年の初めに読んだ聖書箇所は旧約聖書のエゼキエル書7章でした。
今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする。(エゼキエル7:8)
そこには、罪深きイスラエルの民に対しての神の裁きが書かれていました。
毎日のデボーションで1章ずつ読んでいるので、たまたまこの箇所を元旦に読んだのですが、およそ新年にふさわしくない内容だと少しがっかりしました。
ところが、旧約聖書一日一章(榎本保郎著)を読むとしかし、わたしたちは神が主であることを刑罰の中に見るのではなく、救いの中に見る恵みが与えられているのであると書かれてあり、はっとしました。
旧約聖書の中で神の厳しい裁きを見たとき、そのような厳しい裁きを受けて当然な自分が、キリストの十字架により赦されているという絶大なる恵みに思いを馳せることのなかった自分を恥ずかしいと思いました。
神さまは義なる(正しい)お方なので、不正(罪)に目をつぶって見逃すことはできないのです。神さまの言葉に聞き従えば祝福を与えるという約束をいただいているのに人々は神さまに逆らうことばかりしてきました。そして、このわたしも神さまに逆らう心をもってたくさんの罪を犯してきました。
神さまに裁かれ、滅ぼされて当然なわたしが無条件で赦され、こんなにも祝福をいただいています。キリストが十字架にかかって身代わりに罰を受けてくださったおかげです。そのことを年の初めに改めて示されて心から感謝しました。
元旦礼拝ではⅠコリント人への手紙9:19.23から『自由人が奴隷に』という説教を聞きました。罪の奴隷になっていた者がキリストの十字架によって解放され、自由になりました。そのことの感謝のあらわれとして他の人の奴隷になりたいと願うようになるというメッセージは、朝のデボーションの続きのようでした。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。(ヨハネ3:16)
息子夫婦とともに年を越し、1日は主人と娘と3人で息子の新居におじゃまして楽しい時を過ごしました。昨日は千葉の主人の実家に行き、今日はこれから三鷹の実家に行きます。母が一人で正月を迎えて寂しい思いをすることがないようにと暮れから妹一家が三鷹に泊まっています。