今日の祈祷会で「人はなぜ苦しむのか?」ということについて学びました。
ヨブ記(5:7)には「人は生まれると苦しみに合う。火花が上に飛ぶように」と書かれています。
創世記に「神様の造られた物は非常に良かった」と書かれているのに何故この世に苦しみがあるのでしょうか? それは、アダムとエバが罪を犯してしまったことに起因し、この世界は苦しみはあって当然のものとなったのだそうです。
まわりを見回せば、この世界は苦しみに満ちています。わたしも苦しみの中にいます。この学びを始める前にレジメに目を通したとき、家に帰りたくなりました。現在の自分の苦しみをみつめることになり、つらくなると思ったからです。父が末期癌で自分自身も癌で再発転移の疑いがかかっている事実は、今は肉体的苦痛はないけれど、やはり苦しいのです。
でも、学びをしていく中で、苦しみとはどういうものかと考えているうちに、わたしの抱えているものはたいしたことない。苦しみといえるほどのものではないことに気づきました。
厳しい人間関係の中で精神的に追いつめられる苦難、とりかえしのつかない過失を犯した者の苦難、借金の苦しみ、愛する夫や子供を失った苦しみ、虐待を受ける苦しみ……。
わたしがもし再発転移して余命がいくらもないとわかったとしても、これらに比べればたいした苦しみではありません。むしろ事故で即死するより、癌で死ぬ方が死への準備期間が備えられていて幸いです。
苦しみがあって当然であるこの世界に生きているのですから、順調と思われる日が続いていても、長い人生の中で苦難の日は必ず訪れます。でも、どんな苦難が訪れても、そこに神様が働かれ、守り、耐えられるようにし、また期間を定めて下さるので大丈夫なのだと思いました。
苦難の日にも感謝することができるように祈りました。