わたしの通う教会にはマナ愛児園という付属幼稚園があります。わたしの娘もマナ愛児園の卒園生です。17年前土浦に越してきたとき、娘は3歳でした。翌年マナに入園させることができ、2年間通いました。息子はそのとき小学生になっていたので……残念でした。来週はマナの20周年記念礼拝です。
礼拝メッセージではマナ愛児園のキリスト教教育について語られました。
1『創造者であり、全知全能である神さま。善意に満ちておられる神さまがおれること』を子供たちに伝えること。
2み言葉(聖書の言葉)の歌を賛美すること。
3祈ること。
マナ愛児園はこの3つのキリスト教教育の土台を据えているのだそうです。娘は高校3年の時洗礼を受けましたが、「マナがわたしの人生の基盤だよ」と言っています。
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(伝道者の書12:1)
幼い時に創造者を知ることは、なんという恵みなのでしょう。わたしは18歳までイエス様のことを知らなかったので、子供の時に教えてもらっていれば、どれだけよかっただろうと思います。(それでいま、子供伝道に燃えているのです。)
神はいるのか?自分が生まれてきたのは何故か?自分は誰なのか?生きる意味は何か?なぜ生きていなくてはならないのか?どうして人は年をとって死んでしまうのか?死んだらどこへいくのか? 中学生の時はそのような疑問を抱いて悶々としていました。空しくて毎日死にたいと思っていました。
ずっと後になって、その疑問に対する答えがすべて聖書に書かれていることがわかります。神さまは確かにおられ、どういう神さまなのかということも、聖書に書かれています。
それは、わたしのためにひとり子の命を捧げて下さるほど愛して下さる神さま。善意に満ちておられる神さまです。
キリストに出会う前もなんとなく神さまの存在は感じていました。でも、子供のときの神さまに対するイメージは、悪いことをするとバチをあてるという恐ろしいものでした。中学生のころは、喘息がひどくてなかなか治らなかったので、神さまは意地悪をしているのだと思っていました。高校生になってからは、神さまはわたしが病気だということを知らないか、あるいは病気を治す力がないのかのどちらかだと思いました。
聖書を読み、神さまが愛のお方であること、全知全能であることを知ったとき、今までの神観がすべて間違っていたことに気づきます。
辛い出来事が次から次へと訪れ、神さまの善意が信じられなくなってしまうことがあるかもしれません。
でも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と言って下さる神さまが、悪意をもってわたしをいたずらに苦しめるはずがありません。苦難には意味があり、終わりがあります。
それは耐えられない苦難では決してないと約束されています。たとえ何が起こっても神さまは善意に満ちたお方であることを信じ続けたいです。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。(Ⅰコリント10:13)