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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

本当の自分に出会って

2011-12-23 11:45:39 | エッセイ
人の心は、意識している部分とそうでない部分があるといわれています。無意識の部分は深いところにあって、そこには真の姿の自分がいます。
心に悩みを抱えているとき、意識している部分を改善しようとしてもなかなかうまくいきません。意識下の深い部分の自分に出会わないと解決しないのです。

真の自分に出会うことは恐ろしいことです。なぜなら醜い姿や傷を直視することになるからです。できれば深い穴に放り込み、蓋をしてコンクリートで固めてしまいたいです。
自分は寛容で親切で思いやりがあり、愛に満ちた人間だと思っていたいのです。でも、実はどうしようもなくわがままで自己中心であることに気づいていました。

わたしの父は癇癪持ちでした。怒るとあばれ、ドシドシ足を踏み鳴らして怒鳴りまくるのです。その怒りも正当な怒りならがまんできますが、たいていはわがままからでした。たとえば日曜の朝早く隣の犬が鳴いたため目が覚めたということだけで怒り狂うのです。

わたしは、そんな父親が大嫌いでした。ところが、わたしも自分の思い通りにならないとき、ときどき癇癪を起してあばれます。何度父とぶつかったことでしょう。
外では絶対に見せない姿ですが、家の中ではとてもわがままでした。

20代で教会に行きはじめたとき、自分のあばれ方が父親そっくりなことに気づいて愕然としました。
こんな自己中心な姿がわたしの本当の姿なのかもしれないと思いました。

心の深いところに降りて行って、わたしは真の自分と対面しました。醜い自分を想像していましたが、これほどまでとは思いませんでした。わたしは、絶望して泣きました。
こんな姿をみたら、誰もが逃げて行ってしまうと思いました。でも、イエス様は離れませんでした。

イエス様は近づいてきて「醜いままでいいんだよ。そんなお前を愛している」と言って醜い部分に触れて下さったのです。
そのとき、真っ黒でどろどろしていた本当の自分が、イエス様に触れられた途端、真っ白に変わりました。
もう醜くありません。誰に見られても恥ずかしくない姿になっているのです。

わたしは、イエス様が生まれた場所を思い出してみました。世界で最も貧しい家畜小屋でした。そこは臭くて汚い場所です。まるで自分の心のようなところです。あえてそのようなところで生まれて下さったのは、どんな醜いものでも受け入れてくださるという意味だったのではないでしょうか……。

それから、イエス様がなさったことを思い出してみました。
罪がないのに十字架刑という最も重い刑罰を受けて死んでくださいました。わたしの罪を贖うためだったのではないでしょうか……。

本当の自分に出会うこと。それは、恐ろしいことではありません。なぜならイエス様が一緒だからです。醜さと向き合ってもだいじょうぶです。イエス様がそれをきれいにして下さるのですから。

イエス様が自分のために生まれて下さり、自分のために死んでくださったことがよくわかったとき、喜びが沸き上がってきました。

本当の自分がどんなに醜くてもだいじょうぶなんです。もう、隠したり、とり繕ったりする必要はないのです。そのままの自分で充分なんです。


聖書の言葉 

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(Ⅰヨハネ4:9)



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