昨年11月に日本クリスチャン・ペンクラブから「生かされている喜び」という本が出版されました。その本に掲載されたわたしの童話を今日から3日間にわたり連載します。本は親しい人に送りましたが、この作品の感想を聞けませんでした。読んで下さったら、どうか感想をお聞かせ下さい。
風の種 土筆文香
洋治は、昼でも薄暗い森の中を歩いていた。ギシギシと葉をふみしめる音だけが聞こえる。うっそうとした木から、灰色の鳥がけたたましい声をあげて飛びたった。
洋治は大きな石をみつけると、その上にすわりこんだ。ポケットには睡眠薬とカッターナイフが入っている。睡眠薬は父親の部屋からこっそり持ってきたのだ。
(僕が自殺したことを知ったら、父さんは悲しむだろうか? いや、悲しむもんか。僕のことなんか、すぐに忘れてしまうさ)
洋治の家族は父と姉の三人だ。母親は洋治が幼いころ、病気で亡くなっている。
洋治は中学に入学してから二年半の間、ずうっといじめを受けていた。教科書をやぶられたり、物を取られたり……お金を持ってこいと脅されて、家のお金をこっそり持っていったこともある。忙しい医師の父は気づかなかった。
昨日は、学校で腹をくだしてトイレに入っていると、上からバケツの水をかけられた。廊下に引きずり出され、ズボンをぬがされた。もう少しでパンツもぬがされそうになった。いつもかばってくれていた絵里が、何も言わずにうつむいて廊下を通り過ぎていった。絵里にも見捨てられてしまった。もうがまんも限界を越えた。
洋治はこれまで自宅で何度もリストカットをしたが、そのたびにみつかっていた。
「命を粗末にして!」と父はひどく怒った。(お父さんになんか、僕の気持ちがわかるはずない)いじめのことは誰にもいえなかった。
学校を休んで朝早くから電車を乗り継ぎ、祖父母の家近くの森にやってきたのだ。幼いころから「この森には絶対に入ってはいけない」と祖父に繰り返しいわれて
きた。「どうして?」と聞くと、「魔女が森に入った者をつかまえて食べてしまうからだ」と答えた。洋治は恐ろしくて森に近づけなかった。森に入って迷子になり、死んだ子供がいたので、祖父は魔女がいるといったのだろう。人がほとんど入らないこの森の中なら、誰にも引きとめられずに死ねる。洋治は睡眠薬を袋から出して手の上に乗せた。
「ちょっとお待ち」
背後からとつぜんしわがれ声が聞こえた。木陰から黒い服の腰の曲がったお婆さんが現れた。グリム童話に出てくる魔女みたいだ。
(えっ、魔女? おじいちゃんのいってたことは本当だったのか……。魔女に食べられて死んでもいいか……)洋治は覚悟を決めて、お婆さんをみつめた。
ところがお婆さんはニコニコしていった。
「その薬は眠り薬だね」
洋治がうなずくと、
「これと取り替えてくれないか」
と洋治の目の前にしわだらけの手を差し出した。掌には一粒の種が乗っていた。
「何それ?」
洋治がたずねると、お婆さんは欠けた歯をみせて笑った。
「種だよ。風の種」
「風の種?」
「お前は、空を飛びたいと思わんかね?」
「べつに」
「空を自由に飛べたら気持ちいいぞぉ。これを食べると、風になれるんだよ。風になって地球を一周してみたらどうだい?」
洋治は、このお婆さんは、きっと頭がおかしいのだと思って黙っていた。
「わたしはね、いろんな材料を使って魔法の種を作っているんだ。若返りの水の種を作ろうと思うのだが、なかなかうまくいかなくてな。眠り薬を調合すれば、できるような気がして……。頼む、一粒でいいから分けておくれ」
お婆さんは、深く腰を曲げて洋治の顔をのぞきこんだ。
「お前さんは死ぬつもりなんだろ。風になって地球を一周してから死んだらどうだ。さあ、これをやるから、眠り薬を一粒おくれ」
薬は二十粒もある。(一粒くらい上げてもかまわないか。薬を渡せばどこかへいってくれるだろう。早くひとりになって死にたい)
洋治はお婆さんに薬を一粒差し出した。
つづく