生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

決して見捨てられないという約束

2009-08-25 11:31:51 | 日記

昨日、わたしの書いた詩に曲をつけてくださったチャキさんと電話でお話しました。神様のしてくださった素晴らしいことに改めて心ふるわせました。
今日感じた神様のカリス(恵み)を書きます。


我が家の前の広場で小学生たちが毎朝ラジオ体操をしています。
わたしは窓を少し開けて、外から流れてくるラジオにあわせて(ひそかに)家の中で体操をしています。今朝も体操をしていると、第一が終わったあと、緊急地震速報が流れました。関東に強い地震が起きるというのです。あわてて主人を起こし、安全なところで身構えて祈っていました。1分、2分・・・5分過ぎても揺れは感じられません。

「いつ揺れるのかしら」と聞くと、「もう揺れないよ」と主人。
テレビをつけると、千葉県で地震があったけれど揺れを感じた地域はなかったとか。後に誤報とわかり安心しました。

そういえば先日パソコンの設置位置を変えたのに地震止めをしていなかったことに気づき、しっかりと止めました。

考えてみると、どこにいてもいつ大地震が起きるかわからない状況にあるわけです。主の御手の中にあって守られていることを改めて感謝しました。


大きな禍から守られたことの感動は、時が過ぎると薄れていきます。
長くクリスチャン生活を送っていると、罪赦されたことの喜びが色あせてくることがあります。イエス様の十字架によって罪赦されたことを頭ではわかっていても、その感動が失われがちになることがあります。

先日の水曜礼拝で、わたしたちの身代わりとして十字架につけられたのは、神の子イエス様でなければ、なしえなかったことだと聞きました。

その理由は2つです。
ひとつは、わたしたちと同じように罪のある人間は、十字架につけられて死んでも身代わりにはならないということ。(イエス様は神の子なので罪がありません)
もうひとつは、十字架刑の苦しみに耐えることができるのは、神様の力を持ったイエス様だけだということです。



十字架刑の肉体の苦しみだけなら、耐え得る人はいると思いました。実際ペテロは逆さ十字架につけられて殉教したと聞きますし、キリスト教迫害の時代、多くのクリスチャンが十字架刑で召されました。
でも、その人たちは決してひとりではなかったのです。イエス様が共にいて下さいました。だから耐えられたのだのと思います。

しかし、イエス様が十字架につけられたときは違いました。神様から見捨てられるという経験をしなければならなかったのです。
神様に見捨てられるとはどういうことでしょう。「天の父なる神様」と祈っても、届かないのです。
一筋の光も見えない真っ暗闇にたったひとり放り投げられた感じでしょうか。

肉体の苦しみに加えて神様から見捨てられるという非常につらい状況に耐えることができるのは、イエス様だけだったのですね。

わたしは多くの罪を犯しましたが、イエス様の十字架のおかげで、そのすべての罪を赦していただきました。そして、イエス様のおかげで、どんな状況に陥っても神様から見捨てられることは決してないことを約束していただきました。なんという恵みでしょう!!


聖書の言葉
わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(へブル13:5


イエス様がわたしのためにしてくださったことの大きさを感じ、その感謝と喜びにあふれて今日も一日歩んでいきます。



明日は児童文学者協会茨城支部の研修会に出かけます。


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