今日の祈祷会は先週に引き続いて苦しみの意味についてでした。いまのわたしにぴったりの学びでした。(ぴったり過ぎて、困ってしまいました)
神戸ひよどり台教会の大嶋博道牧師が5つの苦しみの意味について書かれています。
1)苦しみは私たちが人生の目的や意味を問う絶好の機会となります。
2)苦しみは私たちの生きたか、あり方を見つめ直す機会になります。
3)苦しみは人間存在の本質を教えてくれる機会になります。
4)苦しみは私たちが本当の幸いや喜びが何であるかに気づく機会になります。
5)そして、苦しみは私たちが神に向かい、神に近づく機会になります。
本当にそうだなあと思います。苦しみには何らかの意味があります。神さまは人を無意味に苦しめたりしませんし、罪に対して罰を与えたりすることはなさいません。苦しみの真っ最中にあるときにはわからなくても、いつかその意味がわかるときがくると信じています。
かつて、わたしは喘息で苦しんだとき、人間存在の本質について考えさせられました。
対人関係で苦しんだときには、自分の生き方を問い直し、自分を見つめ直しました。そして乳癌になってからは、人生の目的や意味を考えるようになり、与えられている時間の尊さ、命の尊さに気づきました。苦しみがあるおかげで、心はまっすぐに神さまに向けられています。
苦しみにあったことは良かったと思えますし、神さまから深く愛されていることも感じます。また、苦しみは訓練だということもよくわかります。
でも、頭で理解していても、感情がついていかないときがあります。かつて、友人から苦しみを打ち明けられたとき、何とか励まそうとして「後になったら、このことも良かったと感じるものとなるわよ。神さまはすべてのことを働かせて益として下さるからね」と言ってかえって友人の心を傷つけてしまったことがありました。
そのようなことは、とっくに友人もわかっていたのです。わかっていても、つらい、苦しいという感情をどうすることもできなくて、ただ聞いてもらいたくて訴えていたのに……わたしは励ましの言葉がけをしなければならないと思ってしまったのです。
現在の苦しみについては、他者の助けが必要とレジメに書いてありましたが、わたし自身、助けが必要だったのです。(過去形で書いたところに注目してください。もう、いまは大丈夫です)それは、自分でも気づかなかったことです。
この前の日曜にY姉の前で泣いたとき、たががはずれてしまったのでしょう。学びを終えてI先生から感想を尋ねられたとき、「今日はコメントしたくありません」と答えた後、不覚にもまた泣いてしまいました。隣の席にY姉がすわっていたこともあって……。
わたしの様子は、かなり変だと周りの人は思ったでしょう。でも、どう思われてもいいのです。みんな神の家族ですから。
感じたことがたくさんありすぎて何も言えず、一言でも話すと涙が出てしまうので答えられなかったのです。
今日祈祷会へいって良かったと思いました。そして、いまこのときに苦しみの意味について考える機会が与えられたことを神様に感謝しています。
レジメの最後に書かれていた聖書の言葉は、わたしがいちばん好きな聖書箇所です。
見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:3-4)
やがて神さまがこの者の涙をすっかりぬぐい去って下さるとわかっているので、平安です。
そうですか。さぞ、気持ちが溢れていたのですね。あとといには、母を訪ね、教会には午後から行きました。でも、今日お会いできて
本当に良かった。
本当に神様は全てを益と成し給う方です。
私のブログに人生の試練や苦しみの意味についても書いていますが、暇なときにお立ち寄りください。