わたしが自分を好きになれたわけを書く前に、なぜ自分のことが嫌いだったかということをお話ししましょう。
それは、強い劣等感をいだいていたからです。手先が不器用なこと、運動が苦手なこと、体が弱かったことは事実ですが、長所もあったはずです。それなのに、全てにおいて自分は人より劣っている……人間失格のように思ってしまったのです。
当時のわたしの願いは、「普通の人になりたい」でした。でも、普通の人とは何でしょう? 普通とは、何を基準に考えて言ったのでしょうか? ひとりひとり違うのに「普通の人になりたい」というのは、おかしな考えですね。
なぜそんなに劣等感が強かったかについては、母の影響が大きかったのですが、それは別の機会に書きます。
学校でクラスメートに声をかけられなかったのは、劣等感が強かったことと、自意識過剰だったことがその原因です。異常なほどに人の目を意識し、『自分のことを人はどう思っているのか?』と常に考えていました。また、自分が何か話したら、どういう答えがかえってくるのだろうと心配し、たいていは悪いことを想像して何も言えなくなってしまうのです。
たとえば教科書を忘れて困ったとき、隣の席の人に「見せて」と言いたいのに断られることを恐れて言えません。遠足でひとりでお弁当を食べるのがつらくて、Aちゃんに「お弁当一緒に食べよう」と言おうとします。でも、いやだと断られたらどうしようと思い、言えません。(たとい断られても、全人格を否定されたわけではないのに……)そんな、いくじのない自分のことが嫌いでした。
わたしの場合は、かなり極端な例ですが、人の目を気にしたり、自分のことを他の人はどう思っているのだろうと考える人は多いのではないでしょうか。
また、いつも自分を人と比較して考えていました。あの人より勉強ができない。あの人より体が弱い。あの人より運動ができない……。劣等感を抱くのは人と比較することから始まるのです。
高校生になると、少し前向きになったようですが、自分を励ますために自分より成績の悪い人を見て、「あの人よりましだ」と思ったりしました。それは劣等感の裏返しにある優越感で、やはり人との比較からきています。
いずれにしても、人と比較したり、人のことを気にしてばかりいるときには心に平安はなく、自分を好きになることはできません。
イエスさまの弟子ペテロは、イエスさまからたしなめられています。
ペテロは彼(ヨハネ)を見て、イエスに言った。「主よ、この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしが来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:21-22)
この聖書の箇所を読むと、あの人、この人ではなく、常に自分はどうあるべきなのかとするどく迫られる思いです。
つづく
器用な人、不器用な人・・・。
でも人々は生かされていると思います。
それなりの役割を与えられて。
それなのに自分は不必要な人間だと当時思っていたのです。