良くありませんので、これ位にしておきたく思います。

明けて9月は防災月刊。今夏に続く、再度の台風や大雨の襲来と、それに伴う水害が懸念される所ですが、何とか注意を新たにして参りたい所です。又、現用のOCNブログの、今秋中の終了が決まってしまいましたので、後継をどうするかも考えないといけません。現用のブログ更新は後1~2回にして、この引越し処置にも取り組まないとと言う所です。

Oさん、今夏は有難うございました。言動には不足付き纏う俺ですが、どうか引き続き見守って下されば幸甚であります。

最後に、今夏の拙写真帖後記に載せるつもりの歌詞を記して、本稿を終わらせて頂きたく思います。

「今 風の中で」

僕らの明日(あした)に どんな夢を託しても

心は弱くて 昨日ばかり追いかけてた

負けないと誓いあった 夕日染まるあの丘は

いつまでも どこまでも 輝いてた

空へ手をのばして この願い届けて

つないだ手と手 僕らはあきらめないと

遠くで呼んでる 君の小さな声でも

僕には聴こえる なつかしいふるさとのように

誰もが きっと誰かに愛されるため 生まれてきた

いつだって どこだって ひとりじゃない

空へ手をのばして この願い届けて

たったひとつの いのちを生きて

今 風の中で どこまでも歩こう

涙がいつか 笑顔に変わる日まで

Performed by 平原綾香

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足跡~Oの愛した光景

2014-08-27 22:49:43 | 日記・エッセイ・コラム

Oさん、下界は依然として、すっきりしない不安定な天気が続きます。

広島の、遺憾な大水害は、遂に犠牲の方々が70を超え、行方不明の各位も多いです。改めて、ご冥福をお祈りすると共に、願わくば生還される方が1人でもあれば、とも思いますが、かなり難しそうであるのも事実です。とまれ、この様な災禍がなぜ生じたか、詳細な調査を望むと共に、過去の事例をも含め、今度こそは再発の防止策を真剣に講じて頂きたいものだと心得ます。又、広島の他にも、当地東海をも含め、大水害の危険を孕む地域は多くあり、そうした所の防災面の見直しも、進めて行かなければならないでしょう。

さて、本日俺は、恐れながら平日の休日を得、先の日曜日に続き、東海道・山陽新幹線と、一度は貴方をご案内した、名古屋鉄道線の撮影に参りました。本日は、実は新幹線試験列車「ドクター・イエロー」の先の日曜に続く下り運転日で、地元ファンのブログに紹介された、三河湾を望む高台のポイントを覗きに参った次第。残念ながら、撮影は不成功でしたが、まあ良い気分転換にはなったかなと言う所。その後、ご一緒に参った岡崎・豊川両市の境界近くの名古屋鉄道本線にて、豊橋へ向かう上り特急列車を迎えた次第。

今から5年余り前、引退した名物車「パノラマカー」の残党を追って、貴方と1日を過ごしたのが、つい昨日の事の様に思われます。今月中に、貴方をご案内した所全部、名古屋市の周辺も見て回れればとも思いますが、如何せん日数が限られており、果たせるかはちと自信のない所です。ですが、少しでも足を運びたい思いはありますね。

それにしても、パノラマカー亡き後残された特急車「パノラマ・スーパー」の注目度は、意外に高くない様です。俺も時折、名古屋鉄道沿線に出かけるも、本気で撮っている愛好者は僅かです。これからの、同社の動向から見て、後継の展望電車が開発される可能性は極めて低く、数年後、名鉄特急の顔でもあった、展望車が消える事態が十分考えられるにも関わらずです。尤も、最終年度ともなれば、皆慌てて後を追い始めるのかも知れませんが。

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勇者~Oの愛した光景

2014-08-23 22:52:27 | 日記・エッセイ・コラム

Oさん、この所、下界は不順な天候が続いています。先の大戦で、原子爆弾の標的となった広島にては、未曾有の大水害が生じてしまい、分っているだけで数十人もの方々が犠牲となりました。謹んでの弔意と共に、まだまだ安否確認の叶わぬ方々も多く、可能なら一人でも多く生還して下されたいと願うばかり。又、辛くも避難された各位へのお見舞いの意も表さないと、と言う所。この地は、終戦後間もなく大型台風に見舞われた事もあり「何故、あの街だけが」との想いも強くありますね。と共に、この後の記事とも実は関係がありまして。

今夜はいよいよ、新潟磐越の地にて、貴方と俺を引き合わせる原動力となった立役者、元日本国有鉄道の蒸気機関車 No,C57180の事に触れようと思います。

戦後の混乱続く1946=昭和21年8月、広島県下にて出生。忌まわしい原爆の惨禍より、土地こそやや離れていたとは言え、僅か1年でもう復興へ向け、この地方の製造業は一歩を踏み出していたのですね。その力強さには、感銘を覚えたものでした。その様な状況を背景に現れた蒸機C57型、No,C57180と僚友達は、我国の蒸気機関車として最強級の足回りを武器に、各地の特急、急行列車の先頭に立って、我国の戦後復興をリードして行きました。同機は現役期、もっぱら旧国鉄・新潟鉄道管理局のエリアを舞台に、新潟、福島、山形、秋田の各県を日夜往来、主に信越、羽越の両本線で長く頑張りを見せました。

終戦直後の部材品質の不良などが祟り、1957=昭和32年暮れより翌年初にかけては、ボイラーの更新などの大手術を受け復調、以後は1969=同44年の最初の引退まで、大きな故障もなく主戦の座を全うしたのはご存じだったと心得ます。

一線を退いた後、旧新津市、現新潟市秋葉区のある小学校にて保存中の所、平成期に至って復帰への道が開かれる事に。前世期末の1999=平成11年春、ほぼ30年の空白を乗り越え、難関の重整備をもクリアして、見事一線に復帰を果たす事となりました。これは、関係各位の血と汗の努力の他、No,C57180自身に、再起への強い執念があったとしか思えないものがありました。その結果としての、輝かしい今があると思うのであります。

勿論、既に経年もある事より、それなりに故障も生じてはいますし、蒸気機関と言う前世代の技術の伝承と言う難しい課題があるのも事実ですが、これまでも、困難に直面しては乗り越えて来た同機と関係の方々。これからも、力強く前進し続けてくれる事を信じたい所です。

この10月、No,C57180は、数年に一度の、全般検査と呼ばれる重要かつ長期に亘る点検整備に臨みます。現役期にも往来した、JR磐越西線と信越線の新潟~会津若松間の観光便「SLばんえつ物語」での今季の活動は9月下旬まで。大方の予想より前倒しの実施となり、その事より、大きな不具合が生じているのでは、との憶測もある様ですが、願わくば来春の桜の時季には、大過なく戻って来てもらいたいと言うのが、正直な想いです。

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思考~Oの愛した光景

2014-08-17 16:07:56 | 日記・エッセイ・コラム

Oさん、今年2014=平成26年の盆も終わりました。恐れながら俺は、去る8/13(水)より今日まで5日間の盆休み。前半2日で我々思い出の地、新潟磐越を訪ね、一昨日より今日までは、当地名古屋の拙実家に滞在して、高齢を迎えた両親の雑用などに日々を充てた次第。所謂猛暑を免れた反面、雨がちの不安定な天気の日が多く、特に当地周辺地域にて、大雨による出水などの被害が多発したのが遺憾です。又、一昨日は終戦記念日。我国の、現代の曲りなりにも繁栄あるは、先の大戦下、300万を超える戦没並びに戦災死傷の方々の、犠牲の上にある事を再認識し、その上で「あの様な戦争」を再発させぬ様、知恵と思考を巡らして参る必要を、改めて感じている所です。

それにしても、その終戦記念日にぶつけたかの様な、我国の固有領であるはずの、北方領土 国後、択捉両島を主な舞台に行われた、ロシア国軍の軍事演習は大変遺憾です。先の大戦終了後にも関わらず、同国の前身、ソビエト社会主義共和国連邦軍は、不法に我国の固有領、南千島を攻撃し今日まで占拠、植民のみならず、軍事拠点まで作り上げている事は良く知られている所。攻撃を受けた当時のソビエト政権執行部が、最も強硬なスターリン元書記長だった事も不運でした。東欧の、乗客他全員が犠牲となった、民間飛行機の撃墜事件まで生じた、同国とウクライナ国の軍事対立に関する制裁の事で、我国が欧米諸国と歩調を合わせた事に対する報復との見方もありますが、いかに国防上の大義と必要があったにせよ、こうした所業は平和を標榜する日本人として、決して許容できないものがありますね。安倍現政権も、厳重に抗議を行った様ですが、軍部の影響力が強いともされるロシア国当局は、こうした動きを屁とも思わない所があるだけに、どれ位効いたかは疑問です。まあ、黙っているよりはマシでしょうが。

話を、我々の世界の事に戻しましょう。思い出の地、新潟磐越に我々を引き寄せるきっかけとなったのは、旧国鉄の再起した蒸気機関車であるのは、旅立たれた貴方も良くご存じの事と思います。この機関車、No,C57180の事共は、次回詳しく触れようと思いますが、実は当地近くでも、旧国鉄の蒸気機関車が再興の機会を窺っています。貴生前よりご存じだったかもですが、岐阜東濃 寒天で有名な恵那市内の、元国鉄明智線、現明知鉄道にて、復旧の計画が徐々にだが進んでいる模様。機材は、炭水車を持たないタンク式のC12型機で、旧明智線の様な短距離の地方路線や、大きな炭鉱、製鉄所などで良く見られた、産業蒸気機関車に似た外装。明治時代の古典機関車程の強い個性はないものの、俺が餓鬼時分に良く見た馴染みの車両だけに、確かな復帰を望みたい所です。

又、当地名古屋の河村現市長が、名古屋市内にての蒸気機関車の復活運転を構想されている様ですが、これには賛成しかねます。現代の大都市は、蒸機の煙を受け入れる様にはできていない。もし構想通りの復活なら、都心部の排煙の影響は相当なもので、多くの住民が悩まされる事となりましょう。新潟磐越の「SLばんえつ物語」の復帰成功は、やはり舞台となるJR磐越西線が、余り市街地を通らない近郊路線だからであり、かつ山間などの景勝地を控えるからこそのもの。名古屋の様な、都市部での運行は避け、同様に復活を図る、明知鉄道への技術・経済援助などにシフトすべきでは、とも愚考する次第。それよりも、当地名古屋には、自家用車に頼り過ぎの今の交通体系を見直し、特に市街地にては、一度は消失した路面電車を新世代型にモデル・チェンジされたLRT(ライトレール・トランジット。電車のノンステップ化や、電車停留所の無段差化や安全強化などで、高齢・身体が不自由な交通弱者の方々にも利用し易い改良型。)の形で呼び返すなど、鉄道交通にしても、他にすべき事共がある様にも感じますね。

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情景~Oの愛した光景

2014-08-14 08:34:30 | 日記・エッセイ・コラム

お早うございます。今朝は、貴方と交流を深めた、新潟の街で迎えました。振り返ると、色んな場面が蘇ります。俺の記憶が正しければ、朝食を摂りながら、撮影の打合せをしたり、雨などで写真の方がダメな時、他へ目的変更の相談とか、それに伴う列車やバスなどの乗り換えについてですね。でも、やっぱり、夜の飲食をメインとする楽しみが一番だったでしょうか。

実は、恐れながら先月も、首都圏の悪友と共に、ここを訪ねる機会を得ました。混雑で中々入れない 我々の馴染み所で、悪友と俺は、酒杯を重ねながら「もし今、ここにOさんが居て下さったら」などとしみじみと語り合ったものでした。あれから、この街を訪れる意味が、少し変って来た様に感じるのは気のせいでしょうか。

夕方、宿のそばの歓楽街を歩くと、周りの飲食店のどこかに、今も貴方がいらすのでは・・・との錯覚に囚われる事があります。「引きずるのは良くない」と分かっていても、中々抜け出せないでいる俺がいます。

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