年に一度の暗唱聖句大会が近づいてきました。
教会学校の子どもたちには、20の聖句と課題聖句を覚えるようにすすめています。
今年の課題聖句は、エペソ4:1~16で、字数にすると819字です。毎日家事をしながら少しずつ覚えていきました。一字一句違えずに覚えるのです。3/4ほどは順調でした。最後の2節を覚え始めたら、前に覚えたところと混ざり合い混乱してしまいました。
文章的に考えて、主語述語がはっきりしないとか、接続詞がおかしいなどと考えてしまうともうだめです。
この前の日曜日には5,6年生の男子が全部覚えてすらすら言ったというのを聞いて感心しています。学年ごとに覚える量が違っていて、1,2年生は少ないのですが、5,6年生は大人と同じです。
低学年の子どもにとっては難しい言葉が多いのですが、一生懸命覚えている姿を見ると、負けてはいられないと思います。それでも、覚えられません。
年のせいで記憶力が落ちているとは思いたくないです。
覚えることができる力を与えてくださいと、神様に祈っています。
その課題聖句を紹介します。
エペソ11:4-16
さて、主の囚人である私は、あなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、御霊(みたま)の一致を熱心に保ちなさい。
からだはひとつ、御霊(みたま)はひとつです。
あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みがひとつであったのと同じです。
主はひとつ、信仰は一つ、バプテスマはひとつです。
すべてのものの上にあり、すべての物を貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神はひとつです。
しかし、わたしたちはひとりひとりキリストの賜物の量りにしたがって、恵みを与えられました。
そこで、こう言われています。
高いところに上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。
この上られたということばは、彼がまず地の低いところに下られたということでなくて何でしょう。
この下られた方ご自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天より高く上られた方なのです。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師または教師としてお立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、満ち満ちたキリストの身たけにまで達するためなのです。
それは、私達がもはや子どもではなくて、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ愛を持って真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
キリストによって、体全体は、ひとつひとつの部分がその力量にふさわしく働く力により、また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して愛のうちに建てられるのです。
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今年の課題聖句は、エペソ4:1~16で、字数にすると819字です。毎日家事をしながら少しずつ覚えていきました。一字一句違えずに覚えるのです。3/4ほどは順調でした。最後の2節を覚え始めたら、前に覚えたところと混ざり合い混乱してしまいました。
文章的に考えて、主語述語がはっきりしないとか、接続詞がおかしいなどと考えてしまうともうだめです。
この前の日曜日には5,6年生の男子が全部覚えてすらすら言ったというのを聞いて感心しています。学年ごとに覚える量が違っていて、1,2年生は少ないのですが、5,6年生は大人と同じです。
低学年の子どもにとっては難しい言葉が多いのですが、一生懸命覚えている姿を見ると、負けてはいられないと思います。それでも、覚えられません。
年のせいで記憶力が落ちているとは思いたくないです。
覚えることができる力を与えてくださいと、神様に祈っています。
その課題聖句を紹介します。
エペソ11:4-16
さて、主の囚人である私は、あなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、御霊(みたま)の一致を熱心に保ちなさい。
からだはひとつ、御霊(みたま)はひとつです。
あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みがひとつであったのと同じです。
主はひとつ、信仰は一つ、バプテスマはひとつです。
すべてのものの上にあり、すべての物を貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神はひとつです。
しかし、わたしたちはひとりひとりキリストの賜物の量りにしたがって、恵みを与えられました。
そこで、こう言われています。
高いところに上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。
この上られたということばは、彼がまず地の低いところに下られたということでなくて何でしょう。
この下られた方ご自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天より高く上られた方なのです。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師または教師としてお立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、満ち満ちたキリストの身たけにまで達するためなのです。
それは、私達がもはや子どもではなくて、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ愛を持って真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
キリストによって、体全体は、ひとつひとつの部分がその力量にふさわしく働く力により、また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して愛のうちに建てられるのです。
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