生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

災いの日、悲しみの日に(その1)

2011-12-05 16:58:32 | 教会
先週の日曜日からアドベント(待降節)に入っています。
今年は25日が日曜日なので、アドベントのろうそくは、例年より一本多く5本たてています。

一昨日は子ども家庭集会のクリスマス会でした。9人の子どもが集まりました。パネルシアターでクリスマスのお話しをしてから、みんなでケーキ作りをしました。クリームだらけ、チョコレートだらけになって大賑わいでした。


今年を振り返ると、大震災のことを考えずにはいられません。
神がいるのなら、なぜあのような大きな震災が起きたのですか?と問いかける人が多いです。

10月25日のブログにも「なぜ理不尽なことがあるのでしょう」という題で書きましたが、「聖書に『神は愛です』と書かれているのになぜあんなひどいことが起こるのですか?」
と問われると、何と返事をしたらよいかわからなくなります。

昨日の礼拝では「命が傷つくとき」という題でメッセージが語られました。一部を紹介させていただきます。


新約聖書の時代にも大きな災害が起こりました。シロアムの塔が倒れて、18人の人が下敷きになって亡くなったという事故です。当時も、災害にあった人は神様の罰が当たったと思っていた人がいたようです。

そのことについてイエス様はこのように言われました。
「また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカ13:4-5)」

不慮の事故で亡くなった方は、彼らの罪咎のせいでは決してありません。神様から罰を受けたのだと思って、罪責感にとらわれる人がいますが、神様は決して人の罪に対して罰を与えるお方ではありません。災いは罪咎とは関係ないのです。 


                      つづく


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