先週の木曜日の家庭集会では、ルカ16:19~30からイエス様のたとえ話で「金持ちとラザロ」の学びをしました。遅くなりましたが、紹介させていただきます。
毎日贅沢な暮らしをしている金持ちがいました。彼の家の門前には貧乏で全身におできができているラザロという人がいて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。聖書には書かれていませんが、金持ちは、ラザロに対しては無関心だったようです。
金持ちは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。
生きている間は対照的なふたりでした。
ラザロはやがて死に、みつかいたちによってアブラハムのふところへ連れていかれました。
後に金持ちも死んで葬られましたが、ハデスで苦しみを受け、見上げるとラザロがアブラハムのふところにいるのが見えました。
(アブラハムとは、ユダヤ人の先祖であると同時に『信仰の父』と呼ばれる人物です。「アブラハムのふところ」という表現は、聖書でこの箇所しかでてきませんが、明確な意味は分からないそうです)
死を味わうことにおいては、ふたりとも平等でしたが、連れていかれたところが違っていました。
金持ちが死んだ時、彼を葬った人たちがいました。葬式に出席した者は多く、彼に関心を寄せていた人たちがたくさんいたと思われます。
一方、ラザロに関心を寄せていた人はいなかったと思われます。「葬られた」とは書かれず「みつかいたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた」と書かれているところに注目したいです。
ラザロという名前は「神に助けられる人」という意味があるそうです。
ルカ16:15には「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする人です。しかし神は、あなたがたの心をご存知です」
と書かれています。
人からよ良い評価を受けても、神様の評価は違うということを示しています。
金持ちは、ハデスで苦しみ、アブラハムに助けを求めます。でも、アブラハムから死後の状態は変えられないと言われます。金持ちは、せめて自分の兄弟が同じような目に合わないようにラザロを自分の父の家に送ってほしいと頼みます。
アブラハムは「モーセと預言者との教え」があるので、その言うことに聞くべきだ」と言いました。
「モーセと預言者との教え」とは旧約聖書のことを指しています。
「聖書の教えに耳を傾けないのなら、たとえだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れやしない」
というアブラハムの言葉でこのたとえ話は終わっています。
レジュメには「信仰を持つためには奇跡や驚くべき出来事が必要でしょうか?」
「救われるために必要なのは何ですか?」と書かれています。
実際、奇跡や驚くべき出来事が起きることがあります。でも、信仰を持つためにそれらが必要とは限りません。
救われるためには、自分の罪に気づき、悔い改めることが必要です。
このたとえ話はパリサイ人に向けてイエス様が語られました。パリサイ人とは、イエス様の時代のユダヤ人で、ユダヤの律法のすべての部分に、非常に熱心に従おうとした人々です。彼らはイエスを救い主であると認めていませんでした。
そんな彼らになぜイエス様はこの話をされたのでしょうか。
パリサイ人たちは、いつもイエスのあげ足を取ろうとしていました。イエス様を見下してあざ笑っていました。
イエス様は、そんなパリサイ人たちにも関心を寄せ、救いに与るように願っておられたからだと教えていただき、はっとしました。
神様は、わたしたちひとりひとりに関心を寄せ、愛してくださっているのです。たとえ話に出てくるラザロのような人にも、金持ちのような人にも、救われてほしいと思っておられるのです。神様の深い愛に心打たれました。
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毎日贅沢な暮らしをしている金持ちがいました。彼の家の門前には貧乏で全身におできができているラザロという人がいて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。聖書には書かれていませんが、金持ちは、ラザロに対しては無関心だったようです。
金持ちは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。
生きている間は対照的なふたりでした。
ラザロはやがて死に、みつかいたちによってアブラハムのふところへ連れていかれました。
後に金持ちも死んで葬られましたが、ハデスで苦しみを受け、見上げるとラザロがアブラハムのふところにいるのが見えました。
(アブラハムとは、ユダヤ人の先祖であると同時に『信仰の父』と呼ばれる人物です。「アブラハムのふところ」という表現は、聖書でこの箇所しかでてきませんが、明確な意味は分からないそうです)
死を味わうことにおいては、ふたりとも平等でしたが、連れていかれたところが違っていました。
金持ちが死んだ時、彼を葬った人たちがいました。葬式に出席した者は多く、彼に関心を寄せていた人たちがたくさんいたと思われます。
一方、ラザロに関心を寄せていた人はいなかったと思われます。「葬られた」とは書かれず「みつかいたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた」と書かれているところに注目したいです。
ラザロという名前は「神に助けられる人」という意味があるそうです。
ルカ16:15には「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする人です。しかし神は、あなたがたの心をご存知です」
と書かれています。
人からよ良い評価を受けても、神様の評価は違うということを示しています。
金持ちは、ハデスで苦しみ、アブラハムに助けを求めます。でも、アブラハムから死後の状態は変えられないと言われます。金持ちは、せめて自分の兄弟が同じような目に合わないようにラザロを自分の父の家に送ってほしいと頼みます。
アブラハムは「モーセと預言者との教え」があるので、その言うことに聞くべきだ」と言いました。
「モーセと預言者との教え」とは旧約聖書のことを指しています。
「聖書の教えに耳を傾けないのなら、たとえだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れやしない」
というアブラハムの言葉でこのたとえ話は終わっています。
レジュメには「信仰を持つためには奇跡や驚くべき出来事が必要でしょうか?」
「救われるために必要なのは何ですか?」と書かれています。
実際、奇跡や驚くべき出来事が起きることがあります。でも、信仰を持つためにそれらが必要とは限りません。
救われるためには、自分の罪に気づき、悔い改めることが必要です。
このたとえ話はパリサイ人に向けてイエス様が語られました。パリサイ人とは、イエス様の時代のユダヤ人で、ユダヤの律法のすべての部分に、非常に熱心に従おうとした人々です。彼らはイエスを救い主であると認めていませんでした。
そんな彼らになぜイエス様はこの話をされたのでしょうか。
パリサイ人たちは、いつもイエスのあげ足を取ろうとしていました。イエス様を見下してあざ笑っていました。
イエス様は、そんなパリサイ人たちにも関心を寄せ、救いに与るように願っておられたからだと教えていただき、はっとしました。
神様は、わたしたちひとりひとりに関心を寄せ、愛してくださっているのです。たとえ話に出てくるラザロのような人にも、金持ちのような人にも、救われてほしいと思っておられるのです。神様の深い愛に心打たれました。
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急にあたたか、を通り越して、暑いぐらいの陽気となりました。
この週、復活日は、宇佐美(伊東市)の教会に出席しました。
愛餐会は一品持ち寄りで、私は庭の無農薬夏みかんを採り入れ、自分で作ったマーマレードと、普段買わない高めのクラッカーを添えて出しときました。
自分で言ってちゃなんなんですが、結構評判がよかったです。では、また。
庭でとれた夏みかんでママレードを作られたのですね。教会のみなさんに喜ばれたことでしょう。
母がよくゆずジャムを作っていたことを思いだしました。