
昨日から義母と4人で筑波山温泉に行って一泊してきました。昨日はあいにくの雨でしたが、今日は快晴。フラワーパークで秋バラとダリアを見てきました。
「クリスチャンになると災害にあうことはありません。辛いことがなくなります。苦しみにあうことがありません」
と言ったら、多くの人がクリスチャンになりたいと思うでしょう。
でも、実際はクリスチャンでもそうでない人でも同じように災害にあいますし、辛いこと、苦しいことが起きます。
むしろ信仰篤い人の方が大きな試練にあうような気さえします。なぜ?と思ったことがありました。先日の日曜日は、聖書のⅠサムエル記21:1-9からそのことについてメッセージをいただきました。
ダビデは神様をよく信じていました。でも、仕えていたサウル王に憎まれ、命を狙われたため逃亡生活を余儀なくさせられます。
しかし、ダビデは追われる生活を通して神様の恵みをいただいたというのです。どういうことでしょうか……。
ダビデは、まずノブに逃げました。ノブとは聖所(神が臨在されているところ)です。誰でも行くことができる場所で、隠れるところはありません。ダビデは追われる身となったのに、まず神のところに走って行きました。そこにいた祭司アヒメレクとドエグは、サウル王の側近で、ダビデが来たことをサウル王に知らせる可能性がありました。つまり危険なところでした。
でも、「ダビデがノブの地に行ったのは、霊的本能からでした。」と牧師先生が言われました。
クリスチャンなのにこんなひどい目にあって……と考えることは肉的本能で、それに従って神から離れてしまってはいけないのです。
どんなに苦しくても霊的本能にしたがって神のもとにいったとき、神様の憐れみと祝福をいただくことができます。
ダビデは、ノブで2つの祝福をいただきました。
ひとつはパンです。
ダビデは聖別されたパンをいただきました。聖別されたパンとは、祭司だけしか食べることができないパンで、それをいただくことは、ありえないことでした。ダビデはこのパンをいただくとき、神が共にいてくださることを感じて涙ながらにいただいたでしょう。
もうひとつはゴリヤテの剣をいただきました。かつてダビデが倒したペリシテ人ゴリヤテが持っていた剣で、それがノブの神殿に納められていたのです。
わたしは、ゴリヤテの剣をもらって喜んでいたときのダビデは、信仰心が薄れているのだと勝手に思っていました。かつては剣も鎧もいらない、主の力によって勝利できると信じ、石投げでゴリアテを倒したダビデが、ゴリヤテの剣を求めるなんておかしいとさえ思っていたのです。
でも、それは間違えでした。10年もの間逃亡生活を送るダビデにとって、命を守るためにゴリヤテの剣は必要だったのです。
ゴリヤテの剣がどうしてノブにあったのか……「それは神様がダビデのために備えてくださったからです。神様のハプニングです。」と聞いて、納得しました。ゴリヤテの剣をもらったとき、ダビデは使命を悟りました。
敵への復讐のために生きるのではなく、神の御旨に従って生きることだとダビデは悟ったのです。だから、その後、サウル王を殺すチャンスが3回も訪れたのに殺しませんでした。
「どんなに苦しくても、使命がはっきりしていれば、困難の中で生きることができる。わたしたちには神の栄光をあらわすための使命があるのだから、人生をあきらめてはいけない。」という言葉に深く頷きました。
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「クリスチャンになると災害にあうことはありません。辛いことがなくなります。苦しみにあうことがありません」
と言ったら、多くの人がクリスチャンになりたいと思うでしょう。
でも、実際はクリスチャンでもそうでない人でも同じように災害にあいますし、辛いこと、苦しいことが起きます。
むしろ信仰篤い人の方が大きな試練にあうような気さえします。なぜ?と思ったことがありました。先日の日曜日は、聖書のⅠサムエル記21:1-9からそのことについてメッセージをいただきました。
ダビデは神様をよく信じていました。でも、仕えていたサウル王に憎まれ、命を狙われたため逃亡生活を余儀なくさせられます。
しかし、ダビデは追われる生活を通して神様の恵みをいただいたというのです。どういうことでしょうか……。
ダビデは、まずノブに逃げました。ノブとは聖所(神が臨在されているところ)です。誰でも行くことができる場所で、隠れるところはありません。ダビデは追われる身となったのに、まず神のところに走って行きました。そこにいた祭司アヒメレクとドエグは、サウル王の側近で、ダビデが来たことをサウル王に知らせる可能性がありました。つまり危険なところでした。
でも、「ダビデがノブの地に行ったのは、霊的本能からでした。」と牧師先生が言われました。
クリスチャンなのにこんなひどい目にあって……と考えることは肉的本能で、それに従って神から離れてしまってはいけないのです。
どんなに苦しくても霊的本能にしたがって神のもとにいったとき、神様の憐れみと祝福をいただくことができます。
ダビデは、ノブで2つの祝福をいただきました。
ひとつはパンです。
ダビデは聖別されたパンをいただきました。聖別されたパンとは、祭司だけしか食べることができないパンで、それをいただくことは、ありえないことでした。ダビデはこのパンをいただくとき、神が共にいてくださることを感じて涙ながらにいただいたでしょう。
もうひとつはゴリヤテの剣をいただきました。かつてダビデが倒したペリシテ人ゴリヤテが持っていた剣で、それがノブの神殿に納められていたのです。
わたしは、ゴリヤテの剣をもらって喜んでいたときのダビデは、信仰心が薄れているのだと勝手に思っていました。かつては剣も鎧もいらない、主の力によって勝利できると信じ、石投げでゴリアテを倒したダビデが、ゴリヤテの剣を求めるなんておかしいとさえ思っていたのです。
でも、それは間違えでした。10年もの間逃亡生活を送るダビデにとって、命を守るためにゴリヤテの剣は必要だったのです。
ゴリヤテの剣がどうしてノブにあったのか……「それは神様がダビデのために備えてくださったからです。神様のハプニングです。」と聞いて、納得しました。ゴリヤテの剣をもらったとき、ダビデは使命を悟りました。
敵への復讐のために生きるのではなく、神の御旨に従って生きることだとダビデは悟ったのです。だから、その後、サウル王を殺すチャンスが3回も訪れたのに殺しませんでした。
「どんなに苦しくても、使命がはっきりしていれば、困難の中で生きることができる。わたしたちには神の栄光をあらわすための使命があるのだから、人生をあきらめてはいけない。」という言葉に深く頷きました。
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神を信じるとは、そういう事ではないということですね。
神の真意を知るのは まだ時間がかかりそうです。
でも、クリスチャンになると、どんなことが起きても、どんな状態になっても守ってくださる方が共におられることがわかっているので、心の中は平安です。それは何よりもまさる祝福です。
みかんさんも神様からの平安をいただくことができますように。