生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

「戦場のラブレター」を視聴して

2009-08-10 13:40:08 | 日記
 
先日このブログで紹介した番組、 NNNドキュメント「戦場のラブレター」を見ました。

戦場となった硫黄島で、ひとりのアメリカ兵(ライマン・コリーさん)が手紙を拾いました。それは戦地の夫に宛てた妻からの手紙でした。ライマンさんは日本語で書かれた文章の意味を理解することはできませんでしたが、雨が降ったにもかかわらず濡れていない手紙をなぜか捨てられずポケットにしまいました。

数日後、怪我をして手紙を持ったまま母国に帰りましたが、手紙のことはずっと気になっていたそうです。

あるとき宣教師にその手紙を翻訳してもらい、手紙を書いた奥さんに帰すべきではないかと思ったそうです。そして、手紙は宣教師から日本の牧師(池田先生)に託されました。

当時の住所をてがかりに、石川県に住む奥さんをみつけることができました。
池田先生ご夫妻は手紙を持って奥さんの家を訪ねました。奥さんは89歳になっていました。
 
手紙を読み上げると、奥さんは涙を流されました。
奥さんは、結婚して男の子が与えられていました。手紙で2人目の子供を授かったことを夫に知らせています。夫からの葉書には、赤ん坊の名前が書かれていました。

奥さんは、夫が必ず戻ってくると信じていたのです。
けれども夫はもどってきませんでした。硫黄島での戦いの様子は悲惨でした。たくさんの日本兵が亡くなり、アメリカ兵も亡くなりました。

手紙を拾ったライマンさんは、手紙を届けることによって遺族に米兵に対する憎しみが起きるのではないか。心の傷が深まるのではないかと気遣って返すのをためらったそうです。

でも、そのようなことはなく、ただ「手紙ではなく夫に帰って来てほしかった」と奥さんは言われました。

当時坊やだった息子さんは、記憶にない父親のことを知りたくなったと言われ、硫黄島の生き残り元日本兵の家を訪ねます。その人は硫黄島でのことを話して涙ぐんでいました。戦死した者に対して自分が生き残ったことがうしろめたいと苦しんでいるのです。
手紙を拾ったライマンさんも同じように苦しんでいました。

その後息子さんは硫黄島の日米合同慰霊祭に行きました。日米合同で慰霊式が行われているのは硫黄島だけだそうです。

父親の手紙が落ちていたと思われる(おそらくそこに遺骨がある)場所にどんなに望んでも飲めなかった故郷の水を注いでいました。

戦争によって、まだ生きられる尊い命が奪われ、多くの家族が苦しみました。
生きて帰れた人は、その後の人生を苦しみを背負って生きることになりました。

わたしの父も学徒出陣で戦地に出向き、シベリアで捕虜となりました。チフスに罹り、しばらくの間、次に死亡する人のリストの一番上に名前が書かれていたそうです。

多くの戦友が亡くなりましたが、父は奇跡的に回復して帰国できたのです。しかし、そのときのことを一生ひきずっていたようです。召される1週間前、ホスピスでチャプレンの先生にシベリアでのことをすべて話してほっとしたような顔になりました。

 
戦争に勝利はない。両国とも負け。たとえ勝ったとしても後には何も生まれない。
と言ったライマンさんの言葉が心にしみました。

硫黄島の夫にあてた手紙が60数年後に戻ってくると誰が想像したでしょうか。天の配剤を感じました。

手紙がぬれていなかったこと。米兵が拾ったこと。その人が60数年も大事に取っていたこと。宣教師に見せたこと。宣教師が埼玉県川越の池田先生に託したこと。池田先生ご夫妻が石川県まで足を運んだこと。どれひとつ欠けても実現しなかったことです。そしてそれがテレビ放送されたこと。

ひとつひとつに神様が働いて下さったのだと思いました。
 

再放送は8/15(土)日テレ 24:00~です。

*日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。

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