生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

2段階の癒し

2010-06-19 11:36:45 | 聖書から
昨日はOさん宅での家庭集会でした。
聖書にはイエスさまの癒しの奇跡について書かれているところが何箇所もあります。
盲人の目を開いた奇跡だけでもいくつか書かれています。

大声でイエスさまの名を呼び求めた盲人が癒される場面は感動的です。今日読んだ聖書箇所(マルコ8:22-26)に書かれている盲人は、自分からイエスさまのところにやってきたわけではありませんでした。聖書には『人々が盲人を連れてきて、さわってやってくださるようにイエスに願った』と書かれています。
イエスさまはその盲人の手を取って村の外に連れ出されました。

「なぜ連れ出されたのだと思いますか?」と質問がありました。イエスさまはその盲人と一対一で向き合う必要があると思われたのでしょう。

このとき、イエスさまが盲人を癒す方法が他の場合と異なっていることに初めて気づきました。2段階で癒しているのです。
聖書には次のように書かれています

そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何が見えるか」と聞かれた。すると彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。(マルコ8:23-25)


癒しの途中でイエス様はこの人に「何が見えるか」と聞かれました。この聞かれたという言葉の原語には「しきりに聞き続ける」という継続をあらわす動詞が使われているそうです。
福音書の他の箇所で、癒しの途中でイエスさまがこのように聞かれるところはないと教えていただいて、これも新しい発見でした。

それまで盲人は、本当に癒してもらえるのかどうか半信半疑でうつむいていたと想像されます。そして、イエス様のうながしによって目を上げたようです。(「見えるようになって」という言葉は「見上げる」という意味でもあります)

ぼんやりとでも見えるようになったことは、盲人にとって大きな喜びと驚きだったでしょう。盲人の心にはっきり見えるようになるかもしれないという希望の光が差し込んできたことでしょう。

2度目の癒しの時の彼の態度は、前回の時と違っていました。「彼が見つめていると」と書かれているように、うつむいていた彼は、頭を上げまっすぐイエスさまを見つめ、期待していました。そして、期待通り癒されたのです。

わたしは、小児ぜんそくがなかなか治らなくて悩んでいたときのことを思い出しました。父の知り合いの紹介で漢方薬屋さんに連れて行ってもらったとき、店の人が「必ず治ります」と言いました。でも、その言葉が信じられなくて「そんなに簡単に治るもんか!」と思ったのです。治りたくてたまらなかったのに、すっかりいじけてしまっていたのでした。

この盲人も、もしかしたらいじけていたのかもしれません。自分からではなく、人に連れられてイエス様のもとにきたのですから。
だからこそ、2段階の癒しが必要だったのかもしれません。
「イエスさまは、イエスさまに期待し、依存することを求めておられます」と牧師先生が言われました。

最初は気が進まず、半信半疑でイエス様のもとに連れてこられた人にも、イエスさまはすばらしいことをしてくださることをおぼえて感謝しました。


人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたが満たされますように。(エペソ3:19)



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