一昨日のことです。掃除をしていて指先をぶつけ、人差し指にほんのちょっと傷がつきました。右手だから大丈夫だろうとほおっておいたら化膿してきました。(左は乳癌の手術時に腋下リンパ節を切除しているので、左手に怪我をしたらすぐ外科を受診するようにと言われています)
あわてて消毒し、化膿止めの薬をつけたのですが、その薬は消費期限が2年も前に切れていることがわかりました。(汗)
夜になってズキズキ痛んできました。(明日はCSでピアノ奏楽なのにどうしよう……)
心配でたまらなかっのですが、とても疲れていたのでよく眠れました。(眠れるくらいなのでたいした痛みではなかったわけですが……)翌朝、腫れてはいるものの痛みが少し治まっていたのでピアノを弾きました。
パソコンのキーボードなら、人差し指を中指に代えて打つことができます。でも、ピアノはそういうわけにいきません。(熟練した人ならできるのかも……)夜になるとまた痛み出しました。
こんな小さな傷でも、痛むと意識がそこだけに集中して、早く治ってほしいとそのことだけを願います。
掌に釘を打たれて十字架につけられたイエスさまの痛みはどれほどだったのだろう? と思いを馳せていました。わたしだったら痛みに耐えられず逃げ出してしまうでしょう。
幸い、今朝は腫れがひき、痛みもなくなりました。感謝!!
礼拝では『信仰者の成長』についてのメッセージがありました。
「あなたは自分の品性に満足していますか?」と問いかけられてドキッとしました。
ガラテヤ人への手紙5章22.23節に「御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。このような実を実らせている人は、品性の素晴らしい人です。
わたしは、どれひとつ実らせていません。自己中心で愛に欠けた者です。自分は冷たい人間だなあとつくづく思います。
喜びと平安に満たされるには、自己受容が必要だと語られました。自己受容とは、長所も短所も含めてあるがままの自分を認めることです。神様があるがままの自分を認めて下さったことを知ることによって自己受容ができるのだと。
自己受容ができている人は、人からどんな評価を受けても揺り動かされないそうです。
さて、わたしは自己受容ができているのでしょうか? かつては人の言葉に翻弄され、傷つき落ち込んでいたわたしです。最近は傷ついたり落ち込むことが少なくなっていますが、それは周りの人がわたしに対してあたたかい言葉をいつもかけてくださるからです。
ありがたいことにわたしはいつも思いやられているのです。わたしも他者を思いやる心を持つ者になれますように……。