クリスマスの行事がひと段落してほっとしています。
文通している方から『イエス様のような素晴らしい方が、なぜ十字架につけられたのか。なぜこんなに苦しい死に方をしなければならなかったのか・・・』という質問をいただいたので、それに対して書いた返事の一部を紹介します。
イエス様がなぜこんなに苦しい死に方をしなければならなかったのか・・・わたしも不思議に思っていました。
死ぬにしても一瞬のうちに命が奪われるギロチンなどの方法なら、どれだけ楽だったでしょうね。
何時間も苦しんで死ぬ十字架刑は、当時の死刑の方法ではいちばん残酷なものだったそうです。だから極悪人にしか行われない死刑の方法です。
くぎを刺された手足の痛みに加え、呼吸の苦しさを耐え忍ばなければならなかったのですから、想像するだけでも恐ろしいです。
でも、人間の罪の根深さを・・・そして自分の罪の深さを考えると、人類の罪を赦すためにはそこまで壮絶な苦しみを味わう必要があったのではないかと思います。
わたしは、22歳まで自分に罪があるなんて全く思っていませんでした。
喘息という持病があり、つらい子ども時代を過ごしたこと。中学生の時、友達がひとりもいなくて、死にたいと思ったこと。周囲の人はだれもわたしの気持ちを理解してくれないで、傷つける言葉を浴びせること……など思い、自分はなんて可哀そうな人間なんだろう、何て不幸な人生なんだろうと嘆いていました。
両親や妹と喧嘩ばかりしていて、家を出ていきたいと思っていました。家族と衝突するたびに、自分は正しいのに・・・と思っていました。
あるとき、三浦綾子さんの本を読んで、自分が正しいと思っていることが罪なのだと気づき、ハンマーで頭を殴られた気になったのです。それから教会に行くようになりました。
教会で、自己中心であることも罪だと教えられて、自分の罪の大きさに打ちのめされました。
いつも「わたしが、わたしが・・・」と自己主張し、相手を思いやる心が欠けていたこと。被害者意識が強くて、人にされたひどいことをいつまでも怨んでいたこと。これらが罪なのです。
でも自我が強く、ものすごく意地っ張りだったため、罪に気づいてもなかなかあやまることができませんでした。
イエス様の十字架の苦しみを思った時、わたしのためにこんなに苦しんでくれたのだと、心が震えました。そして、やっと素直になれ、あやまることができました。
それでも母にあやまったとき、「やっと自分が悪いって気付いたのね」なんて言われると腹が立って「せっかくあやまってるのに何よ!」と怒ってしまうわたしです。
完全に自我を捨て、謙遜になることは今でもできませんが、神さまが少しずつ変えてくださることを信じてイエス様を見上げて歩んでいます。
不当な仕打ちを受けたり、人からバカにされたりしたとき、イエス様があれほどの苦しみに耐えて下さったのだから、がまんしなければならないと思っています。
十字架にかかってわたしやあなたの罪を赦すために生まれてきてくださったイエス様。もうすぐそのイエス様のお誕生日、クリスマスですね。
クリスマスの祝福があなたのうえにもありますように。
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死ぬにしても一瞬のうちに命が奪われるギロチンなどの方法なら、どれだけ楽だったでしょうね。
何時間も苦しんで死ぬ十字架刑は、当時の死刑の方法ではいちばん残酷なものだったそうです。だから極悪人にしか行われない死刑の方法です。
くぎを刺された手足の痛みに加え、呼吸の苦しさを耐え忍ばなければならなかったのですから、想像するだけでも恐ろしいです。
でも、人間の罪の根深さを・・・そして自分の罪の深さを考えると、人類の罪を赦すためにはそこまで壮絶な苦しみを味わう必要があったのではないかと思います。
わたしは、22歳まで自分に罪があるなんて全く思っていませんでした。
喘息という持病があり、つらい子ども時代を過ごしたこと。中学生の時、友達がひとりもいなくて、死にたいと思ったこと。周囲の人はだれもわたしの気持ちを理解してくれないで、傷つける言葉を浴びせること……など思い、自分はなんて可哀そうな人間なんだろう、何て不幸な人生なんだろうと嘆いていました。
両親や妹と喧嘩ばかりしていて、家を出ていきたいと思っていました。家族と衝突するたびに、自分は正しいのに・・・と思っていました。
あるとき、三浦綾子さんの本を読んで、自分が正しいと思っていることが罪なのだと気づき、ハンマーで頭を殴られた気になったのです。それから教会に行くようになりました。
教会で、自己中心であることも罪だと教えられて、自分の罪の大きさに打ちのめされました。
いつも「わたしが、わたしが・・・」と自己主張し、相手を思いやる心が欠けていたこと。被害者意識が強くて、人にされたひどいことをいつまでも怨んでいたこと。これらが罪なのです。
でも自我が強く、ものすごく意地っ張りだったため、罪に気づいてもなかなかあやまることができませんでした。
イエス様の十字架の苦しみを思った時、わたしのためにこんなに苦しんでくれたのだと、心が震えました。そして、やっと素直になれ、あやまることができました。
それでも母にあやまったとき、「やっと自分が悪いって気付いたのね」なんて言われると腹が立って「せっかくあやまってるのに何よ!」と怒ってしまうわたしです。
完全に自我を捨て、謙遜になることは今でもできませんが、神さまが少しずつ変えてくださることを信じてイエス様を見上げて歩んでいます。
不当な仕打ちを受けたり、人からバカにされたりしたとき、イエス様があれほどの苦しみに耐えて下さったのだから、がまんしなければならないと思っています。
十字架にかかってわたしやあなたの罪を赦すために生まれてきてくださったイエス様。もうすぐそのイエス様のお誕生日、クリスマスですね。
クリスマスの祝福があなたのうえにもありますように。

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