
今日は部屋の模様替えで一日バタバタしていました。
先週テレビが突然壊れてしまいました。3年ほど前にも壊れ、修理してもらいましたが、今回はいよいよダメなようです。2011年まで待つつもりでいたのに、仕方なく購入しました。
先日、ちょうど息子一家が来る日だったので、車で電器店に連れていってもらいました。息子は交渉上手で、ずいぶん負けてもらいました。
一昨日届いたのですが、新しいテレビは横幅が広くて、今まで置いていた場所に収まりません。今日は主人とテレビ台を買いに行き、午後からキャビネットや本箱を移動したのです。暮れの大掃除でもやらないことをして、汗だくに……。こんな暑い日(土浦の今日の最高気温32℃)にやることではありませんね。部屋は綺麗になりましたが……。
昨日、わたしの通う土浦めぐみ教会は献堂21周年記念礼拝でした。土浦市上高津の地に教会堂が建てられたのが21年前の9月と聞いて、娘の年と同じだと気づきました。娘も9月生れで、今週誕生日を迎えます。
21年前のわたしは、大きなお腹をかかえてフーフー言っていたでしょう。三鷹の実家にいましたが、そのころは埼玉県久喜市に住んでおり、その数年後に土浦に引っ越すことなど予想もしていませんでした。
いま、教会の近くに住まいを構えていることが不思議な気がします。
当たり前のようにこの暑い時期も冷房の効いた会堂で快適に礼拝をささげていますが、現在の会堂が建てられるのに多くの方々の犠牲があったことを知り、深く感謝しました。
多額の借り入れをして800坪の土地を購入して会堂を建てたそうですが、15年で返済できたのは、教会員が献金を捧げたからです。
有り余っている中からではなく、貧しい生活の中から犠牲的に捧げたのです。自発的に喜んで捧げたというので驚きました。
パウロによって書かれたⅡコリント人への手紙8章には、パレスチナ地方に飢饉があったとき、マケドニアの教会の人たちが惜しみなく献金をしたことが書かれています。
苦しみのゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。(Ⅱコリント8:2)
(施す富のことを尾山令仁師は献金と訳しています)
*極度の貧しさにもかかわらず *喜びに満ちあふれたゆえに *全く自発的に
捧げたとき、マケドニアの教会の人は神の恵みを受けたとパウロは書いています。
「神に信頼して捧げるとき、それが喜びとなります。神を信頼して歩んでいくとき、神の不思議な導きを体験します。神の恵みが与えられるからです。」と牧師先生が言われました。
わたしには収入がなく、主人がクリスチャンではないので、多くの献金を捧げることはできません。でも、奉仕をすることで力一杯捧げています。捧げることは、犠牲を払うことであり、疲れることでもあります。でも、精一杯捧げた後は、さわやかさを味わいます。
神さまから、奉仕のために犠牲を払った以上の恵みをいつもいただいています。
生きて働かれる神さまの業を知らせて下さって有り難うございます。
しかし、新たに建設するまでは年配者が多く大変だということでのリフォームでした。
そして、ユニバーサルデザインにあふれた素敵な会堂が誕生しました。
そして、この2年間、返済も含めてのすべての必要が満たされています。
主に従うものを豊かにあしらわれる神様に感謝です。